緊急直言 「不信任」と「信任」の間 2000年11月22日

21日未明、衆議院において内閣不信任決議案が否決された。「長いドラマのはじまり」を 威勢よく語り、歯切れよく「100%可決されます」と言い切った加藤自民党元幹事長は、 半日のうちに、「名誉ある〔自分で言うか!〕撤退」をした。その結果、内閣不信任案は 否決された。100%から0%への「転進」があまりにも劇的だったため、街頭インタビューを受けた市民の反応も、「エーッ、通らなかったの?」だった。誰もが可決されると思っていたから、驚き・失望は大きかった。ニュース23(キー局はTBS)に寄せられたメールには、15歳の中学生や17歳の高校生など、若い人々のものが目立った。これほど若者の関心を集めた政治的「事件」は、最近では珍しい。中学生までもが、不信任案可決は当然と いう感覚で見守るという状況は、歴代内閣の末期症状のなかでも希有のものだろう。ところで、今の首相について、この「直言」で一度も実名を使ったことがない 。「いま首相をやっている男」とか「あの男」という、やや品のない表現をしてきた。その理由は、青木官房長官(当時)らの政治的陰謀の結果生まれた内閣だからである。私はこの内閣の正当性を認めていない。首相在任中のわずか9ヶ月の間に残した「失言」の数々。もっとも、これが「失言」ではなく「幽弁」であること はすでに書いたが、それにしても、不信任案否決のときに、国会の壇上でいま首相をやっている男がニヤリと笑ったときは背筋が寒くなった。不気味な笑いだった。今までのどんな首相でも、あのような状況で笑える人はいなかったと思う。おそらく、不信任案否決のために「命をかけて」恫喝してまわった野中幹事長も、この笑いには不快の念を深くしたに違いない。世の中には、支えがいのない人物というのがいるものである。人がどんなに必死な思いで支えても、本人にはまるっきり分かっていな い。意見の対立による喧嘩別れならば、まだすっきりしている。しかし、必死に仕えても、周囲への配慮がまったくできない、まったく「感じない」タイプの人間は、周囲に深い 恨みをかう。近くにいて、懸命に支えている人ほど、幻滅や失望ではなく、絶望感をもって去っていく。いま首相をやっている男とは性格も行動パターンもかなり異なるが、自分 を支えている人々への配慮がまったくない(そういう感覚がそもそもない)タイプとしては、細川元首相がいる。単なる人望がないという程度の人物とは質が違う。だから、いま の首相も、必死に仕えた中川官房長官が辞任した日、どこかの大学の野球試合を観戦しに行って、大笑いできるのである。

  不信任決議案が否決された22日、野中幹事長は橋本派の総会でこう明言した。「今回の否決は、決して首相の信任を決定したものではないと私は思っている」。これはすごい発言である。自民党幹事長が自民党総裁・首相について、ここまで言い切った例を私は知らない。不信任案の否決は信任を意味しない。一般の人にはなかなか理解できないが、憲法69条の規定を引用すれば意味が分かると思う。「内閣は、衆議院で不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決したときは、十日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職をしなければならない」。信任決議案というのは、政権与党側が政治的に中央突破をはかるときに使う手法だ。まだ一度も使われていないが、野中氏が言ったことは、もし信任決議案をいま出せば、その決議案は否決されるだろうという ことに等しい。不信任には賛成できないが、かといって信任する気になれないという人にとって、積極的に信任決議案に賛成することができるだろうか。いっそのこと、加藤氏と山崎氏は結束して、内閣信任決議案を出してみたらどうか。50人以上の国会議員の連署があれば出せる(衆議院規則28条の3)。理由としては、中学生も政治に関心を持つようにな った「貢献」は多大である、とすればよい。そうすれば、信任決議案の否決に、野中氏も協力してくれるかもしれない。加藤氏の「政治生命」を「復活」させる道はこれしかない(笑い)。ただ、お公家さんの「大将」を担ぐ「同志たち」はもう結集しないだろうが。