「妖精が棲むまち」に降ったもの  2001年7月2日

とした朝の空気を感じながら、ガレージをあける。ふと森の方をみると、新雪のなかに茶色いものが見える。キタキツネだ。一瞬目が合った。午後、家の前のスロープを子どもたちがスキーで滑り降りるのを書斎の窓越しに見ながら、原稿を書く。夕食のテーブルには、森で採れたタラノ芽の天ぷらが並ぶ。カワセミ、アオサギ、エゾリスなどの小鳥や動物たちにも会える。「緑のなかに妖精(エルフ)が棲むまち」、北海道北広島市(私が住民だった当時は札幌郡広島町)。17年前、31歳のとき、ここに家を建てた。親切でやさしい隣人たち。当時10数軒だった松葉町5 丁目に自治会を立ち上げ、役員もやった。近所の子どもたちを集め、公園でジンギスカンパーティをやったことも。正月あけ、東京の実家から戻ると、門から玄関まできちんと除雪されている。凍結しないよう、隣の方が毎日、道を作ってくれていたのだ。その方は高校の地学教員を退職後、いつも庭で化石を磨いておられた。息子を化石採集や天体観測に誘ってくれたこともある。私たち家族にとって、北広島での6 年間はかけがえなのない財産、子どもたちには「思い出の故郷」である。

  6月26日各紙は、そんな北広島で起きた、とんでもない事件を一面トップで報じた。航空自衛隊第83航空隊第302飛行隊(那覇)所属のF-4EJ (改)要撃戦闘機が、M-61A1(20ミリバルカン砲) の訓練弾188発を誤射。北広島リハビリセンターなどに着弾したのだ。着弾地点は私が住んでいたところから、車で数分の距離だ。いま、私の研究室には105ミリから5.56ミリまで、10種類以上の銃砲弾(もちろん火薬抜き)が並んでいるが、20mm機関砲弾20ミリ機関砲弾はずっしり重い。発射角度がほんのわずかずれただけで、住宅地を直撃した可能性もある。親しかった隣人たちの顔がよぎり、体が凍りついた。テレビニュースに懐かしい北広島の映像が流れる度に、家族は画面に見入る。北広島、恵庭、千歳、札幌の各市にまたがる自衛隊北海道大演習場(総面積9600ha)。そのうち、島松演習場は総面積3363ha。山菜採集が許可される時期に数回立ち入ったが、キャタピラで土が細かく粉砕され、砂ぼこりがたちやすく、雨が降ると泥沼と化す。近くの恵庭市柏木には、陸自唯一の機甲師団・第7 師団隷下の戦車連隊3 個のうちの2 個(第72、第73)と方面隊直轄の第1 戦車群の駐屯地がある。200両以上の戦車が常駐するのは日本でここだけ。国道36号線を右折(札幌方面から)してすぐのところにある。周囲は住宅地で、戦車パーキングと塀一つ隔てて老人ホームもある。道央自動車道をまたぐ戦車道を通って、戦車が轟音をあげて直接演習場に進出する。私がいた頃は74式戦車が主力だったから、105 ミリ砲の実弾砲撃訓練が中心だった。北千歳の特科(砲兵)部隊の重砲射撃訓練もあった。町広報には毎号、「実弾射撃演習日程」が載る(平日は午前7時から午後8時。日曜は午前10時から午後5時または8時まで)。ドドーン、という鈍い地響きが日常生活のなかにあった。厚い雲に覆われる日などは、書斎の窓がビリビリ震えるほどの衝撃があった。さらに、島松演習場には空対地射撃場がある。戦闘機が急降下してミサイルや機関砲を打ち込む訓練をする。その旋回空域が私の家の南西方面にあり、千歳の第2航空団のF-15戦闘機が旋回・降下するのがよく見えた。爆音もけっこうなものだった。今回、沖縄の部隊がここで訓練をやって事故を起こした。沖縄では米軍との関係で、対地攻撃訓練はできないからだ。事故機のF-4EJ(改) は対地・対艦攻撃能力を向上させたもので、ASM-1(空対艦ミサイル) も搭載可能。「要撃戦闘機」という名称は、もっぱら旧ソ連機の領空侵犯に対してスクランブルをかけていた時代のもので、今日、地上攻撃や艦艇攻撃の訓練を強化して、「支援戦闘機」(実態は戦闘攻撃機[FA])として側面に重点が置かれつつある。ただ、F-4EJ は30年前の旧式。改修も20年前からだ。そんな中古修理の代物を使って、沖縄の航空部隊に対地・対艦攻撃をさせる意味は何か。一般的な訓練にすぎないと言うだろうが、私が北海道に住んでいた冷戦時代の「北方重視」と異なり、今日の作戦想定は明らかに「西南」方面にシフトしている。そんな事情も、事故の背後にあるのではないか。

  なお、島松演習場に隣接する恵庭市牧場に、かつて野崎牧場があった。砲撃訓練や空対地射撃訓練の騒音や振動のため、牛の乳がでないなどの被害が出た。当時、F-86戦闘機は野崎牧場のサイロを目指して降下した。牧場主の野崎健美氏らは抗議行動を展開。1962年12月、野崎さんと弟の美晴さんは抗議行動の一環として、射撃命令伝達用通信線をペンチで切断。その行為が自衛隊法121条(防衛用器物損壊罪)違反として起訴されたのだ。400人を超える大弁護団、深瀬忠一・久田栄正など全国の憲法学者の支援のもと、この「恵庭事件」は、自衛隊の違憲性を問う、憲法裁判史上に残る事件となった。1967年3月、札幌地裁は自衛隊に対する憲法判断を回避。法律解釈によって野崎兄弟を無罪にした。国側は控訴せず、無罪判決が確定した。私は17年前、ゼミの学生たちを連れて、恵庭事件の現場を訪れ、野崎さんにインタビューしたことがある(拙著『ベルリンヒロシマ通り』に収録)。野崎さんは「原点からものみる」ことを強調。射撃訓練の被害は人権問題であり、自分たちの人権がどう保障されているかを知るため、憲法制定過程の審議録まで読んで勉強したことを語ったくれた。なお、この原稿を書くためにサーチをかけて初めて知ったのだが、野崎さんの「権利のための闘争」の知恵とパワーは、いま、「手作りハムの本物へのこだわり」(エーデルワイスファーム)として活かされている。早速、懐かしいドイツの味を求めて注文してみることにしよう。島松演習場の誤射事件は、私個人に思わぬ「美味しい再会」をもたらしてくれた。

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