『法学セミナー』一九九五年一月号
読売「憲法改正試案」にもり込まれた危険な意図
                         水島 朝穂(広島大学助教授)

◆四八年前の読売憲法論◆
 「新憲法をしっかりと身につけ新憲法を一貫して流れる民主主義的精神を自分たちのものとすることによって、われわれははじめて平和国家の国民としてたち直ることができるのである。」
 読売新聞社が、日本国憲法公布の日(一九四六年一一月三日)に発行した『新憲法読本』の一節である。九条解説の部分には、「新しい時代の平和の典型として日本憲法を見るならば、ある程度の戦力保持の必要を漠然と感じる危惧感は、この憲法によって再生しようとする日本国民のヒューマニズムを踏みにじるものでしかない。それは単なる感傷の域を脱しない小市民的感情であろう」とまで書かれていた。
 四八年後の同じ日、この新聞社は、「新憲法」の戦力不保持規定を削除して「新・新憲法」を目指す全一一章一〇八箇条の「憲法改正試案」(以下、「試案」という)を大仰に発表した。

◆「試案」ではなく「私案」◆
 質(クォリティ)においてではなく、量において「世界一」の大新聞(自称一〇〇八万部)が、全三六頁の紙面(東京本社一四版)のうちの八頁も割いて改憲案を打ち出したのも異例ならば、直前までその内容を約七五〇〇人の社員に徹底的に伏せていたのも尋常ではない。これは、読売新聞社としての「試案」ではなく、より正確には「渡辺恒雄社長と一二人のイカれる男たち(論説委員と各部デスク級。なぜか女性は一人も含まれていない)」によってまとめられた「私案」というべきだろう。
 「社内に敷かれた厳重な箝口令」(『週刊現代』一一月一二日号)と指摘されたように、事前リークへのガードは異常に固かったという。読売新聞とほぼ同じベクトルを志向する『SAPIO』(小学館)一一月一〇日号の「前触れ記事」でさえ、条文の数や位置などが違っていたほどである。だが、一一月一〇日発売の『文藝春秋』一二月号には素早く転載されている。月刊誌の制作工程からみて、一一月三日以前の事前入稿なしにはあり得ない。市民や読売社員の圧倒的多数には「秘密」でも、特定の外部雑誌とはオープンな提携関係が存したわけである。この作業・発表方法の「密室性」は、「試案」に知る権利や情報公開に関する規定がないことと妙に符合する。
 九二年一二月公表の改憲案が「憲法問題調査会第一次提言」とされていたのと比べ、今回のものは読売新聞社としての案ということで、より踏み込んだ形をとっている。
 一般に、憲法改正を論ずることそれ自体は、改正案の提示も含めて基本的に自由である。日本国憲法は、自らを対象化させ、その改廃を論ずる自由をも保障していると解される。ただ、それはあくまでも個人レヴェルの問題であって、巨大メディアとなれば話は別である。憲法論議を活発化させるといいながら、権力を監視・チェックすべき言論機関が、権力側の政策を丸飲みするような改憲案を直接打ち出すことは、メディアの社会的責任と機能という点からも問題とされよう。また、新聞社が、特定の統治政策への強力なオリエンテーション(方向づけ)機能を直接果たす立場に徹した場合、当該新聞社の構成員(特に報道記者)の「プレスの内部的自由」との関係が出てくる。さらに、当該紙の読者(「受け手」)の側にも、情報選択の幅が制約されるという問題が生じるだろう。「試案」は、野球界にも「軍」を保持する巨大メディアの「奢り・昂り宣言」といえよう。

◆「普通の國」の憲法へ◆
 「試案」は、憲法典の形式に関わる整序や、文言上の改善、人権条項の「補充」などを含む。例えば、第一章に国民主権を置き、天皇を第二章に下げたこと、「権限を有する司法官憲」を「裁判官」と明示したこと(「試案」三七、三九条)、衆院解散の主体の明確化(七七条)、国籍離脱の自由の保障の主語を「何人」から「国民」に変えたこと(二四条二項)、環境権(二八条)や「人格権」(一九条)の規定新設、等々である。だが、そこでいわれているものは、長年にわたる学説・判例の蓄積、実際の運用のなかですでに定着してきたものが多い。「参議院の優越」(六八、六九条)など、思いつきの域を出ない恣意的なものも含まれている。憲法典としての形式・文言上、より「美しい」にこしたことはないが、あえて明文改正するまでもない。むしろ、そうした「改憲遊び」の影に、「試案」の本当の狙いが見え隠れする。「試案」の問題点すべてにメンションする余裕はないが、さしあたり次の三点のみ指摘しておこう。

