「新聞を読んで」 〜NHKラジオ第一放送
      (2002年5月4日午後4時収録、5日午前5時30分放送)

 

1.朝日新聞阪神支局襲撃事件の公訴時効

  この5月3日は55回目の憲法記念日でした。私は岡山市の憲法集会で記念講演をしてきました。今年の憲法記念日は、15年前の朝日新聞阪神支局襲撃事件の公訴時効を迎えることもあって、新聞各紙には例年にない重苦しい雰囲気が支配しました。

 ちょうど15年前の5月3日、兵庫県西宮市の朝日新聞阪神支局に目だし帽をかぶった男が侵入し、無言のまま至近距離から散弾銃を発射。小尻記者(当時29歳)を射殺し、もう一人の記者に重傷を負わせました。殺人罪の公訴時効は15年ですから、この事件は3日午前零時に時効が成立しました。真犯人があらわれても訴追されることはありません。この事件は、赤報隊を名乗る者たちが、朝日新聞の論調に反発して起こした一連の事件の一つとされ、116号事件と言われています。

各紙とも、憲法記念日の前日の2日に一斉に社説を掲げて、事件を振り返りました。まず『朝日』社説は、犯行声明のなかに、「反日朝日は50年前にかえれ」とあったことをとらえ、これは「新聞が政府を批判する姿勢を失い、日本全体が破局に向かって突っ走った戦前への回帰を命じた」ものだと批判。「報道機関の自由が侵される社会では自由な市民もありえない。……事件を許さず、暴力に屈しない」と強い語調で決意を表明しています。『読売新聞』社説は、「新聞記者が編集現場で殺された、日本では前例のない事件である」と指摘しつつ、15年の警察の捜査を総括して、物証を追う刑事部門と、情報を追う公安部門で縦割り捜査の弊害が生じて、効果的な情報の突き合わせができなかった」として、警察の対応を批判しています。地方紙では、『信濃毎日新聞』社説が、阪神支局事件以降、本島長崎市長や弓削フェリス女学院大学学長、映画監督の伊丹十三氏らを標的としたテロが起こったことを「テロの地下水脈」ととらえて警告しているのが目をひきました。『朝日』社説はまた、「自由な言論を揺るがすのは、むき出しの暴力だけではない。地域社会や職場で反対論や少数意見を有形無形の圧力で封じ込めようとしたり、自己規制を迫ったりする例は後を絶たない。その意味で、事件は決して過去のものではない」と書き、社会の風潮に警鐘を鳴らします。『毎日新聞』社説はより明確に、「政府が今国会に上程し、連休明けに本格審議が始まる個人情報保護法案などメディア規制法案に危惧をおぼえる。朝日新聞事件が暴力による言論封殺ならば、メディア規制関連法案は国家権力による言論抑圧といえる」と指摘しています。

2.メディア規制法案

 メディア規制の「三点セット」とされる個人情報保護法案、人権擁護法案、青少年有害社会環境対策基本法案のうち、前二者が本格的に審議入りします。「人権擁護」とか「個人情報保護」といった反対しずらい、当然と思えるようなタイトルの法案ですが、中身をみていくと、相当問題が含まれていることがわかります。

個人情報保護法案は、個人情報の「利用目的による制限」や「適正な取得」など5つの基本原則が報道機関を含むすべての者に適用されます。罰則のある義務規定は報道や学問の分野には適用が除外されていますが、取材源や取材方法、取材対象を制約するおそれがあり、報道に対する萎縮効果は否定できません。一方、人権擁護法案は、メディアの過剰な取材を重大な人権侵害と位置づけ、人権救済機関の救済対象にしています。電話やファックスなどを執拗に行うことなど、ストーカー規制法と似た文言もあり、取材活動への規制となりうるものです。すでに日本新聞協会や日本民間放送連盟などが反対声明を出したほか、『共同通信』が2日までにまとめたところでは、30以上の都道県の地方報道機関が法案反対の声明を出しています(『山陽新聞』5月3日付)。報道機関が労使含めて一致して反対するというケースは珍しく、その意味でも、これらの法案がいかに重大な問題を抱えているかわかります。

今週、各紙は一斉に特集記事を出しました。特に『毎日』は3日、4日と連続して見開き特集を組みました。特に興味深かったのは、『産経新聞』4日付にニュースキャスターの安藤優子さんが寄せた論稿です。安藤さんは22年間にわたって報道の仕事をしてきた体験を語りつつ、特に旧ソ連などの東欧諸国の取材で感じた、規制の多さや煩雑さ、見るべきものが見られないいらだちについて指摘しています。そして、個人情報保護や人権擁護という名称の法案のなかに、メディア規制につながる内容が巧妙に盛り込まれていること、ここに巧みな誘導を感じるといいます。そして、「戦後生まれの世代は、本当に知らなくてはいけないことが糊塗されていくという経験をしたことがないから、その恐ろしさが分からない。私も東側で取材を経験しなければ、メディア規制によってこの国がどれほど荒(すさ)むことになるのか、気づかなかっただろう」と書いています。

