「新聞を読んで」 〜NHKラジオ第一放送(1997年8月24日午前0時30分放送)

今週の出来事について、新聞を読みながら考えてみたいと思います。お盆休みから今週にかけて、陰惨な殺人事件や強盗事件が相次ぎました。なぜか20代の若者たちのケースが多いのが気になります。また、23日の朝刊各紙のトップ記事は北朝鮮との国交正常化の交渉が5 年ぶりに再開され、北朝鮮にいるといわれる約1800人の日本人妻の里帰りの見通しがついたことをトップで報道しています。久し振りに明るいニュースですが、一方で北朝鮮の国内事情や、「朝鮮有事」ということで北朝鮮シフトをしている日米の思惑も絡み、交渉の今後は予断を許しません。人道的観点を優先して取り組むべきだと思います。


1.行革会議の省庁再編案が確定したこと

さて、今日お話ししたいのは、3 つあります。まず、政府の行革会議で固まった中央省庁再編案です。各新聞とも、20日付朝刊からほとんどトップはこれでした。行革会議の集中審議が終わった22日付朝刊がピークでした。ポイントは、従来の22省庁を、内閣府と12の省庁に再編するというもの。これで、省庁はほぼ半減します。
 まず、19日付『毎日』は、「21世紀への理念3 原則」という見出しを掲げ、行革の理念として、自由、公正、効率化の3原則を紹介しています。『朝日』22付解説は、数合わせが優先されたことを批判し、「再編後の行政組織が、国民にどのような公的サービスを提供し、納税者の付託にこたえるものになるのかは、この構想からは見えてこない」と書いています。さらに進んで、「誰の、どのような自由」がこれで確保されのか、どういう公正さなのか、効率さも誰を基準にしたものなのか、と一般国民を基準に見ていくと、かなり疑問があります。たとえば、郵政省の解体と、簡易保険の民営化や郵便貯金の将来の民営化なども、一般の預金者にとって果たして利益になるかは議論のあるところです。農林水産省をなくすのも、農業軽視だし、国土開発省など、現存の会社と同じ名称で、数兆円単位の金を動かす総合利権官庁になりかねません。
 とくに焦点となった大蔵省について。『朝日』22日付社説は、財政と金融の分離が見送られたことを批判。「権限が集中する大蔵省に財政と金融を併せ持たせることは、住専処理への税金投入などで厳しく批判された規律のない行政を許す……それでは、改革の名に値しない」と書きました。
 対照的なのは、『読売』22日付社説です。「財政・金融の一体は当然だ」という見出しで、行政の効率性と実効性の維持には、権限の集約も重要であるとして、分離論を批判しています。ちなみに、この新聞社の社長は行革会議の有力メンバーであり、一体論を強く主張していましたから、この社説はまさに社長の見解と一体というわけでしょうか。
 この再編案は、2001年から実施だそうですが、大臣になる順番待ちをしている国会議員にとっては、厳しい選択。官僚にとっても、ポストをめぐる利害がからむ。さまざまな抵抗がある。『東京新聞』20日付は、その反応を「外野騒然」と書きました。「権限もない学者がこんな大切なこと決められるか」との批判が出たといいます。大新聞の社長や「国際政治学者」らの思いつきでこんな大問題を動かされては困るというわけでしょう。ただ、内閣機能が著しく強化され、大統領型を目指す内容は、『読売』は首相のリーダーシップとして評価していますが、逆に、内閣官房の権限強化など、地方分権の時代に妙に中央集権的志向が強いのが気になります。『東京新聞』21日付は、首相個人が野党時代に書いた私案をぐいぐい推進していると書きました。こうした大問題を、中央集権的にやりすぎることは、時代の要請にあっているとは思えません。もっと地方に権限を分けるべきでしょう。
 そこで思い出したことがあります。国立大学を中心に、昨年くらいまでさかんに学部や学科の改組・再編が行われました。大学の教員が目の色を変えて取り組んだのですが、その中心は、どんな科目名にするかとか、この科目とあの科目をつなげて、斬新なネーミングで括り直すとか。結局、既存のポストを前提にして、その数合わせ、括り直しの印象が強かった。肝心な、学生にとって魅力的授業とは何か、どういう工夫が授業に必要かといった中身の議論はほとんどありませんでした。だから、学生にとっては新しい学科になり、科目名が変わったけれど、教室へ行ってみたら、同じ教授が古いノートをひたすら読み上げていたということも起こりました。たとえは悪いですが、客の入らない不味いラーメン屋とソバ屋と焼き肉屋が集まって、きれいなビルに「東アジア・レストラン」を作った。客が行ってみると、同じラーメンとソバと焼き肉が出てきて、味は昔のまま。だけど値段はかなり上げられていた。つまり、客にとってのサービスは、美味しいラーメンが食べたいということなのに、その中身の努力をしないでビルと見栄えと値段だけが上がったという例です。
 行政も同じです。国民に対する、いかなるサービスが必要かという視点での真の行政改革が必要だし、その場合、情報公開法を早く制定することが大切です。歴史上、首相の権限強化だけがことさら強調されるときに、社会がよくなった例はありません。