1 第九条二項の改正意図
 第一に、従来から改憲案(構想)の最大の目標・焦点であった憲法九条二項の扱いである。「試案」は、「日本国は、自らの平和と独立を守り、その安全を保つため、自衛のための組織を持つことができる」と規定する(一一条一項)。九二年「第一次提言」のような「安全保障基本法」という法律のクッションを経由せず、直接に九条二項の削除を提案しているわけである。「強気」に出た背景には、この間の社会党の変化(自衛隊合憲論への「転進」)があることはいうまでもない。しかし、「試案」の射程は、単なる「自衛隊の合憲化」にとどまってはいない。現代における軍事機能の多様なメニューに柔軟に対応できるよう、以下のような様々な仕かけがセットされている。
 まず、「第一次提言」にあった「必要最小限」という限定を外し、「厳格な文民統制」という文言を落とすことによって、軍事装置の柔軟かつ円滑な発動を可能にしている。「必要最小限」削除の狙いは、「試案」解説記事のなかで、「集団的自衛権を保持していることが、より一層、明確になろう」と自賛している点と関わってくる。だが、「試案」一一条一項が集団的自衛権を認めていると読むことはかなり無理がある。また、首相の指揮監督権というだけで、議会の関与・統制の視点が欠落している。
 次に、「試案」は「非人道的な無差別大量殺傷兵器」の禁止を、製造・保有・使用のレヴェルに限定している(一〇条二項)。戦術核兵器の「持ち込み」(配備)、「通過」は必ずしも否定されていない。「非核三原則」の「二・五原則化」を憲法規範のレヴェルに高めようという試みといえよう。
 さらに、「確立された国際的機構の活動」(一三条前段)は、国連のみならず、NATOをはじめとする軍事同盟条約なども含みうる。「平和の維持及び促進並びに人道的支援の活動」への「自衛のための組織の一部」の提供(同後段)の規定も、国連PKOの活動のみならず、「平和強制部隊」(PEU)や湾岸多国籍軍など、広範な軍事的出動形態への参加の可能性を開いている。「自衛隊」という文言をあえて使用せず、「自衛のための組織」というファジーな表現にとどめたのも、将来「自衛軍」ないし「日本国軍」へのグレードアップの可能性をにらんだものだろう。

2 第一八条の削除の意味するもの
 「自衛のための組織に、参加を強制されない」(一一条三項)としながら、従来から徴兵制禁止の根拠条文とされてきた憲法一八条(意に反する苦役からの自由)をさりげなく削除している点も見逃せない。従来の政府解釈は、徴兵制の違憲性を説明する際に、憲法九条との関係を切断し、もっぱら一八条にのみ根拠を求めてきた。そのため、「防衛負担」の様々な形態を違憲ではないとする解釈の余地を生んできた。今回の「試案」が一八条を削除したことは、「国際活動への参加」(「試案」一三条)の拡大に照応した「国際活動負担」を、地方公務員や一般国民にも課していくことをも可能にしている(PKO協力法にもすでに一定の負担形態が存する)。「試案」一一条三項と憲法一八条削除とがセットになれば、志願制である「自衛のための組織」以外の活動への参加強制の可能性はむしろ広がるのである。

3 軍法会議への布石?
 最後に、軍法会議の設置を不可能にしてきた憲法七六条二項(特別裁判所の禁止)改正についてである。警察予備隊創設に関わったGHQのF・コワルスキー大佐自身が述べているように、七六条二項は、九条二項および一八条と並んで、日本再軍備の大きな障害であった(『日本再軍備』サイマル出版)。現在も、自衛隊には軍法会議は存在せず、自衛隊関係の事件も通常裁判所の裁判権の下にある。今後、自衛隊の海外出動の機会が広がるにつれて、より厳格な規律保持のため、軍刑法や軍法会議といった制度の必要性は一層増大してくるだろう。「特別裁判所」から「特例の裁判所」(「試案」八五条二項)に改めることが、防衛秘密や「自衛のための組織」固有の事件を扱う「防衛裁判所」の設置を容易にするかどうかは即断できないが、「試案」が七六条二項に手をつけたことの意味が、起草者の予想以上に大きいことは確かである。
 一言でいえば、これら一連の改正点の狙いは、「大きくてギラリと光る『普通の國』」への道の憲法的正当化にほかならない。

