「6月17日事件」の発火点となった現場へ――イラン戦争下のベルリン訪問(その5・完)
2026年6月17日




「6月17日事件」にこだわる理由

日は、「6月17日事件」の73周年である。1953年6月17日に旧東ドイツで起きた大規模な労働者・市民の反政府蜂起である。私はこれに注目して、今まで折に触れて「直言」で書いてきた。今から23年前の直言「「6月17日事件」から半世紀」が最初だった。1991年のベルリン滞在時に偶然読んだ本に触発されたものである。そのこだわりは、16年前に学内の研究会で、その「今日的解読」として報告している(レジュメはここから)。この報告では、建国4年となる「労働者国家」が当の労働者によって不信任を突きつけられ、正統性を失った出来事と指摘した。また、13年前にも、直言「「6月17日事件」60周年―立憲主義の定着に向けて(3)」を出して、これを立憲主義の観点から位置づけてみた。さらに、7年前には、直言「軍が民衆に発砲するとき―旧東独「6月17日事件」、「5.18光州事件」、「6.4天安門事件」、そして、香港」という、少し違ったアングルからも論じた。そこでは、映画『僕たちは希望という名の列車に乗った』(ドイツ、2018年。いまアマゾンプライムで検索すると無料でみられる)についても紹介した。そして、3年前。直言「「6月17日事件」から70年―T-34戦車につぶされた自由」を出して、ウクライナ戦争との関連にも言及した。

 というわけで、今回のベルリン訪問のなかで、この事件の「発火点」となった場所を訪れたので、そこで考えたことを書き残しておきたい。


旧スターリンアレーの「現場」へ

     孫の晃樹はホテルでオンラインゲームに没頭していた。シビアな歴史的現場をたくさん訪れ、飽和状態になったようなので、午後は自由時間にしたのだ。私は一人、地下鉄U5番で、アレクサンダー広場駅から3つ目のヴェーバーヴィーゼ駅まで行った。フリードリッヒスハインという旧東時代からの建物や雰囲気満載の地域である。 

     午後3時という時間帯なので、トルコ人の女性が双子を乗せたベビーカーを押して降りてきた。私の後ろからは、子どもを4人連れた女性が大声で話している。ドイツ語は全然聞こえてこない。出口に向かう壁に、この地域の歴史を示すパネルがたくさん貼られているので、立ち止まって撮影した。4人の子どもたちが全員、珍しそうに私の顔を見上げていく。微笑みかけたが、お母さんはニコリともしなかった。

   展示のテーマは「東・西・東(Ost West Ost)」で、「ベルリン戦後モダニズム」とある。東西ドイツ統一からまもなく36年。東が西に吸収・合併される格好での「統一」だったため、最も東的な地域で、今度は「西から東へ」と、旧東ドイツへの郷愁(オスタルギー(Ostalgie))をあらわす企画なのかと思いきや、少し違うようである。駅の展示も単なる旧東の回顧趣味ではなく、「戦後ベルリン・モダニズム」という切り口のようであり、これは帰国後に検索で知った

     この区は、2001年に、西ベルリン時代からトルコ系移民を中心に多民族的な地区として知られるクロイツベルク区と合併して、フリードリヒスハイン=クロイツベルク区となった。クロイツベルクは多文化の交差点として知られ、西ベルリンの東端に位置し、「壁」が存在していた頃から、若者やアーティスト、反体制派が多く住みついた。パンク、アート、クラブ文化の拠点でもある。区議会は緑の党が第1党で区長を出し、左派党が第2党として関わる、きわめて個性的な地域となっている。

   外に出る。駅の上は旧「スターリンアレー(大通り)」である。1956年のスターリン批判のあと、1961年に「カール=マルクス=アレー(大通り)」に改名された。駅には、その表示の変更を描くパネルも展示されていた。周囲には、「スターリン様式」の無機質な住宅群が並び、その歴史を感じさせる。


