「新聞を読んで」 〜NHKラジオ第一放送
      (2003年10月3日午後4時収録、10月4日午前5時35分放送)

「旧日本軍遺棄毒ガス弾訴訟」

私は毎月1 、2回、地方で講演をします。その時の楽しみは、その地方の地元の新聞を読むことです。いくつかの地方紙やブロック紙を毎朝インターネットのホームページで読んでいますが、インクの匂いがする地元新聞を直接読むのも楽しいものです。今回は、北海道・有珠山の噴火跡で美味しい「石焼きとうきび」を食べながら、地元紙の記事を読み、噴火の凄まじさにおもいをはせました。

 
 さて、今週もさまざまな出来事が起こりました。何より注目されるのは、9月29日に東京地方裁判所が出した「旧日本軍遺棄毒ガス弾訴訟」の判決です。『朝日新聞』『毎日新聞』『東京新聞』は一面トップ、『読売新聞』は一面肩の扱いでした。
 第二次世界大戦の最終段階で、旧日本軍が大量の毒ガス弾や砲弾を中国各地に放置したり、隠したりしました。日本政府の推定で70万発、中国側は200万発とされています。それらが時の経過とともに腐食して漏れだしたり、工事などの際に触れて爆発を起こしたりして、多くの中国人が死傷しています。中国側は2000人が死傷したとしています。今回の訴訟は、そのうちの3件の事故に関連する13人の被害者とその遺族が起こしたものです。9月29日の東京地裁民事35部(片山良弘裁判長)の判決は、3件とも「旧日本軍が組織的に行ったもので公権力の行使にあたる」として、被害者が遺棄毒ガス兵器で死傷したと認定し、原告に計1億9000万円の損害賠償を命じました。
 5月15日、東京地裁は同種の訴訟について、毒ガスを捨てて放置した行為〔遺棄〕の違法性は認定しつつも、「主権の及ばない中国で兵器を回収することは困難」だとして、賠償責任までは認めませんでした。5月の判決に比べると、今回の判決は、すべての論点で一歩も二歩も踏み込んだ判断を示しています。
 『朝日』30日付によれば、まず判決は、毒ガス兵器の遺棄は旧日本軍が組織的に行った「公権力の行使」であると認定しました。その上で、「兵器の遺棄は、単に物を置き去りにするという行為にとどまらず、生命や身体に対する危険な状態を積極的に作り出す行為」だとしました。ここから、(1) 毒ガス兵器が遺棄された場所の近くでは、住民の生命・身体に差し迫った重大な危険があったこと(危険の存在)、(2) 旧日本軍関係者への事情聴取で遺棄の状況は把握でき、住民らに危険が及ぶことが予見できたこと(予見可能性)、(3) 政府が遺棄された場所などの具体的な情報を中国に提供しておれば、より少ない年月で、より多くの場所で遺棄兵器が処理されていた可能性があること(結果回避可能性)を認め、条理上、被告国にはそうした危険な状態を解消するための義務があるのに、それをなさなかったこと(不作為)が違法と評価しました。そして、1972年9 月に日中国交回復がなされ、それ以降、それぞれの事故発生までの「継続的な不作為」が「違法な公権力の行使に当たる」と断定しました。また、不法行為が発生した時から20年間何もしないでいると、損害賠償請求権が消滅するという民法724 条の「除斥期間」の規定についても、国が訴えられているのに、その制度を作った国自身が責任を免れるのは正義・公平に反することや、原告らが訴訟を起こすことは、86年2 月まで中国から外に出ることが不可能だったことから、20年を経過したことだけで権利行使を許さないのは衡平を欠くとして、原告の損害賠償請求権の行使を認めました。いわゆる除斥期間の制限的な適用です。
 現在中国各地には、膨大な量の毒ガス兵器が存在するわけです。1997年に発効した化学兵器禁止条約は、他国に残してきた化学兵器を回収して廃棄することを義務づけています(条約1条3項)。その期限は2007年4 月です。でも、処理されたのはまだ4 万発程度と言われ、これは日本政府の推計の1 割にも満たない数字です。判決直後、福田官房長官は、処理のテンポを早めることを示唆しています。
 さて、この判決について、『毎日新聞』10月1日付社説は、「毒ガス被害は今日まで続いている戦後の問題で、廃棄完了まで危険が消えないことを踏まえれば、救済手段が必要なことは言うまでもない。まして一方で廃棄作業を行っている以上、日本側が個人補償に応ずるのは当然だろう」と指摘しています。『朝日新聞』社説は、「72年の日中共同声明で、日本への戦争賠償の請求権は放棄されている」という日本政府の主張を、「まったく的外れの議論」と断じています。問題にされたのは戦争中の行為ではなく、日中の国交が正常化したあとも、日本政府は何の手を打とうとしなかったことだ。その怠慢が問題なのだ、と言い切った判決の論理は明快だし、被害救済という正義にかなっている」として、5月の判決に比べると、「今回の判決の方が理にかかってい(る)」としています。「国は、司法の場でいたずらに争いを続けるのではなく、原告の切実な訴えを受け止め、今回の判決に沿った解決を図るべきだ」としています。『読売新聞』社説も、上級審の判断を待つという態度ながら、「どのような司法判断が下されるにせよ、毒ガス兵器の回収は急務だ」と書いています。『東京新聞』社説は、「問題処理にあたって留意すべきは国家のメンツや建前にこだわらず、毒ガスを遺棄した旧日本軍の行為を率直に反省し、正義や人としての尊厳の確立に最重点をおいて対応することである」としています。
