「新聞を読んで」 〜NHKラジオ第一放送
       (2008年4月25日午後5時収録、 4月26日午前5時38分放送

   1.二つの高裁判決――名古屋高裁判決その後

  先週から今週にかけて、二つの高等裁判所で大変注目される判決が出されました。先週の17日、名古屋高等裁判所は、イラクでの航空自衛隊の空輸活動について、武力行使と一体化した行動であるなど、憲法9条に違反する活動を含むという判断を示しました。この判決自体は先週の出来事であるため詳しく立ち入りませんが、私の担当の19日から本日までの間に、判決に対する政府・与党の反応を各紙が伝えています。特に空自トップの航空幕僚長が「そんなの関係ねぇ」と記者会見で述べたことを、『毎日新聞』19日付などが報じています。お笑い芸人の言葉を使って隊員の心境を代弁したというのですが、司法の判断に対して、あまりにも不適切な言葉ではないでしょうか。福田首相も、「それは判断ですか。傍論。脇の論ね」という鼻から相手にしないという態度でした。しかし、これらの人々には憲法尊重擁護義務(憲法99条)があります。裁判所の違憲判断が出された以上、その内容に不服があったとしても、現在行われているイラク派遣について、判決内容に即して再検討してみる姿勢をもつべきでしょう。『朝日新聞』名古屋本社版4月22日付連載「違憲・イラク派遣」では、ある元裁判官の声として、「(傍論にすぎないという)政府は都合のいい解釈をしている。『そんなの関係ねえ』と言って下級審の判断を無視するというなら、司法への信頼を行政府が自ら損ねることになってしまう。これは憲法秩序に対する危機的な状況だ」という言葉を紹介しています。

  判決は高裁の3人の裁判官が合議したうえでの結論です。合議の秘密があるのでわかりませんが、全員一致か、少なくとも2人の裁判官の意見が一致しない限り、この結論は出せません。辞めていく裁判長が判決主文に関係ないことを勝手に「蛇足」で述べたというような言い方は、それぞれ独立して職権を行う裁判官が合議のうえで出した判決に対するものとしては不正確です。メディアのなかにも、判決を軽視、無視、蔑視するような傾向がみられます(『産経新聞』18日付等々)。裁判所の違憲判断は、その事件を解決する必要な限度で行われるとされており、この判決も主文を導くのに必要と裁判官が判断したからでしょう。その効力も当該事件への個別的なものにとどまります。ところが、『産経新聞』24日付などによると、23日の自民党憲法審議会の総会で、この判決を契機に、裁判官の人選のあり方や最高裁に上告できる制度、傍論で憲法判断ができない制度の見直しの検討に入るということです。たまたま政府に都合の悪い判決が出たというだけで、司法の制度を変えるというのでは、この国の権力分立(一般には三権分立)はどうなるのでしょうか。政治家は、憲法が違憲審査制を設けたことの根本的な意味を考える必要があると思います。                        


2.「光市母子殺害事件」の差し戻し控訴審(広島高裁)判決

  さて、今週22日、広島高等裁判所で「光市母子殺害事件」の差し戻し控訴審の判決が出されました。この日の新聞テレビ欄をみると、東京のキー局すべてが判決言い渡しの5分前から報道特別番組を組んだことがわかります。実際、記者を何度も走らせて、法廷内の様子を刻々と伝えました。ここまでやったのは初めてだと思います。

  この事件は、99年4月14日、母親と生後11カ月の赤ちゃんが押し入れと天袋から変わり果てた姿で発見され、近所に住む18歳と30日少年が殺害を認めたため逮捕された事件です。1、2審は無期懲役、2006年6月に最高裁が「特に酌むべき事情がない限り、死刑を選択するほかない」として前控訴審判決を破棄・差し戻しをして、今回はその差し戻し控訴審の判決です。元少年は供述をひるがえし、強姦の犯意や計画性を否認したため、新たな供述の信用性が焦点になりました。判決は「あまりにも不自然」「到底信用できない」などの強い言葉で新供述をすべて退け、元少年に死刑の判決を言い渡しました。新聞各紙は地方紙を含め、22日付夕刊ほとんどが一面トップ扱い。広島の『中国新聞』夕刊は法廷内部のカラー写真を正面に据え、『東京新聞』夕刊は傍聴券を求めて裁判所周辺に並んだ3886人の航空写真をカラーで乗せました。翌23日付各紙はすべて社説で取り上げ、「常識に沿う妥当な判決だ」(『産経』)、「厳罰化の流れが強まるが」(『毎日』)、「処罰感情重視する流れ」(『中国』)等々。『朝日』社説だけは、「あなたが裁判員だったら」という見出しで、目を引きました。

