「現場」からの憲法学――41年目の中間総括
2024年1月22日

「最終講義」のこと
稲田大学教授としての最終講義を行った。この「直言」のタイトルが、講義のタイトルである。198391日付で札幌商科大学商学部助教授として初就職して、同年919日(月)1050分から大教室で「法学」の講義を行ってから41年近く、ドイツで在外研究をした1991年度半期、1999年度、2016年度半期の計2年間を除いて、学生たちの前で講義をしてきたことになる。そして先週、2024119日(金)17時から、専任教員としての講義の最終回を行った。「憲法ⅡCという1年必修科目。試験範囲などについても触れる、受講生との関係での実質的な最終回は、112日の第12回「憲法改正とその限界」だった。

 「最終講義」というのは大学教員にとっての儀式的なもので、教え子や当該教員にゆかりの人々が自由に参加することができる。19271216日、坪内逍遙が大隈記念講堂で行った「シェークスピア最終講義」以来、「早稲田大学伝統の行事」となっている(大学ホームページより)。私の場合も、正規受講者329人のほかに、元ゼミ生や私の授業を受けた人々、さまざまなところで私と縁ができた方々が多数参加された。妻と子どもたち、孫たちも参加した。定員775人の106教室にかなりの人が入った。法学部事務所によれば、約600人が参加したとのことである。


「現場」からの憲法学ということ

まず、このタイトルの説明をしよう。私は「現場」ということにこだわってきた。実は、早大に着任した翌年、『法学セミナー』(日本評論社)編集部からの依頼で、憲法の連載をもつことになった。そのタイトルが、「現場からの憲法学」だった(全11回(508519号(19971998年)(ホームページの文献リスト35以降)。また、日本司法書士会の機関誌『月報司法書士』にも「憲法再入門Ⅰ―現場からの視点」(全6回(372377号(2003年)と「憲法再入門Ⅱ―現場からの視点」(全18回(385402号)(20042005年))を連載した(文献リスト82以降)。

私の場合、憲法問題が惹起する現実の「場」(トポス)に注目する。配布したレジュメは、その「場」をいくつか設定しただけの、これまでの教員生活のなかで一番短い、簡単なものにした(レジュメはここをクリック)。そのかわり、「場」を印象づけるさまざまな写真を使ったパワーポイントを72枚用意した。過去の写真や「歴史グッズ」の山に分け入ると、そこで時間が止まった。水島ゼミ出身者だけでなく、私の人生のなかで知り合った方々が参加する歴史的一回性の講義なので、さまざまな思いや考えが錯綜し、何を話そうかがなかなか決まらない。100分が恐ろしく短く感じ、この2週間、落ち着かない日々が続いた。

 憲法が見える現実の「場」(トポス)

「トポス」というのは「場所」を意味するギリシャ語だが、私は、憲法の基本原理と現実が軋みをあげている「場」として使っている。それが「現場」である。まず、立憲主義が見える「現場」として、裁判官弾劾裁判所(憲法64条)から話を始めた。1948年以来76年間で9件の罷免訴追事件、7件の資格回復裁判請求事件しか扱っていない。それでも予算は毎年11900万円支出している。これは「民主主義のコスト」ではなく、裁判官の職権の独立を最終的に担保するための「立憲主義のコスト」であると書いたことがある。水島1年ゼミの法廷見学は22年続けた。現在、124日に罷免訴追事件(岡口基一判事)の審理が行われるので、19の傍聴席の事前抽選に応募するようにすすめた(後日、アプライした学生から、18日に締め切られていたというメールあり)。

「国権の最高機関」(憲法41条)である国会が、とりわけこの12年間、いかに空洞化してきたかについて、とりわけ201611月のカジノ法案審議を例に話した。与党議員は質問時間があまったので、唐突に般若心経を唱え始めた(この議員は、最終講義の日に政治資金規正法違反で略式起訴され、今日付けで議員辞職願を出した)。

   次に、「投票の秘密」(憲法154項)について。これは私が2009827日の直言「「投票の秘密」は守られているか」で問題にした日本の投票記載台について、米国ロシアウクライナなどの投票所との比較なかで話した。日本の投票所のお寒い現実をもっと知ってもらいたい。

