ゴルバチョフの死去
8月30日、ミハイル・ゴルバチョフ元・ソ連大統領が91歳で死去した。旧ソ連の指導者で、「人間」を感じる者はほとんどいなかったが、ゴルチョフは例外だった。その言葉や表情、パフォーマンスにおいても魅力的で、圧倒的な存在感を示した。とりわけ、あの時期、あのタイミングでの「ベルリンの壁」崩壊は、ゴルバチョフなくしてはあり得なかった。1989年10月7日、東ベルリンにおける「ドイツ民主共和国(DDR)建国40周年」記念行事に参加したゴルバチョフは、その年の1月に「ベルリンの壁は50年、いや100年は残るだろう」と豪語したエーリッヒ・ホーネッカー国家評議会議長に対して冷やかな態度をとり、東ドイツ指導部はホーネッカーが見放されたことを悟った。移動の自由や自由選挙を求める数千人の市民が「ゴルビー、ゴルビー」と叫んでデモを行った。これを契機に、10月9日にライプツィヒで市民デモが始まり、毎週の「月曜デモ」は巨大化していった。この「月曜デモ」がなければ、内側からの「壁」崩壊はなかっただろう。それに勇気とエネルギーを与えたのがゴルバチョフの存在とその言動だった。
個人的には、ゴルバチョフが行方不明になり、殺されたかもしれないという情報に丸一日、不安になった記憶がある。1991年8月20日、私は「東ドイツのフランクフルト」(ポーランド国境近く)にいた。ホテルの部屋でテレビをつけると、「モスクワに非常事態」という赤いテロップが画面に連続して出ている。「ゴルバチョフ、死亡か」とも。青くなった。「ソ連8月クーデター」である。ゴルバチョフは監禁先から無事にモスクワにもどったが、それ以降、権力は事態を収拾したボリス・エリツィンに移り、ソ連邦崩壊へとつながっていく。なお、この91年8月20日前後の現地での感想は、直言「雑談(72)食のはなし(14)戦闘食」の後半に書いてあるので参照されたい。
ソ連邦崩壊やドイツ統一を含めて、ゴルバチョフの果たした歴史的役割についての評価はさまざまである。西側諸国にとってゴルバチョフは、「ペレストロイカ」(改革)と「グラスノスチ」(情報公開)に象徴される大胆な政策の実施を通じて、冷戦の終結への条件を作り上げた人物である。1990年には「東西関係の抜本的な変化において指導的な役割を果たした」として、ノーベル平和賞を受賞している。
だが、ロシア国内の評価はいたって低い。2016年の世論調査では、「ロシア史において負の役割を果たした」が58%にものぼったという(Russia Beyond 2019.11.09)。実際、ソ連邦崩壊の5年後の1996年のロシア大統領選挙に立候補するも、得票率0.51%で、泡沫候補に近い扱いだった(詳しくは、「国を売った裏切り者」ロシアで根強いゴルバチョフ氏への批判」(エコノミストOnline 2022年9月2日 )。ロシアでは、ゴルバチョフは「ソビエト連邦の墓掘り人」と見なされている。
ゴルバチョフの「非国葬」
ゴルバチョフが死去して、その葬儀はどうなるか。元大統領ということならば、当然「国葬」とういことになる。だが、そうはならなかった。
9 月 3 日、モスクワの労働組合会館「円柱ホール」で、ゴルバチョフの葬儀・告別式が行われた。遺体の周囲を儀仗兵が護衛する。このホールには、かつてレーニンやスターリン、ブレジネフといった最高指導者の遺体が安置された。国葬の扱いではなかったが、遺体安置の場所の選択は、歴代指導者に準じたものといえるだろう。式は大統領府儀典局が組織したとされ、儀仗兵はクレムリン連隊(大統領連隊)所属である。ウラジーミル・プーチン大統領は公務を理由に欠席したが、冒頭左の写真にあるように、死去の当日、病院を訪れ、遺体に赤いバラをたむけている。ソ連邦崩壊を「20世紀最大の地政学的悲劇」とするプーチンの立場からすれば、ゴルバチョフを「国葬」にはできないが、儀仗兵の派遣をはじめ、明らかに公費を支出することは認めている。
「ウクライナの戦争」がなければ、世界中から多数の元首級が参列しただろうが、西側諸国がロシアに制裁を課しており、ロシアも西側指導者の入国を禁止する措置をとっている。ロシア空域は現在、「非友好的な EU 諸国」からの航空機に対して閉鎖されている。そのため、参列したのは、ハンガリーのオルバン首相などごくわずかだった。米国と英国、それにドイツの駐モスクワ大使が参列した(BBC 9月4日配信参照) 。日本大使は参列していないだろう。