「発火点」となったのは建設現場

     北側歩道を少し西に行くと、レンガで作られた小さな記念碑があり、銀色の銘板にこうある。「“私たちは自由な人間でありたい” ローゼンガルテンで、建設労働者たちは1953年6月16日、SED政権による生産ノルマの引き上げに対する抗議を開始した。彼らの行動は、1953年6月17日に全国的な民衆蜂起につながった」と。

    記念碑のまわりは緑の広場という感じである。1954年に造られたそうで、1953年当時は「ブロック40」という巨大住宅の建設現場だった。6月16日(火曜)、ここの労働者が「ノルマ引き上げ」に抗議してストライキを始めた。そして、この現場から「スターリン大通り」を西に向かう自然発生的なデモに発展した。軍事パレードが行われる大通りで、社会主義統一党(SED)の行事の際には、労働者たちも旗をもって行進させられてきた、勝手知ったるコースである。労働者たちは作業服のまま、初めて政府批判のスローガンを叫びながら、政府機関のある中心部に向かった。途中、国営企業の労働者や市民が次々に参加して大規模なデモに発展した。この事件に関する文献には、「ローゼンガルテン=蜂起発祥の地」という表現が見られたが、時系列的にいえば、ローゼンガルテンはその翌年に整備されたもので、建設現場(ブロック40)が発火点だったといえるだろう。

 なぜストライキになったか。背景に、東ドイツ経済の根本的問題がある。「ソ連の下僕」であるSEDは1952年7月の党大会で、「階級闘争の強化」を宣言した。農業を集団農場化し、工場・建設労働者のノルマ(国家が定めた生産計画達成のため企業や労働者に割り当てられる絶対的な生産・労働目標量)を10.3%も増やすと発表した。東ドイツでは1949年10月の「建国」以来、西ドイツに比べて生活水準の低さ、物価上昇・賃金低下が続いていた。それに加えて、労働ノルマの1割以上の引き上げが決まったのだから、当然、全国的に不満が渦巻いていたわけである。

  「ブロック40」の労働者がストライキを行い、政府機関のビルに向かってデモを始めるや、これを西ベルリンの「リアス放送協会」がラジオで詳しく伝えた。この放送は東西全ドイツで聞かれており、「ブロック40」から始まったデモは瞬く間に広がっていった。冒頭の写真は、ドイツ歴史博物館が1998年に発行した『1953年6月17日』パンフレットの38-39頁を撮影したものである。東ドイツ全土に火の手が上がっていることがわかる。  

  「ブロック40」の建設労働者がデモをした翌17日(水曜)には、ライプツィヒやドレスデン、ハレやイエナなどの工業都市を中心に約600の企業体でストライキが行われた。全体では約500カ所でデモが行われ、参加者は50万人を超えたという。40万~150万という説もある。

  当初は建設労働者のストライキから始まったが、デモには若者、職人、ホワイトカラーの職員、中小の経営者、大農場主、家主、牧師などさまざまな階層が参加した。地方では、重要産業や地区政府、党(SED)事務所が占拠された。スローガンも、当初のノルマ引き上げ反対などの経済要求から、「自由な選挙を」、「ロシア人は撤退せよ」、「ウルブリヒト[SED第一書記]打倒」、「我々にSEDは不要だ」、「国家人民軍は必要ない」等々、明らかに政治的性格が濃厚になっていった。ストライキ委員会が政府に向けて打った電報(6月17日付)に掲げられた9項目要求には、政府の即時退陣、進歩的勤労者による政府の形成、4週間以内の自由・秘密・直接選挙、全政治犯の釈放、〔東西ベルリンの〕境界の即時廃止、軍隊(NVA)の即時解体などが並んでいた。

    17日午後にはSED政治局はノルマの廃止を決定したが、後の祭りだった。党・政府首脳は、労働者や民衆の決起に恐れをなし、シェーネフェルト空港からモスクワに向けて逃亡する寸前だった。

    そこで、東ドイツ駐留ソ連軍が鎮圧に投入された。600両のT34戦車がデモ隊に向かった。「ソビエト占領地区軍司令官命令」により、戒厳(非常事態)が布告され、一切のデモ、集会、催しが禁止された。3人以上で集まることも禁止された。

