米国製「ゴジラ」の核感覚 1998/7/20


映画「ゴジラ」を上映する有楽町マリオンの日本劇場は、平日午前中なのに満席に近い(午後から入場制限)。カップルやグループは少なく、年輩の人も多い。館内は静けさが支配し、上映を待つ人々は一様に寡黙だった。パンフを見ると、「ゴジラは単なる映画ではなく、歴史的事件だ」とか、「自然からの報復は必ず来る」といった思わせぶりの文章が並ぶ。だが、映画が始まるや、1分に1回は「金返せ」と叫びたくなるようなシーンの連続。中身は「ジュラシック・パーク」と「エイリアン2」のパロディに近い。かりに「巨大イグアナの襲来」というタイトルだったら、平日にこれだけの観客は集められないだろう。売り物の映像技術の凄さなんて、金さえかけりゃ何でもできる。荒っぽい筋立て(仏特殊部隊の登場はひどすぎる!)や、薄っぺらな人物描写だけならまだ許せる。だが、「核の化身」たる「ゴジラ」というタイトルを冠したのは、日本の観客の思い入れを当て込んだ、明らかに詐欺的手法だ(法的に厳密な意味ではない。念のため)。冒頭シーンは、南太平洋でのフランス核実験。ラ・マルセーエーズ(国歌)をちょいと流し、カウントダウンまでご丁寧にフランス語だ。だが、上映数分で早くも破綻をきたす。爆発シーンは明らかにビキニ岩礁でのアメリカの水爆実験の映像。真珠湾攻撃時に山本五十六連合艦隊司令長官が乗った戦艦長門をわざわざ水爆実験に使用するという凝った「演出」までした、あの映像だ(画面端に長門が一瞬見える)。歴史映像を使うことへの自覚などは皆無。核実験で誕生した怪獣という設定にはなっているが、それも最初のうちだけ。生き残りの日本人漁船員や巨大な足跡から放射能反応が出るシーンも、NY上陸後はすっかり忘れ去られ、ゴジラはごく普通の「巨大トカゲ」と化す。私が監督なら、ゴジラが通過した地区一体が核汚染地域に指定されたといった映像を一瞬でも流す。もっとも、日本のゴジラ映画も60年代以降のものからは、「核の化身」というリアリティは希薄になってしまったが、それにしてもこれはひどすぎる。さらに、破綻は随所に見られる。時速480 キロのゴジラが、100 キロ程度で走るタクシーと「カーチェイス」を展開する(笑)。日本のゴジラのドーン、ドーンという足音を使っているが、俊足ゴジラにしては妙にゆっくりだ。大映映画「ガメラ」で、身長60メートルの「ガメラ」が東京タワー(333 メートル)を上からペシャンコにするという破綻の方がまだかわいい。米国製ゴジラは弾に当たって血を流し、魚を食べ、卵をうみ、米軍の攻撃からひたすら逃げ回る。巨大な「生き物」であり、真正ゴジラのような威厳はない。破壊の仕方も偶発的で、地味だ。ゴジラ第1作のように、東京を焼け野原にしたりはしない。NYを破壊したのはゴジラではなく、市民の避難を確認しないうちにミサイルを撃ちまくる米軍である。大統領がF15に乗って宇宙人と戦って勝利するという駄作「インデペンデスンデイ」と違い、大統領も国防長官も米軍の大部隊も出てこない。陸軍大佐が指揮する大隊規模の州兵。それに空軍の一部と海軍(なぜか潜水艦だけ)。しかも、この映画に出てくる米軍はどこか間が抜けている。そんな米軍に、ゴジラはあっけなく殺されてしまう。米国製「ゴジラ」のリアリティの欠如は、空襲や原爆で都市が焼け野原になったことのない米国人の感覚を率直に反映している。なお、私は毎年、1954年「ゴジラ」第1作の英語版を、法学部1年生の基礎演習で見せている(拙稿参照)。