予想を上回る数の市民が押し寄せたため、告別式は時間が延長されたという。ロシアでは人が複数集まって集会やデモをすることが厳しく禁止されている。数千人が列をなして、ゴルバチョフを讃えれば、それは一つのデモの効果をもつ。だが、治安部隊はこの群衆に襲いかかって、解散させることはできなかった。ドイツのフランクフルター・アルゲマイネ紙の編集委員は、「プーチンに反対するデモ」(Eine Demonstration gegen Putin)という評論のなかで、この「ミハイル・ゴルバチョフに別れを告げるに際して、土曜日にモスクワにできた長蛇の列は、かつては数か月来不可能だったもの、つまり、プーチン政権に反対するデモなのである」としている(FAZ vom 5.9.2022)。なお、「公民権ポータル OWD-Info」 によると、ゴルバチョフの葬儀が行われた労働組合会館の前で、少なくとも 4 人が一時的に警察に拘束されたという。
ロシアでは非国葬だったが、ゴルバチョフについて世界中でさまざまな弔意が示された。特にドイツでは、9月7日9時から、連邦議会でゴルバチョフの実質的な追悼式が行われた。冒頭右の写真とこの写真は、ドイツ連邦議会のホームページにある動画を撮影したものである。傍聴席には、フランク=ヴァルター・シュタインマイアー連邦大統領とホルスト・ケーラー元大統領が。議場正面にはゴルバチョフの遺影が掲げられ、連邦議会のベアベル・バス議長が追悼文を読み上げ、終了後に全員で黙祷を行った。これはまさにドイツという国が、国民代表の議会において、遺影の費用を含めて、高額ではないが国費を支出した、まさに国の式典であった。ゴルバチョフについて、ロシアでは非国葬だったが、ドイツでは国会で最大限の弔意が示されたわけである。
バス議長の弔文は、冷戦の終結や中距離核全廃など、世界平和と世界の変革に果たしたゴルバチョフの役割を高く評価するとともに、とりわけ、「我々ドイツ人は、ゴルバチョフに特に感謝しなければならない」として東ドイツ時代に立ち入る。
議長は、東ドイツ内部で社会主義統一党(SED)独裁に抵抗する市民を勇気づけたことを強調する。「ソ連兵は兵舎にとどまり、東ドイツの終焉とドイツ再統一は平和的に行われた」として、ゴルバチョフが軍事介入を許さなかったことを高く評価している。そして、ワルシャワ条約機構加盟諸国の国民の自決権を尊重したことも功績であるとして、「二つの世界大戦、東西ブロックの対立、核抑止によって特徴づけられた一つの世紀の終わりに、私たちは平和的な変革を体験した。特にドイツが」と、ゴルバチョフに感謝している。
ゴルバチョフは「和解への意欲」によって、ドイツとロシアの歴史的和解に計り知れない貢献をした。また、信頼を「世界政治における最も重要な要素」と呼んだ。彼は信頼によって世界を変えた。対話と信頼。それがゴルバチョフの政治行動の基礎だった。冷戦の終結と中距離核の全廃条約(INF)はその成果だった。
他方で、バス議長は、ロシアでは、ソ連邦の崩壊と1990年代の悲惨さはゴルバチョフのせいだとされ、孤独と自国民からの疎外に苦しんできたことにも触れている。
議長は、武力でウクライナに侵攻し、ヨーロッパの平和秩序を破壊しているのはロシアであると指摘しつつ、「ゴルバチョフは平和主義者であり、暴力の放棄、自由、民族の自決を支持するとともに、各国が対話に基づいて紛争を解決し、地球規模の問題に対する共通の解決策を模索する世界秩序を支持した」、そのことがいま破壊されていることに深く心を痛めていると述べる。「しかし、このような暗い時期でも、ゴルバチョフの勇気は、私たちが直面している大きな課題に対する自信を与えてくれる。彼はヒューマニストであった。彼は人々とその可能性を信じていた。「あなたが望むなら、あなたはできる」と彼は何度も強調した. 困難な状況下であっても、国際社会の利益のために新しい解決策を見つけることができると彼は語っていた。あきらめてはいけない」と。
そして、ウクライナの事態を解決する上で、「私たちには、進んで危険を冒し、平和で公正で持続可能な世界への、踏み固められた道を離れ、新しい方法で考え、新しい方法で行動する準備ができている勇敢な人々、ミハイル・セルゲイビッチ・ゴルバチョフのような政治家や人物が必要である」と述べる。そして、議長の弔文は、「私は、偉大な世界変革者と偉大な人間に敬意を表する」で結ばれている。
このあと、全員で1分間の黙祷が行われた。通常の議事日程に入る前の冒頭の18分間だったが、心のこもった追悼の時間だった。
