「新聞を読んで」 〜NHKラジオ第一放送
      (2001年03月24日午後4 時収録、25日午前5 時30分)

1.タリバン政権によるバーミヤンの仏教遺跡破壊

 先週から今週にかけてタイ、カンボジア、ラオスなどをまわっておりました。毎朝ホテルで現地の英字新聞を読んでいると、注目されていたのがアフガニスタンのイスラム原理主義勢力、タリバン政権によるバーミヤンの仏教遺跡・巨大石仏の破壊問題でした。タリバンが仏像破壊命令を出して以来、仏教国タイの外務大臣をはじめ、国際的にも非難が高まりました。帰国後、新聞各紙を整理していて一番驚いたのは、『毎日新聞』18日付朝刊でした。一面トップ。雪山の写真入りで「『こいつらは敵』銃殺宣告」という目をむく大見出しで、バーミヤンに向かった毎日特派員がタリバンに3時間にわたり身柄拘束されたことを伝えています。外国人立ち入りが厳しく禁止されたバーミヤンに入ったのは世界のメディアで初めてといい、「国家機密に対するスパイ活動」容疑で一時拘束された模様を生々しく伝えています。検問所の指揮官が銃殺を宣告したと特派員は書いていますが、3時間後には解放されたそうです。メディアや国連関係者であるとを問わず、外国人はバーミヤンに一歩も入れるなと、先月26日にタリバンの最高指導者が命令を出していましたから、身柄拘束は十分予想されたことです。ですから、バーミヤンに通ずる最初の検問所で身柄拘束されたことを「世界初の大スクープ」というわけにはいかないでしょう。記述の生々しさのわりに、得るものの少ない記事でした。むしろ、このタイミングでなぜタリバンが世界的な仏教遺跡の破壊に出たのかの背景を知りたいところです。『毎日新聞』19日付はカイロ特派員の「教義の名を借りた"蛮行"」という見出しの解説で、「ヒンズー遺跡は破壊しない」とするタリバンの「論理矛盾」を突き、遺跡破壊は政治的意図に基づく蛮行と書いています。『東京新聞』22付文化欄には、インド・中央アジアの仏教美術の専門家が、この遺跡がいかに価値あるものかを書いています。これを読むと、この遺跡の破壊がいかに大きな人類的損失かが伝わってきます。一方、『朝日新聞』23日付は、仏像破壊をやめるようタリバンを説得したエジプトのイスラム指導者ワセル師へのインタビュー記事を掲載。イスラム教で偶像崇拝は禁止されているが、イラスムが異教徒や異文化を尊重する教えであるとして、タリバンの解釈は誤解に基づくと述べ、「彼らが破壊した仏像は偶像崇拝の対象ではなく、人類の歴史遺産だ」と批判します。注目されるのは、ワセル師が、旧ソ連の侵攻と長引く内戦、国際社会の制裁の結果、タリバンが意思疎通の手段を奪われ、イスラム世界の中心的な教えや文化との結びつきを失ったこと、国内にイスラムを学ぶ施設がないため、高いレベルの宗教教育を受けておらず、アラビア語の理解にも欠けていることなどを指摘し、こうした孤立が誤った解釈に走らせた原因と分析している点です。ワセル師はタリバンの孤立を放置してきた国際社会にも責任があるとしています。 ここで私は二つ指摘しておきたいと思います。一つは、タリバンが行った仏像破壊は確かにセンセーショナルでしたが、遺跡に対してだけでなく、人間に対して行っていること、つまりタリバンが国内で行っている人権侵害的な政策、とくに女性に対する著しい人権侵害についても、この機会に十分に世界は注目しておく必要があることです。
 二つ目は、にもかかわらず、この事件を通じて、西欧文化とイスラムとの「文明の衝突」をことさら誇張して、イスラムを不可解で、おそろしいもの、だから力で対処しようという方向にいくのではなく、ノルウェーの平和学者J・ガルトゥングがいうように、タリバンのような「文化的暴力」に対処するには、時間をかけた文化外交的な対応策、処方箋が求められているように思います。ワセル師のようなイスラム圏の人々の粘り強い働きかけが、国際社会の働きかけとも連携して継続的に行われる必要があるでしょう。この点、『朝日』のカイロ特派員のインタビュー記事は実に示唆的な内容でした。

