東ベルリンの「暗黒の水牢」 1999/8/9 ※本稿はドイツからの直言です。


5420キロ。7月に私が車で走った距離だ。ベルリン、ポツダム、ヴァイマールで4泊、デンマーク国境に近い北海沿岸クックスハーフェンの海水浴で3泊、ウィーン、リンツ(ブルックナーの「聖地」ザンクト・フローリアン)、プラハで3泊。前者は取材、後2者は家族サービス。来週から仕事でベルリン。翌週家族とポーランドに向かう。2カ月で1万キロ近い。アウトバーンのおかげだ。

  さて今回は、旧東独のおぞましい「新名所」を紹介しよう。東ベルリンのホーエンシェーンハウゼン。ソ連的な高層住宅が立ち並ぶ一角に、あの特有の形の監視塔が見えてくる。Genslerstraße66番地の「シュタージ〔旧国家保安省〕監獄」。8年前のベルリン滞在中に訪れたときは、外側から写真を撮るだけだったが、今回は正面の鉄扉から入り、案内人までついた。95年から「記念館」として公開されている(開館は11時のみ。土日は11時と13時で無料)。
  ここは、1945年以降、旧ソ連秘密警察の第3特別収容所(Speziallager)だった。20000人以上が拘禁され、3000人がここで死んだ。ナチス党員だけでなく、ソ連占領軍の「敵対分子」とされた人々も多数含まれていた。旧ソ連刑法58条(反革命罪!)も適用されたので、共産党との「合併」(社会主義統一党[SED]の結成)に反対した社民党幹部や、冤罪を主張した牧師までが拘禁された。その後、シュタージの未決勾留施設となったが、その本質は拘置所や行刑施設(刑務所)などではなく、「政治司法」の施設だった。「ゴム暗黒独房」(Gummi-Dunkelzelle)や「Uボート」という窓なし独房を見ればそれは明らかだ。前者はラジオスタジオのような構造で音を完全に遮断。光も入らない。後者は一種の水牢。寒い暗闇のなかで注水された。精神障害を起こした人もいたという。「鳥かご」(Käfigen)という野外独房にも入った。人間を精神的にいためつけるサディスティックな工夫が随所に見られ、吐き気を覚えるほどだ。

  同種の収容所としては、ザクセンハウゼンの第7、ブーヘンヴァルトの第2など11(13ともいう)施設が存在した。91年の滞在時、ザクセンハウゼン第7特別収容所で戦後死んだ人々の骨が大量に発見されたとき、これをナチス収容所の戦後再利用として、現地から日本に紹介した(拙稿「ベルリン発緊急レポート(3)『二つの過去』の克服」法学セミナー91年8月号、拙著『ベルリンヒロシマ通り』中国新聞社に収録)。
  途中、ヴァイマール近郊のブーヘンヴァルト強制収容所にも寄った(月休、9時45分〜17時。無) 。今回は旧ソ連の第2特別収容所としての側面に注目した。戦後28455人(公式記録による)が収容され、戦後5年間で7113人が死んだ。展示(Ausstellung)という標識を見て、建物を探しに森に入る。薄暗い森のなかに、2mほどのスチール製の棒が無数に立っている。説明パネルを見ると、そこが数千人の大量埋葬地と分かる。森全体が「展示」だったのだ。銀色の棒一本一本の下に人間がいる。急に寒けを覚え、その場に立ち尽くした。奥に個人名を記した碑群がある。1947年死亡が多い。日本国憲法が施行された年。旧東独地域ではこういう大量死が存在したのだ。ナチスと旧ソ連とを同一視するなという物言いが、「社会主義国」の残虐行為の解明を遅らせてきたように思う。旧ソ連や旧東独が「人間の尊厳」を侵す体制として存在した事実はもはや否定できない。その実態は今後、一層明らかにされるだろう。

  なお、シュタージ本部1号館が「記念館」として公開されている。地下鉄U5番でMagdalenenstraße駅下車、徒歩数分。開館は平日(月曜休)が11時〜18時。土日14時〜18時。入館料5マルク。ミールケ国家保安相の部屋や会議室、椅子や机などが当時のまま。盗聴器や監視用機器もある。私は人を案内して、この8年間に9回訪れた。「盗聴法」をもった日本の市民も、ここを訪れる価値は十分にある。

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