地方でもゴルバチョフへの半旗を掲げるところが多かった。とりわけ私が注目したのは、ベルリンのシェーネベルク・テンペルホーフ区役所の半旗である。この建物は、ドイツ統一前までは、旧西ベルリン市役所だった。統一後のベルリン市役所は、31年前に私が住んでいた旧東ベルリンの「赤い市庁舎」(Rotes Rathaus)である。旧西ベルリン市役所がベルリン市の旗を半旗にすることで、ベルリンの運命を変えた人物への弔意の気持ちが象徴的に示されているのではないか。ちなみに、この旧西ベルリン市役所の写真を掲載したのは、南ドイツ新聞2022年9月3日だけだった。
政治指導者の葬儀のむずかしさ――「国賊葬」
政治指導者の葬儀をめぐっては、いずこの国においても、賛否相半ばということが少なくない。とりわけ国葬にするかどうかは、そのときの政権トップの意向が強く反映する。プーチン大統領はゴルバチョフ元大統領を国葬にするわけにはいかなった。まず、前述のように、ウクライナ侵攻によって各国から制裁を受けており、各国首脳がロシアに弔問に訪れるような国葬にするわけにはいかなかったからである。もう一つは、ロシア国民のなかでゴルバチョフの評価が大きく分かれていることである。国(ソ連邦)を破綻させた「国賊」と考えているロシア国民も相当数いるわけで、「国賊葬」を赤の広場を使ってやるわけにはいかないということだろうか。
ところで、ゴルバチョフの後に大統領となったエリツィンの国葬が、2007年4月25日に行われた。この人物の評価も大きく分かれる。だが、エリツィンが後任指名して大統領になれたプーチンとしては、エリツィンは当然のように国葬にして、「国民的服喪の日」を宣言した。日本政府は、ロシア大使を参加させた。しかし、米国はブッシュ元大統領、クリントン前大統領、英国からアンドリュー王子とメイジャー前首相、ドイツからケーラー大統領、フランスからドゥースト=ブラジー外相が出席した(鈴木宗男衆議院議員「エリツィン前ロシア大統領の国葬への日本からの出席者に関する質問主意書」に対する答弁書(内閣衆質166第204号平成19年5月11日)参照)。どこの国も、国葬が急に行われても、一定レベルの人物を送っている。日本は大使ですませることが多い。この日本の弔問姿勢は、各国にしっかり値踏みされている。外交は相互主義である。表面的な弔意はどこの国でも示す。しかし、実際に葬儀にやってくるかどうかは別問題である。「安倍国葬」も、各国の弔問者のレベルを見れば、すでに結果が出つつあるように思う。
「合同結婚式」の統一教会との「合同葬式」か
「安倍国葬」との対比のつもりで、モスクワにおけるゴルバチョフの「非国葬」と、ドイツにおける追悼行事について紹介してきたが、ここから「安倍国葬」について書く段になって、著しく意欲が低下してしまった。9月8日の衆参両院の閉会中審査(議院運営委員会)での岸田文雄首相の「丁寧な説明」があまりにも紋切り型で、同じことをここまで堂々と繰り返すことに悩みを感じないのかと心配になるレベルだったからである。「丁寧な説明」とは、何を聞かれてもまともに答えないという点で、「丁寧な黙殺」と同じではないのか。安倍・菅・岸田政権で定着した国会質疑の荒廃、ここに極まれり、である。
「安倍国葬」まで2週間という時点で、とうの安倍本人が、政治と統一教会を結びつけるキーパーソンであることを示す事実が次々に明らかになっている。岸田首相のいう「安倍国葬」の4つの理由(①8年8カ月の史上最長の政権、②内閣府設置法4条3項33号、③弔問外交の機会、④選挙活動中に殺害された)も、国民の納得を得られるものではとうていない。このまま強行すれば、「合同結婚式」をやっている統一教会との「合同葬式」に多額の税金が支出されることになる。「安倍元首相は統一教会にとっては、霊界で生きています。地上におけるサタンの勢力との戦いに天から助けてくれる人として位置づけられます」(郷路征記弁護士)という指摘があるように、「安倍国葬」を実施すること自体が、統一教会に対する強力な援助、助長、促進になることは否定できないだろう。
この期に至って、「国葬」に賛成でも、反対意見を無視して強行することにためらいを覚える人も少なくないはずである。8月3日という早い時期に出された日本ペンクラブの声明「安倍晋三氏の国葬について、まずは当面延期が望ましい」がリアリティをもってくるかもしれない。
【文中敬称略】
(2022年9月8日脱稿)
《付記》脱稿後の9月8日、英国のエリザベス女王が死去した。女王の国葬には、日本から天皇が参列することになった。なお、上記の写真は、ゼミ取材合宿で北海道滞在初日の夜、札幌市で行った講演の記事である(『北海道新聞』2022年9月7日付)。講演では120分間、「国葬」の法的論点を含め多面的に語った。「16億円超」はそのごく一部である。