2.えひめ丸事件の査問会議

さて、今週私が注目した二つ目の出来事は、えひめ丸事件で、米海軍査問会議の審理が終了したことを報ずる各紙の記事です。21日付各紙夕刊は一面トップ、ほとんどがカラー写真を使い、事故を起こした潜水艦のワドル艦長が、それまでの証言拒否を姿勢を一転して、宣誓証言を行ったことを伝えています。見出しのトーンは激しく、「『私の責任』はどこへ、宙に浮く前艦長の言葉」(朝日)、「謝罪ののち責任転嫁」「部下が、部下がを連発」(毎日)、「保身優先、見えぬ責任」(東京22日付)等々。この事件については、さまざまな角度から論ずる必要がありますが、ここでは、当日各紙のトーンで気になった点を二つだけ述べておきます。
 まず、アメリカと日本の市民の法感覚の違いについて。えひめ丸事件では、とくに「謝罪」をめぐる認識の違いがクローズアップされました。家族への謝罪、証言拒否、一転して宣誓証言へ。「あえて宣誓証言、なぜ?」という見出しの『読売』21付夕刊の解説によれば、証言免責が却下された直後に、あえて宣誓証言を行い、世論を動かして寛大な処分を狙う作戦という見方が有力です。『朝日』22日付コラムは、ある会合で、30分ほど遅刻した首相が、手でスマンスマンというポーズを示しながら、「アイ・アム・ソーリー」とやって一同爆笑。「ごめんなさい」(ソーリー)も総理大臣(ソーリ)も、何と軽いことかと書いています。日本の首相をまだやっている人物のこの安易で軽率なパフォーマンスはさておき、まず謝罪ありきの日本と、簡単には謝らない訴訟社会のアメリカとのずれが、今回の証言をめぐってもあらわれました。『愛媛新聞』22日付社説は、地元の行方不明者の家族の立場に徹底して立ち、「証言は家族の感情を逆撫でする」として、ワドル前艦長側の証言の仕方や、法廷戦術を厳しく批判しています。一方、『産経新聞』23日付社説は、「艦長憎しでは本質見誤る」と、軍法会議になじみのない日本の読者に向かって、「普通の軍隊」をもつ国の「常識」はこうだと先回り的な解説を試みています。軍法会議では命令違反・規律違反が重要で、一般の刑事裁判とは違うから、艦長個人の過失責任の追及に過大な期待を抱くべきではないというわけです。アメリカの場合、法的な責任が問われる場面では、当事者の権利を守るため、感情抜きで法的な武器を総動員します。司法取引や証言免責などの手段を堂々と行使することは、日本人的感覚にはあまりなじまないのですが、訴訟社会の欧米では当然に行われています。被害者の家族にとっては、そうした態度の一つひとつが「謝罪していない」と映るのは理解できます。だからこそ、日本政府は毅然たる姿勢をとって、主張すべきことは主張すべきだったのです。しかし、事故直後の2月13日に、外務省桜田政務官が「〔米側には〕落ち度はなかったと認識している」と先回りして擁護しました。軍法会議が開かれるかどうか1月以内に決まりますが、一般の刑事裁判ではない以上、前艦長が不起訴か無罪になる可能性も強く、この問題の傷口はさらに広がるでしょう。
 さて、前艦長の証言をめぐる記事を読むなかで気になったもう一つの点は、この事件は単なる海難事故ではなく、構造的な問題を含んでいることです。例えて言えば、リストラになりそうな戦車部隊で、住民を体験搭乗させて生き残りキャンペーンを実施中、戦車が暴走して道路に飛び出し、通りかかったスクールバスを押しつぶしたようなものです。暴走させた戦車長の業務上過失致死が問われることはもちろん、そうしたキャンペーンを実施させていた上層部の責任も重大です。『東京新聞』17日付は「身内が裁く寛容な結末チラチラ」「一枚岩の『海軍一家』」「冷戦後、軍の維持で"専守防衛"」というトーンで、米海軍が冷戦後の10年間で水上艦艇179隻を108隻に、原潜は96隻から55隻に半減させた点を指摘。冷戦後の生き残りをかけて、民間人やOBを体験搭乗させていると書いています。実際、事故後も、体験搭乗はすでに20回以上行われていることを『毎日』19日付夕刊は報じています。昨年一年間で約2000人の日本人が米空母などに体験搭乗し、グリーンビル型の攻撃型原潜にも日本人が40人搭乗したそうです。『朝日』22日付夕刊は、グリーンビルの操縦体験した民間人が「エキサイティングだった」と事情聴取で述べたことを伝えています。冷戦が終わり、巨大な軍事力が不要になり、テーマパークの観光船みたいなことをやっていたなかでの事故。まさに、巨大な軍事力の存在根拠、あるいは攻撃型原潜のような装備の必要性などが根本的問われる事件でもあると思います。
 そんななか、ハワイの地元紙『ホノルル・アドヴァタイザー』23日付は、「家族は黙って行方不明の息子たちを悼む」という見出しのもと、特派記者の宇和島現地取材記事を載せています。書き出しは、「仏教の伝統では、誰かが死ねばその49日目に、体と魂をあの世に送る儀式において遺体が焼かれる」。この日は何の儀式もなく過ぎる。そして、「宇和島ではすべてがon hold(待っている)ことに意味がある」と書いています。えひめ丸事件から49日目を前に、現地宇和島を取材した模様を伝えています。49日(しじゅうくにち)の意味は、仏式では、死者の霊がその家を離れるときで、忌明けの法要が行われることを指すので、記事には一部誤解がありますが、しかし、仏教的な儀式や意識を理解しようとする姿勢は十分伝わります。とくに、犠牲者の家族が「慎ましやかな沈黙」をもって扱われること、行方不明の人々の体なしには、葬式なり追悼の式典を計画することが時期尚早であることなどを紹介している点は、日本人はなぜえひめ丸の引き上げにこだわるのか理解できないアメリカ人が多いだけに重要です。行方不明者の家族であって、まだ「遺族」ではない。アメリカ人がなかなか理解できない諸点について、この記事は細かく紹介しています。事件以来、私は愛媛新聞とホノルルのこの地元紙をインターネットで毎日読んでいます。今回の記事は、アメリカ側のジャーナリストの地味な、しかし貴重な努力の一つとして評価できると思います。