 そうしたなかで、『産経新聞』1 日付社説だけは「毒ガス弾訴訟、本当に日本の責任なのか」というタイトルのもと、「不可解さが残る判決だった」と他紙とは異なる論調です。『産経』社説のポイントは、(1) ポツダム宣言受諾で毒ガス弾を含むすべての武器・弾薬などが没収された以上、日本国や日本軍に所有権、管理権はなくなったこと、(2) 化学兵器禁止条約にいう「遺棄化学兵器」というのは、遺棄された国の同意を得ないものをいい、連合国に没収された化学兵器は遺棄されたものとは断言できないこと、(3) 武装解除された日本軍の武器・弾薬の管理責任は中国側にあったこと、です。毒ガス弾について中国側に調査や回収を申し出なかった日本国の怠慢をいうのは無理があるというのです。もし被害防止の義務があるというなら、「国共〔国民党と共産党〕内戦で使用された旧日本軍の小銃弾についても、日本政府は責任を負わなければならないのだろうか」と反問しています。毒ガス兵器は国際法違反で、旧日本軍は証拠隠滅をはかって各地に埋めて隠匿したわけで、連合国が没収したとするには無理があります。また、「遺棄化学兵器」とはその国の「同意を得ることなく遺棄した化学兵器」(2条6項)とされますが、旧日本軍が当時の中国政府の同意を得ていないことは明らかでしょう。個々の小銃弾と絡める論法はためにする議論との印象は拭えません。『産経』社説には疑問があります。
なお、地方紙の社説のなかには、全国紙とはやや異なる角度からの視点が見られました。例えば、『琉球新報』9月30日付は、全国紙がすべて10月1日に社説を出したのと比べ一日早く社説を出して素早く反応しています。社説は「われわれ沖縄県民はこの問題を逆照射することができる立場にある」として、「米軍が戦後この方独占的に使用してきた基地内で同様な事案が発生したことを想定してみればいい。返還基地内からは米軍が放置したPCB〔ポリ塩化ビフェニール〕などの有害物質がいまでに検出されている。こうした問題を対米放棄請求権を楯に米軍が回収しなかったとしたら、どうなるか。明白ではないか」と問うています。社説は、「国交回復前と違い、毒ガス兵器を回収できる付き合いになったことを考えると、これはけっして過去の問題ではない。現在の問題として国はとらえ直すべきだ」と指摘しています。同感です。
 陸軍毒ガス製造工場があった大久野島をかかえる広島県の『中国新聞』の9月30日付社説は「被害者の救済を急げ」というタイトルで、今年8月にチチハル市で旧日本軍の遺棄毒ガス弾で1人が死亡、40人以上が負傷する事故のことに言及しています。「この事故で中国では対日批判が広がるなど、遺棄化学兵器問題は日中関係にも大きな影を落としている。……戦後58年を経てもなお『負の遺産』は清算できていない」と書き、「道義的・政治的責任において、これ以上被害拡大防止と被害者救済の抜本策を急がなければならない」と結んでいます。原告は政府に対して控訴しないよう求めていましたが、10月3日午後3時、政府は東京高等裁判所に控訴しました。被害者救済という観点を重視するならば、地方裁判所が詳細な事実審理の上に国の責任を認めた以上、被害者の苦しむを継続させることなく、判決を踏まえた政治的な決断が求められていたと思います。各新聞によれば、控訴した理由としては、5月の東京地裁判決と今回の判決で下級審の判断が分かれたので上級審の判断を仰ぐということです。ただ、今回の判決が5 月の判決の最大の根拠となった「主権の及ばない中国で兵器を回収するのは困難」という論点をきちんと理論的にも克服していると思われるので、単に二つの判断が並列しているとするのは形式的な議論のように思います。『朝日新聞』10月4日付は、控訴できる期間が14日もあるのに4日後に早々と控訴を決めた背景を、10月7日のインドネシアで日中首脳会談が予定されているので、その会談直後に控訴する方がイメージが悪いという政府内の観測を伝えています。一地方裁判所の判決に控訴するというだけの問題ではなく、問題がアジア全体に広がる国際問題の性質をもっているため、こうした判断もきわめて政治的です。ただ、2000人と言われる旧日本軍遺棄毒ガス兵器による被害者。そのうち今年8月のチチハルの事故の被害者たちも提訴を行う方向なので、今回の判決は、そうした動きを加速するでしょう。この種の訴訟が起こることは、日本にとって決して名誉ではないはずです。7日の日中首脳会談ないしその後に、首相の政治決断を含めて注目されるところです。
 政府が控訴を決めた10月3日、「テロ対策特別措置法」を延長する法案が衆議院を通過しました。法律が11月1日に期限切れになるので、それを延長するものですが、審議時間はわずか12時間でした。『東京新聞』9月29日付特集記事は、テロ特措法延長問題と自衛隊について実証的な記事を載せています。インド洋上での米軍艦艇への燃料補給がメインですが、すでに120億円分も米軍などに使っています。『読売新聞』10月3日付によれば、イラク特措法による自衛隊派遣が12月にも迫っています。これがなぜテロ対策なのか疑問とせざるを得ません。