「新聞を読んで」 〜NHKラジオ第一放送
       (2005年3月26日午後4時収録、 3月27日午前5時32分放送

   1. 3月20日の紙面から

 新聞というのは、世の中の出来事を「日」の単位で記録していく古典的な媒体です。夕刊によって、平日午前中(12時30分頃までの)の出来事、とくに重要な裁判の判決などの内容や意味をその日の夕方に知ることができます。「原告勝訴」といった大見出しが踊る記事は、そのまま授業などに使えるので便利です。でも、テレビやラジオの発達で、事件の速報性という点では、新聞の役割はかなり後退したといえます。近年ではインターネットの驚異的普及で、24時間いつでも最新情報が入手できるようになりました。いまや新聞の号外も、ある事件が「大事件」であることの「証拠」としての象徴的な意味しかもちません。「号外が出るほどの事件だ」というわけです。新聞社のホームページには、「電子号外」をPDF印刷できるようなところもあります(愛媛新聞、北海道新聞など)。
 
となると、新聞は、速く伝えるというよりも、少し時間をおいて、その出来事の背景や意味づけなどを知りたいときや、ゆっくり活字を追って考えたいときに便利な媒体ということになります。例えば、「あれから何年」という形で、昔の出来事の「その後」や背景を探る企画は、日常的な記事と並んで、新聞の存在意味を感じさせてくれます。
 先週日曜日の3月20日。この日は、イラク戦争の開戦2周年と、地下鉄サリン事件10周年でしたが、各紙の扱いはさまざまでした。イラク開戦2周年では、『朝日新聞』20日付がこのテーマで長い社説を掲げ、「それでも、この戦争を正当化するわけにはいかない」という立場を確認しています。自衛隊派遣についても、「対米協力の証しとして、サマワに『いる』こと。それが小泉首相にとっての最大の目的」と指摘し、イラクの再建のため、「改めて出直すことが日本の賢いやり方だと思う」と結んでいます。でも、『朝日』はこの社説だけで、国際面は地味でした(翌21日付でやや大きめの記事を出す)。『読売新聞』と『毎日新聞』は国際面に少し詳しい記事を置くだけでした。そのかわり、『読売』は一面に「地下鉄サリン『きょう10年』」と出して、三つの頁に関連記事を配して「この10年」を検証しています。さらに、「地下鉄サリン――テロへの備えを迫り続けた10年」という社説も。電話盗聴を可能にする「通信傍受法」の施行5周年だが、適用件数は10件に満たず、それは要件が厳格すぎるからだと書いています。3月20日の意味づけをめぐって、全国紙だけ見ても、このように扱いが異なります。
 
この日、イラク戦争2周年に最も力を入れたのは、『東京新聞』でした。一面肩に「イラク遠い平和――きょう開戦2年」「米兵死者1500人超」という見出し。国際面の2頁全部を使い、「救出劇のヒロイン」になった元米陸軍女性兵士のジェシカ・リンチさんの単独インタビューなど、自社の特派員記事を軸に組み立て、さらに第一、第二社会面で「開戦2年」の影響や風景を、来日したイラク民主化運動家などのインタビューなどで伝えています。共同通信の配信記事は、「米国民の53%が『価値のない戦争』だった」という世論調査の記事だけです。21日から「星条旗のはざまで――イラク開戦2年の米国」という自社特派員の連載記事を開始するなど、世界的な出来事について東京ローカルの新聞が、全国紙には見られない気合と姿勢で臨んでいたのが印象的でした。

 

   2. 「まさか」の出来事

 さて、21日(月)からの各紙一面には、連日のように大見出しが踊りました。21日の全国紙3紙(東京本社14版)の一面トップはすべて同じで、「福岡・佐賀で震度6弱」でした(横に、各紙ともマラッカ海峡で海賊に拉致された船長ら3人解放の記事)。「まさか福岡で」(『読売』2社)という見出しも。10年前の阪神・淡路大震災の時の新聞見出し、「まさか神戸が」を思い出しました。「人間には三つの坂がある。上り坂、下り坂、そして『魔坂』(まさか)である」(内館牧子脚本・1997年NHK大河ドラマ「毛利元就」のセリフ)ではありませんが、地震・災害では、この「まさか」を克服することが大事でしょう。ただ、25日付夕刊各紙が、「国民保護法」に基づく「国民保護基本指針」の閣議決定を報じましたが、「武力攻撃事態」に備えた態勢づくりを地方から行うという動きには慎重な対応が求められます。なお、『西日本新聞』25日付は、地震後に携帯電話が不通になったけれど、携帯メールとインターネットはほぼスムーズに利用でき、情報把握や家族らの安否確認に大きな役割を果たしたと報じています。福岡市営地下鉄がとまって、乗客が車内に一時間あまりとどめられ、車内放送も遅れたけれどもパニックにならなかったのは、乗客の携帯が原因の一つと書いています。今後の教訓の一つといえるでしょう。

 

   3. ニッポン放送「新株予約権」問題(東京高裁決定) 

