「新聞を読んで」 〜NHKラジオ第一放送
      (2001年05月26日午後4時収録、27日午前5時30分放送)

1.沖縄県民意識調査から見えるもの

 先月末、講演のため沖縄県北部の名護市を訪れました。仕事の合間に、コバルトブルーの美しい海を見ながら、名護の人々と語り合いました。名護市東海岸の辺野古の海上ヘリ基地予定地も訪れ、住民の方々の話も聞いてきました。私が会ったお年寄りたちは、「孫のためにも」と基地反対の揺るぎない思いを語ってくれました。
 さて、5月20日付の各新聞は、2月に政府が行った世論調査の結果を報道しました。見出しは、例えば21日付『朝日新聞』が、「米軍基地容認46%、否定派に並ぶ」というように、基地容認派が初めて反対派を上回ったことに注目しています。世論調査の設問は、沖縄の米軍基地の存在が「日本の安全にとってどう思うか」というもの。選択肢は「わからない」を含めて5つで、「必要」が9.8%、「やむをえない」35.9%、これで基地容認が45.7%になります。そして、「必要でない」20.6%、「かえって危険である」23.8%を合わせて基地反対が44.4%というものです。この数字だけを見ると、わずかですが基地を容認する人が否定する人を上回ったことがわかります。『朝日』は、「アジアの平和安定に果たす沖縄(米軍基地)の役割を県民は理解している」という関係閣僚のコメントを紹介しています。ところが、現地沖縄の地元紙、『沖縄タイムス』は21日付社説で、この数字について別の評価を加えています。政府調査が、「日本の安全」という否定しがたい言葉で問い掛け、「縮小」「削減」という暮らしに関わる選択肢を一切設けずに態度表明を迫っていると書きました。そして、「やむをえない」という消極的容認が35.9%と最も多いことに着目。「沖縄に集中しすぎる」あるいは「整理・縮小を進める」などの選択肢を用意すれば、別の結果が出たはずだと指摘しています。「必要」と答えた人が9.8%にとどまり、逆に「かえって危険」を含めて基地に批判的な人々が44.4%と他県にはない高い数字にっていることにも注目。この点を抜きに調査結果を見ると、沖縄の現実を見誤ることになりかねない、と書いています。『沖縄タイムス』社説は、しかし同時に、長引く不況が基地の評価にも影響を及ぼしている点も重視し、基地を「雇用の場」として見なす人々も増えていることを指摘しています。同じ地元紙『琉球新報』20日付は、「現実的判断が着実に浸透」と書いています。しかし、『沖縄タイムス』の前記社説は、「問われているのは、現実を見据えつつ理想(理念)を失わないことだ。地域社会の望ましい将来像を真剣に考えれば、基地を取り巻く現状をこのままにしていいわけがない。理想なき現実主義は、依存体質を強め、誇りを失わせる」と結んでいます。基地建設を推進する政府自身が行った世論調査であるという点はひとまずおくとして、同じ調査結果の数字を分析する場合でも、このように地元の視点から見れば異なった評価も可能なわけで、やはり新聞各紙を比較して読むことが大切だと改めて思いました。