◆官僚主導の「強力な政府」◆
 第二に、「試案」においては、官僚主導の「強力な政府」、行政権優位の強力な統治システムが目指されている。それは、特に内閣総理大臣(首相)の地位、権限の強化に端的にあらわれている。「国務大臣を統率」(七四条二項)、「行政各部を統括」(八一条)、「自衛のための組織の最高の指揮監督権」(一一条二項)等々。四二歳の若き中曾根康弘氏が出した「高度民主主義民定憲法草案」(一九六一年一月)では、大統領型の首相が提唱されていた。そこでの強力な首相権限は、国民による「内閣首相および内閣副首相の選挙」(中曾根案七九条)により、まがりなりにも「民主的正当性」が担保されていた。今回の「試案」は、首相公選論を退ける一方で、現行の議院内閣制の仕組みには手をつけずに、首相の権限強化のみを突出させている。緊急事態における首相権限は規定されていないが、「時期尚早」と判断されただけで、ペンディングにされている点は注意を要する(試案解説『THIS IS 読売』一二月号)。
 また、憲法裁判所の設置は今回の「試案」の数少ない「目玉」の一つである。もっとも、この部分は、憲法判断に消極的な裁判所の現状への批判から、一部に期待する向きもある。しかし、憲法裁判所設置による憲法判断積極主義は、必ずしも国民の人権侵害状況の是正にとってプラスとはならないだろう。ドイツ連邦憲法裁判所を真似したようだが、ドイツの場合、憲法裁判所への係属事件の九五%は、公権力の基本権侵害に対する救済を求める憲法訴願(Verfassungsbeschwerde) である。「試案」八七条三項の「異議申し立て」は、ドイツの憲法訴願とは相当な距離がある。全体的な脈絡抜きで、唐突に外国の制度を持ち込んで来る安易さもさることながら、むしろ主眼は、内閣が、合憲の「御墨付」を迅速かつ確実に獲得することにあるといえよう。下級裁判所による違憲判断の可能性を遮断することも、これと連動している。この国の司法の現状では、「合憲判断積極主義」の制度化になりかねない。
さらに、憲法裁判所による合憲判決でも不十分となれば、その時々の統治政策に合わせて憲法を変えていけばよいというわけか、「試案」一〇八条は、憲法改正のハードルを著しく低くしている。国民投票を必要とする場合を、「在籍議員」の九分の四以上を獲得できなかった場合に限定するなど、規定の仕方もあまりに政策的である。

◆立憲主義軽視の改憲試案◆
 第三に、「試案」の根底にある、憲法の「存在の耐えられない軽さ」が危惧される。立憲主義軽視の思想が、「試案」の通奏低音として流れている。例えば、「簡素化」と称して、前文に示される立憲主義の諸命題がことごとく削ぎ落とされている。ちなみに、アメリカ人のデーブ・スペクター氏は、日本国憲法前文を「海外に行って人に見せたくなる」「すばらしい文章」と述べて「試案」を批判しており、興味深い(『夕刊フジ』一一月一二日付)。
 人権条項の「総則」部分で、人権を行使する国民に対して「公共の福祉との調和」を求めている点も問題である。さらに「試案」は、国務大臣など国家権力の担い手に対して憲法尊重擁護義務を課した憲法九九条を削除して、逆に一般国民に対してそれを要求している。そもそも日本国憲法は、国民に対して「憲法忠誠」 (Verfassungstreue) を求めてはいない。「試案」には逆転した発想がうかがえる。前述した憲法改正手続の政策的「軟化」にも、立憲主義軽視の姿勢が読み取れる。
「試案」は「二一世紀に通用する未来志向型憲法をめざした」という。だが、権力の側には立憲的制約を緩和して、広範な裁量権を与える一方で、国民の側には「公共の福祉との調和」や「憲法遵守」を要求する憲法とは一体何なのか。それは「未来志向型憲法」などでは決してなく、欧米の「普通の国」の水準にも達しない、この国の後進性と権威主義的体質を助長・促進する「現状追認型憲法」への退歩でしかないだろう。 憲法研究者のなかからも、あるいは大胆に、時には密やかに、現状追認(自衛隊合憲論等)への「転進」傾向が生まれている。そうした状況からすれば、一新聞社の「試案」としてたかをくくっているわけにはいかないだろう。
 日本国憲法は、軍事に関わる一切のオプションを自ら放棄することによって、安易で簡易な軍事力行使のみちをとらない、平和主義に徹する創意と工夫を日本国民に求めている。この憲法の無軍備平和主義こそ、冷戦終結後の世界の複雑な事態を克服して、二一世紀に平和な国際社会を確立していくための方向と内容を示しているのである。

〔一九九四年一一月一三日稿〕

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