     ソ連軍の弾圧により、デモ隊は散り散りになった。自然発生的なデモのため、指導するリーダーを欠いていたことも大きかった。そのため、本格的な衝突に発展することはなく、命を落とした犠牲者は51ないし55人とされている(3年後のハンガリー事件では3000人前後)。 一方で、戒厳令に基づく特設軍法会議で19人に死刑判決が出された、逮捕者は6171人(6325人という数字あり)にのぼった。注目されるのは、労働者・市民への発砲命令を拒否して、敵前抗命罪で銃殺されたソ連兵が41人もいたことだろう。


SNSも携帯もない時代に、なぜ一気に広がったのか

  新聞とラジオしかない時代に、「ブロック40」のストやデモが、わずか1日で一気に全国に広がったのはなぜだろうか。西ベルリンの「リアス放送」が16日のストライキとデモを詳しく伝え、それで広まったという説がある。「リアスなくして蜂起なし」ということもいわれた。しかし、ラジオ放送だけでそのような急速な動きになるのかは疑わしい。むしろ、生活苦やノルマ上昇による実質的な賃下げなど、もともと全国レベルで“火種”が燃え広がる土壌が形成されていたことが重要だろう。この土壌があったからこそ、ベルリンでの動きが、即座に「自分たちの問題」として受け止められ、蜂起が燎原の火のように広がっていったのだろう。「ブロック40」の建設労働者のストライキはいわば「発火点」になったわけである。

     また、ある研究では、労働現場のネットワークの強さがあげられている。東ドイツは計画経済で、大工場、建設現場、国営企業に労働者が集中していた。したがって、同じ職種や作業システムであったため、労働者のノルマや賃金の問題が共通だった。このような背景と労働現場の連携の強さから、対面の口コミ(直接伝達)のネットワークが有効に機能したようである。SNSがない時代、対面の口コミが大きな影響力をもったことは注目されていいだろう。


「6月17日事件」の歴史的意味

     この事件は、有能な人材(科学者、技術者、熟練労働者)が西に流失するきっかけとなった。まだ「ベルリンの壁」は存在せず、東西の行き来はある程度可能だった頃である。前述の映画『僕たちは希望という名の列車に乗った』はそのあたりを切々と描いている。個人的には、高校生の主人公の父親が「6月17日事件」に関与したために職業上の不利益を受けており、複雑な思いで息子が西に逃げるのを黙認する。サイドカーを運転する父親の別れの場面が印象的だった。 

    「6月17日事件」が起きた1953年には33万人が西ドイツに亡命し、その数は1961年までに計270万人に達した。かくして、1961年8月13日、「ベルリンの壁」の建設が始まるのである。ソ連の介入によって支えられたSED政権が、これ以上、若者や優秀な人材を逃がさないための「牢獄の塀」が「ベルリンの壁」の存在理由だった(直言「「壁」を作る側の論理」参照)。東ドイツの政治風刺ジョーク(アネクドート)に、「そして誰もいなくなった。ウルブリヒト(第一書記)を除いては」というのがあった。 

 そもそも、ソ連軍戦車によってしか維持できない政権とは何だったのか。旧東独政権は1953年6月17日の時点で、労働者・民衆から「不信任」を突きつけられていたのである。 左の写真は「自由な選挙」を求める労働者・市民である。これを押しつぶして存続した「ドイツ民主共和国」とは何か。「壁」崩壊で消滅するまでのそれは、労働者・民衆を幽閉し、抑圧する「装置」でしかなかったのではないか。「6月17日事件」は、そうした「装置」に対する最初の民衆蜂起であり、1956年のハンガリー事件、1968年のチェコ事件、1980年代ポーランドへと続く苦難の歩みの「最初の一突き」であったといえるだろう(以上、前掲「直言」参照)。