「立憲と非立憲」が問われた政府解釈の変更(集団的自衛権行使の合憲解釈)と安全保障関連法(2015年)の問題について、当時の憲法研究者の存在をかけた意見表明について紹介した(「憲法研究者と安保関連法」参照)。また、憲法改正についての論じ方についても説明した(直言「参議院で「憲法とは何か」を語る 」)。


戦争と平和の「現場」へ

私がこれまでに歩きながら考えてきた戦争と平和の「現場」について、20166月のヴェルダンの戦い100周年 から、スターリングラードの戦いの現場などを紹介した。そして、ウクライナ戦争とガザの現実を理解してもらうため、パンツァーファウストとカールグスタフを机の上に並べ、そこに旧軍の93式と99式地雷や自衛隊の72式対戦車地雷(演習用)、イスラエル軍がガザ地区周辺に設置した地雷危険の看板、を加えていった。今回、米軍の地雷探知機も初めて教室に持ち込んだ。袋から地雷を出す私の姿に、あとで孫たちは「ドラえもんのポケット」みたいといっていた。

 

「ヒロシマ」と憲法、「オキナワ」と憲法の現場へ

 『ヒロシマと憲法』と『オキナワと憲法』という編著を出しているので、私の研究者人生にとって、この2つの「現場」は重要な意味をもつ。前者については昨年12月に孫たちと広島旅行をした時のことを思い出しながら講義の準備を進めた。平和資料館の展示を孫たちと見ていて、今回最も印象に残ったのは、地方自治特別法(憲法95条)の最初のケースとなった広島平和記念都市建設法だった。資料館のパネルを撮影したものをパワポで示しつつ、憲法95条で、衆参両院で可決されても、住民投票で過半数を獲得しないと法律にならないという「国会単独立法の原則」の重要な例外について話した。旧軍港市転換法(横須賀、呉、舞鶴、佐世保)や国際観光温泉文化都市建設法(別府、熱海など)についても住民投票が行われた。だが、その後行われなくなった。米軍用地特別措置法をめぐる職務執行命令訴訟において、沖縄県は95条の住民投票が必要だと主張したが、最高裁はこれを退けた(『憲法判例百選Ⅱ[6]』有斐閣(別冊ジュリスト218号、2013)370-371頁〔水島朝穂執筆〕参照)。

    国を分断する3つの国境のうち、北緯17度線は南北ベトナムの統一で消えたが、北緯38度線は未だに残っており、北緯27度線(サンフランシスコ講和条約3条)も見えない線として存在していることを述べた(直言「沖縄が問い続けるもの─サンフランシスコ講和条約70年」)。能登半島地震の被災地からの住民避難すらままならないなか、岸田政権は沖縄の「不沈空母」化をはかり、宮古島などの住民の本土避難の計画を立てている。これは直言「沖縄を切り捨て、誰の「国益」を守るのか」で批判した通り、沖縄切り捨ての思想の復権にほかならない。「放置国家と法恥国家」日本の姿をも浮き彫りにしている(直言「この国の「憲法なき戦前」」参照)。


東日本大震災の現場へ

 この最終講義が、「阪神・淡路大震災」から29年目の翌々日ということもあって、能登半島地震の政府対応を批判しつつ、直言「「複合災害」にいかに対処するか」の根本問題を語った(直言「「北陸大震災」から見えてくるもの」参照)。

 2011427日に南相馬市を訪れたとき、そこに第一空挺団1200人が団長(陸将補)を先頭に投入されていた。原発20-30キロ圏の最前線に精鋭部隊を投入したのに比べ、「能登半島地震」では、行方不明者多数という17日に、「降下訓練始め」という恒例の行事を行っていた。なぜ、岸田首相の頭は被災地救援が第一にならないのだろうか。佐藤正久のこのノリは何だろう。