2.控訴せずの意味 ハンセン病国家賠償訴訟

 さて、名護市の西海岸から国道58号線を少し北上すると、屋我地島(やがちしま)という小さな島があります。橋を二つ渡り、島の最北端の海沿いの済井出(すむいで)というところに、国立療養所沖縄愛楽園(あいらくえん)があります。ここにハンセン病の元患者の方々490人が生活しています。この療養所の入所者の61%にあたる277人が、熊本ハンセン病訴訟の原告です。
 5月11日、熊本地裁は、ハンセン病国家賠償訴訟で画期的な判決を出しました。ハンセン病患者に対する国の隔離政策は、遅くとも世界保健機関(WHO)が外来治療を勧告した1960年以降は違憲性が明白になっていたと認定。国に対し総額18億2000万円の支払いを命じました。判決で注目されたのは、遅くとも1965年以降に隔離規定の改廃をしなかった国会議員の「立法上の不作為」に国家賠償法上の違法性と過失が認定されたことです。法律的な難しい論点ですが、要するに、国会が強制隔離政策の改めることなく、原告らの人権が侵害される状態を長期にわたって放置してきたことの責任が厳しく問われたわけです。地元『熊本日日新聞』コラム「新生面」はこう書きました。「『やったこと』と『やらなかったこと』。…熊本を舞台に、国というものの素顔がくっきり表れた日はなかった」(5月12日付)と。
 この判決に対して、政府は控訴するだろうと見られていました。例えば『読売新聞』23日付夕刊第4版は、「政府、今夜に控訴決定」と確定見出しを打っていました。ところが、23日午後6時過ぎ、小泉首相は、ぶらさがりの記者団を背に立ったままの恰好で、「控訴を行わない」という決定を唐突に伝えました。メモしていた記者たちが弾けるように走り出すシーンが何度もテレビを通じて流れました。翌24日付各紙は一面トップに「ハンセン病訴訟控訴断念」の大見出し。第一、第二社会面は「やっと人間に戻れた」(読売)、「長すぎた暗闇に光明」(朝日)など、元患者らの喜びの声を拾う一方、政治面では「"寝耳に水"の方針転換」(毎日)、「透ける『参院選勝利』戦略」(東京新聞)といった背景を探る記事が並びました。小泉首相の「異例の決断」。官僚の発想とは異なる、「民」の立場を重視する政治の決断を讃える記事で紙面は埋め尽くされました。
 そうしたなか、25日付『毎日新聞』は、「メディアは判断の点検必要」と、直前まで控訴の方向で報道してきたメディアに反省を促しています。『産経新聞』25日付コラム「産経抄」は、「一たんは控訴をし、その上で速やかに和解を図る。それが国の方針だろうと思い込んでいたのである。『官』の論理であり、役所の理屈だった。いや論理や理屈というよりは、建前であり、面子だったろう。そういう解説を受けて、小欄も知らず知らずその"毒"に染まっていた」と、率直な反省の弁を語っていたのが印象に残りました。
 5月25日付各紙夕刊は、政府が、控訴をしないかわりに、判決に対する批判的姿勢を明確にした政府声明を出したことを伝えました。政府が判決を批判するポイントは2つ。一つは、判決が立法の不作為(「国会がやるべきことをやらなかったこと」)の法的責任を広く認めた点、もう一つは損害賠償を提起できる期間を20年とする民法724条後段のいわゆる「除斥期間」の解釈をめぐってです。
 まず、立法の不作為を問えるかについて、下級審では肯定的な判決も出ています。政府声明は、立法の不作為を認めると、司法が国会議員の活動を過度に制約するものと批判しますが、お門違いだと思います。日本では違憲判決の効力は、個別的な事件にとどまるわけで、国会議員の活動を過度に制約することにはなりません。むしろ、日本の司法は立法や行政に対してあまりに遠慮しすぎており、国民の権利が侵害されたような事例では、立法や行政に厳しい判断を下すことをためらってはならないというのが、憲法が違憲審査権を設けた趣旨だと思います。立法の不作為について、「故意に憲法に違反」するという極端な場合に狭く限定する理解も問題です。今回、長期にわたる放置を過失と認定した点は高く評価されるべきです。
 2 つ目の除斥期間について。その起算点を「隔離政策による違法行為の終了時」とした点は、除斥期間性を維持しながら、適用を排除するという近年の下級審判例の柔軟な流れに与するもので、決して異例ではありません。政府声明は熊本地裁判決を例外的なものにしようとしていますが、本来の司法のあり方からすれば、むしろ当然の判決と言えるでしょう。25日、その熊本地裁判決が確定しました。第一審とはいえ、立法の不作為の違法性を厳しく認定した判決が確定する意味は限りなく大きいと思います。裁判所が行政や立法によって侵害された市民の人権を救済する役回りの大切さは、今回明確に浮き彫りになったと言えるでしょう。もし、熊本地裁がここまで明確な判断を出さなければ、ハンセン病患者の権利回復はかなり遅れたに違いありません。もちろん、5年前にすでに廃止された法律に基づく隔離政策の違憲性・違法性が問題になったケースですので、裁判所もためらうことなく違憲判断を出せたという側面はあるでしょうが、しかし、判決により「山は動いた」わけです。その原動力が裁判所の明確な判断だったことは明らかです。この明確さと鋭い指摘が、患者を勇気づけ、世論を動かし、さらに政治をも動かしたわけです。
 さて、判決確定により課題は明確になりました。全国13の国立療養所、2 箇所の私立療養所に4400名を超える元患者の方々が入所しています。戦後だけで1400人が断種を受け、のべ3000人以上が妊娠中絶をさせられました。全国の療養所内の納骨堂には、2万3000を超える遺骨が納められています。家族の墓に入れてもらえない遺骨です。「もういいかい、お骨になっても、まあだだよ」という入所者がよんだ一句は胸に刺さります。『毎日』23付社面トップの見出しは「帰ってきて」。判決当日、74歳の原告のもとに「家族一同」という電報が届いた。13歳のときに家族から隔離され、何と60年目の家族からの電報。国の隔離政策は家族を引き裂き、元患者の社会復帰を妨げ続けました。
 元患者たちが国に求める謝罪というのは、法的にみた場合、そこまで必要ないという論理もあり得ます。しかし、先に紹介した『産経新聞』コラムが言うように、それは官僚的な発想に毒されているのではないでしょうか。一般の国民にも、差別と偏見を克服する重い課題が残っています。のみならず、隔離政策を人権の問題として十分に検討してこなかったことを、憲法研究者の一人として、私自身反省しなければならないと思っています。 今回私は初めて知ったのですが、実は、1960年にWHOが隔離政策をやめる勧告をした翌年(1961年)、アメリカ統治下にあった沖縄では、琉球政府が隔離制度をやめ、在宅治療制度を導入したそうです。本土復帰後も沖縄では在宅で治療する制度は存続しました。沖縄では隔離政策は本土ほど厳しくなかったわけでず。とはいえ、元患者の社会復帰は並大抵ではなく、激しい差別と偏見はどこも同じでした。一方、熊本地裁の判決が損害賠償金の算定にあたって、1972年の本土復帰以前は賠償の対象とされず、沖縄の元患者3名だけは金額が他より低くなりました。名護市議会は25日、全会一致で、ハンセン病元患者の支援策が沖縄と本土とで差があってはならないという決議を挙げ、政府に意見書を送りました(『琉球新報』5月26日)。
 沖縄とハンセン病。この二つのキーワードから浮き彫りにされるこの国の課題は、限りなく重いのです。今日は、このへんで失礼します。