表現の自由、報道の自由は民主主義社会において決定的に重要な権利です。直接罰則が適用されないとか、乱用されないように歯止めがあるからといった説明では十分ではありません。安藤さんがいうように、旧東側にあったような規制の多さや煩雑さそれ自体が報道活動にもたらすマイナス効果を考えるならば、メディアに対するこの種の規制は百害あって一利なしと言うべきでしょう。過剰取材に対する犯罪被害者等の救済や、個人情報保護の仕組みの整備は、これらの法案の方向とは別個にやられるべきだと思います。

3.社説にみる55回目の憲法記念日

 さて、憲法記念日の各紙社説をみると、今年は「武力攻撃事態法案」など「有事」関連3法案との絡みで、平和・安全保障問題と憲法との関係に対する各紙のとらえ方の違いが浮き彫りになりました。『読売』は、「有事」関連三法案を評価しつつ、集団的自衛権の行使についても「武力攻撃事態」についても、「乖離する現実と法制度」を現実にあわせる方向で見直すことを主張しています。『産経』は憲法を国際連帯の「足かせ」ととらえ、想定外の新しい事態にも備えを固め、軍事面での負担を共有するよう「国のかたち」の変更を求めています。その際、「安全」を基本価値に据えることを要求しています。一方、『毎日』は、「解釈改憲」をこれ以上続けるのは「法治主義の頽廃」(?)だから、憲法改正の議論に踏み出すべきだと指摘しています。『朝日』は、「頭の体操」だとしながらも、憲法改正国民投票の実施を初めて正面から主張しました。これが直接民主主義の「爆薬」を秘めているとしますが、国民投票制度に対するやや楽観的な理解が見受けられます。憲法改正の必要は当面ないとしながらも、あえて憲法記念日に『朝日』が国民投票制度の実施に一歩踏み込んだのは何故なのか。4日付『産経新聞』が伝えるように、作家三浦朱門氏らの民間憲法臨調が3日、「憲法改正のための国民投票法の制定を求める「特別声明」を出しましたが、そこでは「有事」関連3法案の早期成立も要求されています。『朝日』社説との微妙な共鳴が気になるところです。

なお、全国紙よりも地方紙にいろいろと重要な指摘が見られました。東京地方の新聞『東京新聞』社説は米最高裁のウォーレン・バーガー元長官の言葉、「憲法は時代の道案内だ」をタイトルに使い、憲法を血肉化していくことの必要性を説いています。環境権など憲法条文にない人権を入れるための憲法改正の主張は一種のトリックであること、そういう改憲論者たちが、環境権などの実現に努力したのか、と問い返しています。(なお、社説には、生存権は条文にないとありますが、憲法25条があり、これはミスでしょう)。

『山陽新聞』社説は、「有事」関連三法案の諸論点に言及しながら、それに疑問を投げかけています。この日、特に批判的スタンスを明確にした社説は、沖縄の『琉球新報』です。「〔憲法施行55周年だが〕われわれ沖縄県民には、まだ30年の付き合いにすぎない。本土に復帰するまで県民は、この憲法の精神とは程遠い場所に置かれていたからだ。その憲法の庇護の下に入りはした。が、あらためて見渡せば今、県民の目には危うい憲法の姿しか映ってこない」と書いています。他の社説にない視点です。来週15日は沖縄本土復帰30周年です。それを念頭に置いた『琉球新報』社説はさらにいいます。「異民族の支配下でも、県民は自ら戦い、多くの権利を勝ち取ってきた。われわれの代表を選ぶ権利「首席公選」も、20年以上の歳月を燃やして勝ち取った。労働三法など多くの権利も、与えられたものではなく、勝ち取ったものがほとんどだ。それでも県民の権利は不十分なものだった。だからこそ、日本国憲法が必要だった」と。復帰前、米軍占領下で琉球政府首席を直接選ぶ運動を粘り強く行い、実現しました。そのことを言っています。 最後に社説は憲法と現実が乖離していることについてこう書いています。「崇高な理想を実現できないことを嘆くべきで、歪んだ自らの体形に憲法を改めることを恥とすべきだ。もし、異民族統治という県民の不幸が続いたにしても、県民は自らの権利を勝ち取るため戦い続けたはずだ。その戦いの止まるところは、現行の憲法の理念が実現した時だったと思う。与えられた権利であってたとしても、その中に流れる精神は、いかなる国のそれよりも、強い輝きを持っていると信じる」と。

『朝日』『毎日』の社説が憲法規範と現実の乖離の解決を、規範を現実の方向に擦り寄らせることで解決する方向に一歩軸足を動かしたのと対比的に、沖縄の厳しい現実を見据えた地元紙の筆はいつになく厳しい指摘に満ちています。

メディア規制法案についても、「有事」関連3法案についても、ことは憲法の基本問題に関わることです。国会での慎重な審議が求められます。