  光市の事件が起きた3カ月後の1999年7月、司法制度改革審議会が設置され、2001年6月の最終意見書で、「国民の司法参加」の脈絡で裁判員制度が提言されました。来年5月21日にこの制度が発足します。この判決ほど、裁判員制度との関連で注目された事件はなかったと思います。『中国新聞』22日付夕刊解説は、「厳罰化の流れ加速 裁判員制度にも影響力」という見出しを打ち、1983年に最高裁が示したいわゆる「永山基準」の9項目に言及し、「根底にあったのは『原則は無期懲役、例外は死刑』の考えだった。遺族らの処罰感情を重くみる判断が続くなか、従来の枠を超えて『死刑を例外としない』という意思がのぞいた」と書いています。どの社説も一様に、「市民がこうした死刑か無期懲役か難しい判断を迫られる。自分なら、この事件をどう裁いただろうか」(『朝日』)というトーンです。ただ、私は裁判員制度の問題に行く前に、刑事裁判の根本が問われているという点が大切だと思います。被告人・弁護団対被害者遺族という対決図式がメディアを通じてクローズアップされました。肝心の刑事裁判というのは、裁判所において、検察官と弁護人が証拠に基づいて争う。そこでは「疑わしきは被告人の利益に」の原則が貫かれます。弁護側は傷害致死を主張して争い、鑑定証拠も提出されました。しかし、メディアは、荒唐無稽、まったく奇異なこととして、被告人・弁護団の許しがたい妄想という扱いすらされました。しかし、刑事弁護の基本からすれば、事実認定で争うということは当然のことで、そのこと自体を否定すれば刑事裁判の根底が揺らぎます。
   神戸連続児童殺傷事件で少年審判を担当した井垣康弘元裁判官は、『中国新聞』(時事通信配信)23日付コメントのなかで、元少年が父の虐待と母の自殺で人格の正常な発育がとまり、身体は大人でも心は中学1年程度とすると、死刑判決は間違いだとして、家裁調査官や心理学者ら元少年を調べた専門家は、裁判官や検察官にも理解できる説明の工夫をする必要があると述べています。長年少年事件を担当してきた裁判官の言葉として重いものがあります。

  なお、今回の問題では、メディア、とりわけテレビの伝え方が問われました。『北海道新聞』23日付社説は、「事件をめぐるテレビ番組の報道について、放送倫理・番組向上機構(BPO)が、『きわめて感情的に制作されていた』として、各局に改善と自主的な検証を求めた」と書き、裁判員制度の発足との関係で、「裁判報道では予断を与えず、冷静さや公平性が大事なことを教訓としたい」と結んでいるのが印象に残りました。同様の指摘を『毎日新聞』、『河北新報』、『沖縄タイムス』各23日付社説もしています。私もこの意見書を読みましたが、光市事件差し戻し審に関する33本、7時間半の番組を委員会自身がつぶさに検証し、資料を含め42頁にのぼる意見書にまとめています。そこには、テレビメディアが「その場の勢いで、感情的に反応する性急さ」「他局でやるから」という「集団的過剰同調番組」の傾向があったこと、また、番組製作者に刑事裁判の前提的知識が不足していたという指摘もあります。被告人・弁護団に対する反発・批判の激しさや、裁判所・検察官の存在の極端な軽視などから、「刑事裁判における当事者主義について視聴者に誤解を与える致命的な欠陥があった」とも。さらに意見書は、テレビの世界における「素材負け」という言葉をあえて使い、「被告人の荒唐無稽、異様な人物像を捉え損なった点」と「被害者遺族のひたむきな姿勢、痛切な思いに頼りきった点」に、本件放送の「素材負け」がみられると指摘しています。「冷静さを欠き、感情のおもむくままに制作される番組は、公正性・正確性・公平性の原則からあっという間に逸脱していく。それはまた、民主主義の根幹をなす、公正な裁判の実現に害を与えるだけでなく、視聴者・市民の知る権利を大きく阻害するものとなる」(意見書9頁)。重い指摘です。放送界の第三者機関が、判決の一週間前に出した意見書は、そのままこの判決の問題点と課題を浮き彫りにしていると思います。

  『毎日新聞』23日付コラム「余録」は、正義の女神(テーミス)が右手に剣、左手にてんびんを持ち、剣が正義を実現するための力を、てんびんは公平さを象徴する。そしてもう一つ、女神は顔に目隠しをしている。これは真実の公正な判断の妨げになる何ものにも影響されないことを示す。見てはならないのは予断をまねく情報や、権力者の圧力などだ。「女神の目隠しは人が人を裁く理性への信頼と、その困難を同時に象徴しているようだ」。極刑を求める被害者遺族の訴えに世の注目が集まるなか、「中途半端な目隠しは役に立ちそうにない状況にあって裁判官のてんびんは極刑に傾いた」。「裁判員制度で、剣、てんびん、そして目隠しを用いるのは国民である」と結んでいます。

  『四国新聞』23日付社説は、元少年が「反省の仕方を学んだのは、当初約1カ月間の鑑別所の中だけだった。少年院なら、反省や贖罪の意味を理解しない子どもを、教官が手取り足取り導く。だが裁判中に入る拘置所では、…そんな機会はない。だから18歳だった彼が反省の仕方を知らないまま『元』少年になり、9年間を無駄に過ごしてきた可能性は多分にある」と書いています。引き起こされた犯罪のあまりの酷たらしさと、被害者遺族の悲痛な思いを受け止めながらも、私たちは判断に冷静さを失ってならないでしょう。

   なお、『毎日新聞』23日社会面には、今回の判決の記事のすぐ横に、「死刑になりたい」という3段見出し で 、鹿児島県でタクシー運転手を殺害した容疑で逮捕された19歳の自衛官が、「殺すのは誰でもよかった。死刑になりたかった」と供述していることを伝えています。死刑判決の当日に、19歳が罪を犯しました。この「死刑になりたい」と人を殺した19歳に死刑をもって臨めというのでしょうか。個人として大切にされなかった人が人を殺す。その家族を殺された人は死刑を望む。命を大切に思える社会をつくるにはどうしたらよいのか。私たち自身が問い続けていかなければならない重い課題がここにあります。
 

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