 ニッポン放送の株取得をめぐる争いで、ライブドアが、新株予約権発行の差し止めを求める仮処分を申し立てましたが、23日、東京高裁は、ライブドアの申し立てを認めた東京地裁の決定(3月13日)を支持して、ニッポン放送の抗告を棄却する決定を出しました(最高裁への特別抗告断念で確定)。地方紙でも、『北海道新聞』が地裁、高裁の両方の決定について号外を出しました。特定企業の買収問題が、仮処分をめぐる裁判所の決定についてまで各紙一面を独占し、号外まで出るというのは、おそらく初めてのことでしょう。 高裁決定のポイントは、@「現経営陣などの支配権維持を主な目的とした新株予約権の発行は著しく不公正で、原則として許されない」こと、A例外的に許されるのは、「敵対的買収者が会社を食い物にしようとしている場合」であること、Bライブドアが、マネーゲーム本位で会社を食い物にしようと買収しているとは認められないこと、C買収で「企業価値」が損なわれるかは、株式市場の評価に委ねるべきで、司法判断には適さないというものです。この決定について、各紙社説も、微妙な評価の違いを見せたのが印象に残りました。
 
当事者に一番近い『産経新聞』は24日付の社説で、もっぱら堀江ライブドア社長に注文をつけています。堀江氏のことを「テレビゲームの“達人”」「モラルなき“達人”」と評して、司法はそんなライブドアに軍配を挙げたと非難し、「マスメディアの企業価値とは何か。経営理念とは何か、という真摯な議論を期待したい」と結びます。『読売』社説「堀江氏の『メディア観』が心配だ」と題して、堀江社長が「いかに新聞、テレビを殺していくかが問題」と発言した点にこだわり、「権力を監視し、社会の不正を暴き、公正な世論を形成する」ジャーナリズムのあり方を堀江氏は理解していないと説教しています。 これに対して、『朝日』の社説は「堀江さん、荷は重いぞ」という、妙にくだけた表現の見出しで、「戦略や体力を包み隠さず示し、評価を第三者に委ねる企業には、一定の基準さえ満たしていれば、分け隔てなく上場の道が開かれているのが株式市場だ」として、現在の経営者の地位を守るような予約権発行を認めなかった高裁の決定は「市場のルールからみて納得できる」と書いています。これは、『神戸新聞』24日付社説が「多くの法曹関係者が事前に予想した通りで、納得のいく妥当な判断だろう」という評価とも重なります。
 
『朝日』社説は、ニッポン放送もフジテレビも娯楽番組に力を入れているが、同時に報道にも携わるニュースメディアであるから、資本の理屈とは別に、国民の知る権利の担い手としての性格をもつとして、利益だけを追うことをは許されないと指摘しています。在京キー局がすべて上場していること、その意味では、今回のような株取得や買収の対象となりうること(すでにソフトバンクのテレビ朝日買収劇がある)を指摘しつつ、株主もまた、単なる金もうけ先ではないとの自覚が必要だとも書いています。
 私は、娯楽重視のフジや、憲法改正に熱をあげる読売に、権力を監視し、公正な世論を形成するジャーナリズムのありようを説かれることにはちょっと違和感を覚えました。なるほど、堀江社長の「ゲーム感覚」には、『毎日新聞』24日付夕刊「ニッポン放送株買収劇」で斉藤環氏が指摘するように、「人生を見限ったような虚無感と自己破壊的な雰囲気すら漂わせ、これが若い世代の共感を呼んでいる」という面もあるでしょう。彼が、外資による大量の資金調達をしてまで「壊そう」としているのは何なのか。おそらく、この国の経済や社会にある「ギルド」的な世界でしょう。だからこそ、最も「寡占」が進んだプロ野球から着手し、次に在京キー局が圧倒的な力をもつテレビに向かったわけです。
 
高裁決定でライブドア有利に見えましたが、25日付新聞各紙の一面トップは一転して、ソフトバンク系企業(SBI)がフジの筆頭株主になったことを報じています。これでライブドアがニッポン放送経由でフジに間接支配を及ぼす道は絶たれたとされています。ただ、『朝日』25日付第一社会面は、フジテレビ社員が「好感度高く正解」と諸手を挙げて歓迎というムードであるのに対して、「『救世主』両刃の剣か」という見出しで、ニッポン放送とフジテレビの前に現れたのは「白馬の騎士」(ホワイトナイト)か、それとも「トロイの木馬」かと皮肉りつつ、かつてテレビ朝日買収に動いたソフトバンクが「本当に救世主か」と、かなり醒めた見方を出しています。
 
評論家の佐高信氏は、『毎日新聞』24日付でこうコメントしています。「今回の買収騒動は、資本主義を掲げている日本の大企業が、実は封建時代の藩と同じ内向きの組織であることを明らかにした。仲間うちの秩序を守ることを最優先する『談合資本主義』ということだ。一方の堀江社長には理念が感じられない。『面白ければいい』ということでは同じタイプなので、私は両者の争いを『親子げんか』と呼んでいる。『調査報道や不正の追及などを担うジャーナリズムはもう必要ない』と言っていたが、権力を批判し、隠れた事実を掘り出すことに情報の価値があることを分かっていない」と。興味深い指摘です。
 
ライブドア社長とソフトバンク社長が、地震に襲われた「まさか福岡」にある高校の同窓生であることからも、この問題では、これからも「まさか」が続くでしょう。ちなみに、25日付各紙がソフトバンク系の動きを伝える記事の下に、「気象庁の記者クラブに、ライブドア加盟申請」という小さな記事を見つけました。記者クラブもまた、堀江社長の標的となるギルド的な世界です。テレビに次いで、新聞社を狙う「本震」の予兆、「初期微動」かもしれません。報道機関やジャーナリズムのあり方についても、突っ込んだ議論が求められる所以です。今日はこのへんで失礼します。