「国境」と「壁」の現場へ――「2024年は選挙イヤー」

 197911月に東西ドイツ国境で体験したことを語りつつ、あの時、東西ドイツの年金生活者が国境を超えて一時的に家族と交流してもどっていったゲートを、198911月、東ドイツの若者たちがトラバント(東の車)で突破してくる写真を見せて、「もう一つのベルリンの壁」崩壊を考えてもらった(直言「東西ドイツ国境にかかる虹」をクリック! )。しかし、いま、難民危機などを契機として各国が国境警備を厳重にし、さらに新たな「壁」を建設している状況が生まれている。8年前に書いた直言「「壁」思考の再来」よりも深刻な新たな壁の時代がきているのではないか(TBS「サンデーモーニング」17日の図参照)。

2024年は80カ国以上で国政選挙が行われる。推定42億人(世界人口の52%)が参加する。2048年まで世界が直面する最大の選挙サイクルとされている(直言2024年は世界的「選挙イヤー」」参照)。最も注目されるのは6月のEU議会選挙と11月の米合衆国大統領選挙である。前者では、各国において極右の伸長が著しい(特にフランス、ドイツ)。後者では、トランプが再び大統領となるのか。私はもはや早稲田の教室でそれらを解説することはできないが、この「直言」を通じて発信を続けたいと思う。

なぜ「中間総括」なのか

 そこで、最終講義のむすびとして、副題を「41年目の中間総括」とした意味を語った。それは、これからも講演やさまざまな媒体で発信を続けるという宣言である。まだまだ研究は続ける。しかし、大学教授という立場を離れて、自由人としてより柔軟な立場でやっていきたい。

 思えば、なぜ私が「歴史グッズ」にこだわってきたのか。そのきっかけは幼児期にさかのぼる。庭にあった二階建ての物置が私にとって、巨大なおもちゃ箱だった。友だちがたくさん押しかけ、そこにあるものをおもちゃにして遊んでいた。そのなかに、旧陸軍燃料廠の鉄兜があった。「鉄兜をかぶる幼稚園児」である。最初は1個しかなかった軍用ヘルメットがドイツ在外研究中に各国のものが増えだして、直言「わが歴史グッズの話(50)」で紹介するくらいになった。これから、これらのグッズを梱包して、研究室を撤収する仕事が待っている。

 今回の最終講義には、中1と小5の孫たちが参加した。法学部1年生の受講者に対する最終講義という意味だけでなく、この孫たちへの最初の講義という意味も実はあった。8年前の「直言」の冒頭の写真のなかの小さな2は、106教室の最前列でしっかり私の講義を聞いてくれた。終了後の第一声は、「よくわかった」だった。先月、一緒に広島をまわったかいがあった。次世代につなぎたい、そのためには身近な孫に理解してもらうことが大事と考え、準備の過程で孫たちのことを意識した。でも、「トポスって何? タコスみたいだね」といわれて爆笑だった。

 ムードルの感想コーナーをみると、「歴史グッズの「閉店セール」のように次々出てきた楽しかった」という感想があった。「私が座っていた席の周りは社会人の方がたくさんいました。先生のゼミの卒業生の方達などは、みんなキラキラして、カッコよく見えて、社会でたくさん活躍されているのだろうなと感じました。自分も5年後、10年後こういう風になれているのだろうかと考えながらキョロキョロしてしまいました」というのもあった。受講生の倍の600人が教室に入った最終講義はこうして終わった。

終了後、リーガロイヤルホテル東京で「水島朝穂先生最終講義祝賀会」が開かれ、「水島会」関係者を中心に150人近くが参加した。妻と娘夫婦、孫たちも招待していただいた。コロナ直前まで15年続いたゼミの「おでん会」で、当時1歳だった孫と遊んでくれたゼミ出身者は、祝賀会の会場で中学生になった孫と再会して驚いていた。時の流れを実感する瞬間だった。

最終講義を準備していただいた学部当局、職員の皆さん、参加された同僚の皆さん、および関係者の皆さんに心からお礼申し上げたい。また、祝賀会に参加された皆さんにもお礼申し上げる。どうもありがとう。

なお、私の定年退職に向けてメールや手紙をいただくが、そのなかに、私が早稲田を「退官」すると書いておられる方がいる。早稲田は私立大学なので(しかも大隈重信「在野精神」の大学)、「教官」はいない。「定年退職」である。26年前の直言「「私立大学教官」と「大学生徒」」を参照のこと。


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