    しかし、ハンガリー事件について、冷戦時代は「米帝国主義の反革命策動」のような評価が日本にもあった。チェコ事件(1968年)ではソ連批判を直ちに行った日本共産党も、1956年ハンガリー事件の評価を公式に見直したのは1988年の『日本共産党の65年』だった。それまで同党は、ハンガリー事件を「反革命」と規定し、ソ連の軍事介入を擁護する立場を実質的に維持してきたわけである。「6月17日事件」について公式の言及は見当たらない。各国の共産党が、SEDの公式見解である「反革命・反ソ暴動」に沿った評価をしていたなかで、日本共産党がこれを積極的に否定する評価をしたという記録も記憶もない。 

  さて、1989年になると、旧東ドイツで市民フォーラムなどの運動が活発化する。そして、10月にライプチッヒで「月曜デモ」が始まり、普通の人々が街頭に出るようになると、再び「6月17日事件」が想起されるようになる。当時は、またソ連軍が出てきて武力鎮圧されるかもしれないという恐怖心もあったように思う。だが、ソ連はゴルバチョフ時代を迎えており、武力侵攻などを考えていなかった。それに加え、ゴルバチョフは、「ブランデンブルク門で天安門を繰り返すな」と旧東ドイツ指導部に圧力をかけていた。かくして、1989年11月9日、「ベルリンの壁」は崩壊する。 私が生まれた年に起きた「6月17日事件」から36年が経過していた。そして今年は、「壁」崩壊の翌年に実現したドイツ統一から36年である。

     旧西ドイツは「6月17日」をドイツ統一記念日と決め、ティアガルテンを貫く大通りを「6月17日通り(Straße des 17. Juni)」と改名した。この連載の第1回の真ん中あたりに、この通りが交通規制で閉鎖されていたため、これに沿って、孫の晃樹とティアガルテンの小道を散歩したことが書いてある。ベルリン滞在中、この通りの名前の意味や、この事件について晃樹に説明する余裕がなかったので、この「直言」は晃樹にも読んでもらいたいという思いで書いた。ワールドカップ2026が終わったら、『僕たちは希望という名の列車に乗った』も見て、感想を聞かせてほしいと願っている。  


1991年の「ベルリン発・緊急レポート」転載

  本連載のなかで何度も出てくる私の1991年の旧東ベルリン滞在は、ベルリン自由大学の平和・紛争研究所(当時)に招聘状(Einladung)をもらい、広島大学から許可を受けた在外研究だった。ホームページのプロフィル欄では調査研究としている。この写真は今回の訪問の最終日、テレビ塔下のカフェで抹茶ラテを飲みながら撮影したものだ。91年当時、背後に見える建物の8階に住んでいた。この部屋で書いた「ベルリン発・緊急レポート」の4回連載を、日本評論社の許可を得て、ここに転載することにしたい。38歳の私の作品をここに並べて、73歳の老体に鞭打ってまわったベルリン訪問記の最終回を飾らさせていただきたいと思う。「ベルリン発・緊急レポート(1)~(4)」(全体のPDFファイル)はここから。個別ページは下記である。

・「ベルリン発・緊急レポート(1)  ドイツ統一から半年  連続と断絶」(『法学セミナー』1991年6月号70-73頁)

・「ベルリン発・緊急レポート(2)  一つの国家、二つの社会」(『法学セミナー』1991年7月号56-60頁)

・「ベルリン発・緊急レポート(3)  ドイツ統一から半年 「二つの過去」の克服」(『法学セミナー』1991年8月号60-64頁)

・「ベルリン発・緊急レポート(4)  ドイツ統一から半年  「内的統一」への道程」(『法学セミナー』1991年9月号96-102頁)

なお、この4回連載は、拙著『ベルリン・ヒロシマ通り―平和憲法を考える旅』(中国新聞社出版部、1994年、絶版) に収録された。


 いま、国内外の状況は激動に輪をかけている。一気に政局になる可能性もある。次回から詳しく論ずることにしよう。

    2カ月にわたる長い連載にお付き合いいただき、ありがとうございました。       (完)

 

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