2.劣化ウラン弾問題

2つ目の事件は、『毎日』17日付が書いたソウル発の特電。劣化ウラン弾を、沖縄の海兵隊基地から韓国の米軍基地に移送することについて、韓国の環境保護団体が反対を表明したという記事。この小さな記事の問題の奥行きは広い。
 湾岸戦争症候群というのがあります。湾岸戦争から帰還した米兵などに白血病などの症状が出て、また戦争のあと生まれた子供に障害児が出ていることを指します。この原因として、湾岸戦争でアメリカがイラクに使用した、劣化ウランを使った砲弾の影響が指摘されています。砲弾が爆発したあと、二酸化ウランの微粒子が飛び散って、人々の体内に入り病気になる。政府はこれを否定。しかし、『毎日』6 月25日付がスクープしたように、アメリカの議会で問題にされ、事実が明らかになってきました。その後、この問題では『毎日』の記事が圧倒的に先行した。他紙のフォローが少ないのが気になります。劣化ウラン弾は沖縄の嘉手納基地や山口県・岩国基地に置かれていましたから、もっと他紙も追うべきでした。
 沖縄の鳥島にある米軍の射爆撃場に劣化ウラン弾が誤って打ち込まれた記事は、今年2月11日付の各紙とも1面トップで報道しました。ただ、沖縄の『琉球新報』16日付によると、鳥島の劣化ウラン弾の回収は進まず、まだ130 発が残っているといいます。そして、先週15日、米軍司令部が日本国内の海兵隊基地に貯蔵していた劣化ウラン弾をすべて撤去したと発表しました。ただ、『琉球新報』は、撤去したと発表したのは海兵隊だけで、陸軍や空軍については触れていないことを危惧しています。日本国内に劣化ウラン弾がないという保証はないわけです。
 それと、もう一つの問題は、『毎日』8 月17日付ソウル電が報ずるように、沖縄から撤去した劣化ウラン弾を韓国に移すという問題があります。日本になければいいという問題ではない。韓国の環境団体の動きを報じた『毎日』はフォローがいいといえましょう。  劣化ウラン弾は通常兵器ですが、爆発したあと大量の二酸化ウランを撒き散らすという意味で、機能的には核兵器です。この問題にもっと国民は関心をもつべきだと思います。
 これと関連して、22付各紙夕刊は、アメリカが新型の核爆弾B61−11を開発して、50発を国内の米軍基地に配備したと報じました。『毎日』だけは一面トップ扱い。これは、米ソ冷戦後、核兵器廃絶の動きが一層強まっているのに、戦略兵器や中距離兵器でないからといって、核爆弾を新たに開発・配備するのは非常に問題でありまする。このB60−11は、今後、海外の米軍基地、とくに沖縄の米軍基地に配備されないという保証はありません。注目すべき問題だと思います。


3.条例によるインターネット規制

3つ目は、ちょっと視点を変えて、福岡県が青少年健全育成条例を改正して、インターネットのわいせつ画像を規制したという話。これも『毎日』21日付が詳しく伝え、他紙(東京本社版)のフォローはありませんでした。
 青少年条例で、インターネットのホームページやパソコン通信のメッセージ上の青少年にとっての有害な情報を「有害図書類」と見做し、接続業者・プロバイダーやパソコン通信業者に、「青少年に見せ、聞かせてはならない」という義務を課したもの。さすがに罰則はありませんが、明らかに内容的規制を加えているもので、この条例改正は、県議会で質疑・議論もなしに、全会一致で成立したそうです。これは非常に問題です。アメリカでは、インターネット上の品位を欠いた情報を規制しようとした通信品位法が連邦最高裁により憲法違反と判断されたばかりです。インターネットの可能性は地球規模で通信・交流ができること。確かに顔をしかめるようなわいせつ画像がたくさんあるが、だからといって、公権力が安易な規制に乗り出すことは、インターネットのメリットを失わせるだけでなく、表現の自由の新しい可能性を奪うおそれさえあります。
 実際、県内のホームページにごくおとなしい画像をおいて、わいせつ画像を他の県に置いてリンクしたらどうなるか、など全然ツメがなされていません。インターネットというのは、一つの県でその内容に規制を加えられるはずもないもので、実際的効果も疑問だし、何よりも、そもそもインターネット上のデジタル映像を、ものを前提にして定められた有害図書という概念に含めることも問題です。
 共産党を含む全会一致というのも怖い。インターネットに関する知識を欠いたまま、あれこれ規制を加えてくることは控えるべきでしょう。だろう。私もインターネットに「平和憲法のメッセージ」というホームページを開いていますが、思わぬところからメールが飛び込み、反響の大きさと多様さ、意外性に驚いています。けしからんから規制だということに走らない、慎重さが求められます。

 それでは、今日はこのへんで。



    「新聞を読んで」( 1997年 8月24日午前 0時30分放送 NHKラジオ第一放送)