大虐殺の傷痕(2) カンボジア・ラオスの旅(2)  2001年4月16日

ノンペン市350通りと113通りの交差点に近い24haの敷地に、3階だての建物が並ぶ(→画像へ)。ツールスレーン(Toul Sleng)収容所博物館。もとはTuol Svay Prey高校だった。1976年5月から、クメール・ルージュ(カンボジア共産党)はここを収容所として使い始めた収容所と化した高校。コードネームはS-21(セキュリティ・オフィス21)。オンカー(Angkar)=「党」直属の秘密組織である。人々は、その名を聞くだけで震え上がったという。ここで命を落とした人は数知れない。収容された人々の国籍はベトナム、ラオス、タイ、英国、米国、カナダ、ニュージーランド、オーストラリアなど多岐にわたる。圧倒的多数はカンボジア人だった。確認された数は10499人カンボジアの髑髏地図。ただし、この数字にはここで殺された子ども2000人は含まれていない。旧ソ連の内務人民委員部(NKVD)や旧東独国家保安省(シュタージ)と同様、「危険分子」の範囲は限りなく広がる。党幹部や閣僚といった「同志」でさえ監視され、殺された。異様なのは、要員1720人のなかに、10歳から15歳の子ども部隊が存在したこと。オンカーは子どもに陰惨な拷問技術を教え、実践させた。オンカーによって「マインド・コントロール」された子どもたちが、「有害虫の駆除」という感覚で、人々を虐殺していった。校舎だった建物に入る。入口には当時の「安全規則」10カ条が掲げてある。「質問にはすぐに答えよ」とか「何もするな。じっとして、命令を待て」、「規則に従わなければ、電気ワイヤーの鞭打ち」等々。市松模様の床に並んだ机はすべて撤去され、狭い独居房(0.8×2m)に作りかえられている(→画像へ)。窓はすべて鉄板で遮蔽され、便器は鉄製の弾薬箱だ。比較的広い部屋にベッドが一つ置かれた棟では、拷問に使われたスコップやムチが無造作に置かれ拷問用の道具、そこで殺された人の遺体の写真が掲げてある。床にはどす黒い血のあとが至るところに残る。S-21は尋問部、記録部、防衛部の3つからなる。記録部は収容者の顔写真や死体の写真をすべて撮って保存した。外国人の写真もある。壁一面に掲げられている「囚人」の死体の写真を見ていると、「なぜ、そこまで」という思いがつのる(→画像へ)。この徹底さは、記録部の要員たち自身が生き残るための術だったという。真面目にやっているという「形」を示さなければ、明日にでも自分が殺されるかもしれない。不安の無限連鎖。一緒に犯罪行為を行い、積極的にそれを繰り返すことで保身をはかる。「不安の政治化」の特徴がここにも確認できる。旧体制下の人々を殺し終わると、粛清の第2波は自分たち自身に向かう。党内の「ブルジョア的傾向」の粛清である。その過程を分析したDavid Chandler,Voices from S-21:Terror and History in Pol Pots Secret Prison,Thailnad 2000,p.46には、全体主義分析の大家ハンナ・ アーレントの次の言葉が引用されている。「現存の敵の根絶が完成し、『客観的』な敵の探索がはじまった後にこそ、テロは全体主義体制の実際の中身となる」。奥の棟には、拷問の模様を描いた絵も展示されている拷問の様子…生爪剥がし→画像へ)。どうして人間はかくも残酷になれるのか。暗澹たる気持ちになる。そこで思い出したが、旧ソ連の作家ソルジェニーツィンの『収容所群島』には、内務人民委員部(NKVD)の「32種類の拷問」が出てくる。その28番目に「痕跡を残さないように殴りつける」とある。もっとも、ポル・ポト政権下では、そんな「上品」な方法はとられなかった。ムカデやサソリを体にはわせたり、水攻めの手法水攻め用の道具もねちっこく、より陰湿である(→画像へ)。粛清の嵐が吹き荒れるなか、「味方」の内部から離反者があらわれる。粛清の対象になったポル・ポト軍の地方司令官たちが、ベトナムの後押しでポル・ポト政権を倒すのは1979年1月7日のことだった。それから22年たった今年1月、元ポル・ポト派幹部の大量虐殺を裁く特別法廷設置法が制定された。シアヌーク国王が中国に「病気療養」で滞在したりして署名をしぶっているため、4月現在まだ施行されていない。ポル・ポト政権の「過去の克服」の仕事は、まだ始まったばかりである×印をつけられたポル・ポト

なお、本稿執筆に際して参考にしたChandlerの書物は、収容所の売店で5ドルで買ったのだが、妙に印刷が悪い。帰りに空港の売店で現物を見つけ、私が買ったのは違法コピーと知るが、後の祭だった。

※なお、下記のサイト参照。
カンボジア虐殺の分析(イェール大学)

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