映画「恵庭事件 知られざる50年目の真実」に寄せて
2017年8月28日

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『憲法を武器として 恵庭事件―知られざる50年目の真実』(稲塚秀孝監督、2017年)が公開された。7月に試写版を拝見したので、この映画の完成に寄せて、長年にわたりこの事件にこだわってきたものとして一言しておきたい。

法学部の学生にとって、「恵庭事件」といえば、憲法9条の裁判というよりも、81条の違憲審査制のところで、「憲法判断の回避」の事例として記憶している人が多いのではないか。私は平和主義・憲法9条を扱う際に、恵庭事件の背景から内容、判決の位置づけに至るまでしっかり講義する。その恵庭事件の札幌地裁判決から今年で50年になる。

恵庭事件とは何か。ごく一般的に言えば、今から半世紀以上も前に起きた、自衛隊演習場近くの酪農家と自衛隊との騒音・振動をめぐる紛争ということになる。北海道千歳郡恵庭町(現在の恵庭市)で酪農業を営む野崎健美さん、美晴さん兄弟が、野崎牧場に隣接する陸上自衛隊島松演習場における砲撃訓練や、航空自衛隊千歳基地のF-86戦闘機が同牧場のサイロを目標に空対地射撃訓練をすることによって生ずる激しい騒音や振動のため、乳牛が極度のストレスで乳量を激減させる、家族にも難聴となる者が出るなど、生活は逼迫していた。訓練の中止や補償等を北部方面総監部に求めるも聞き入れられず、度重なる交渉の結果、砲撃訓練を実施する時は野崎さんに事前連絡をするという「紳士協定」が生まれた。しかし、これが破られたため、野崎さんたちは抗議行動を展開し、その一環として、1962年12月、火砲の間接照準射撃に不可欠な射撃命令伝達用通信線をペンチで7箇所を切断した。もしこれが刑法261条(3年以下の懲役)で起訴されていたら、地元紙の3面記事扱いの一刑事事件で終わっていただろう。ところが、札幌地検の橋本友明検察官は、自衛隊法121条の防衛用器物損壊罪(5年以下の懲役)を初めて使い、二人を起訴したのである。被告人となった野崎兄弟は、自衛隊法および自衛隊は憲法前文・9条に違反するから、自衛隊法121条は違憲無効、したがって無罪を主張した。

深瀬忠一先生の遺影

北海道大学の深瀬忠一教授のもとに一人の学生がその新聞記事を届けた(この学生が笹川紀勝教授)。深瀬教授はすぐにことの重大性を認知し、この事件のことを各方面に伝えていく。こうして、当初は「島松演習場事件」だったものが「恵庭事件」という一大憲法訴訟に発展していくことになる。深瀬教授は1965年に創設されたばかりの全国憲法研究会の第1回研究総会でこの事件を取り上げ、憲法研究者の理論的バックアップがこれ以降行われていく。また全国から400人を超える大弁護団がこの訴訟に参加した(この映画のなかで彦坂弁護士役の俳優は600人といっている)。

この訴訟で問われたことは、第一義的には酪農家野崎兄弟とその家族の「生活権」が自衛隊の砲撃訓練等の騒音・振動によって侵害されたことである。映画では俳優が野崎兄弟と家族を演じて、彼らの生活が、自衛隊の砲撃訓練等によっていかに侵害されているかをリアルに描いている。この平和と生活という視点は、恵庭事件特別弁護人となった久田栄正氏(当時、北海道教育大学教授)が「平和的生活権」として公判で主張した(映画でこの久田特別弁護人が登場しないのは残念!)。

弁護団は、無罪判決を獲得するために、自衛隊法の違憲性を真正面から主張するという訴訟戦略を選択した。以来、憲法9条と自衛隊の合違憲性という大問題が、一地方裁判所の場で争われることになる。公判は41回にもおよび、憲法論争をまじえた弁護側、検察側の激しい応酬となった。

映画は、公判ごとに問われた問題について、検察・弁護側、そして被告人両名の発言を、公判記録に基づき忠実に再現していく。検察官に机がないなど、演劇の舞台のように法廷を設定する必要からか、不自然な点がないではないが、恵庭事件の公判を、見せ場をつくりつつ描いていく。白眉は、裁判の途中で、第二次朝鮮戦争を想定した制服組だけによる秘密図上演習「三矢作戦研究」が国会で暴露されるおよび、その実務責任者だった統合幕僚会議事務局長・田中義男元陸将が法廷で証人尋問されたことである(実際の法廷では田中元陸将を含む7人の自衛隊関係者の証人尋問が行われた)。

弁護側の「違憲の法律によって裁くことは許されない」という強い主張に押されて、裁判所が検察官に求刑を禁止するなど、およそ他の裁判ではみられないような展開も描かれている。自衛隊の合違憲性を含む憲法問題について、統幕事務局長の証人尋問などを含む積極的な訴訟指揮を展開したが、実際に出された判決は意外なものだった。

1967年3月29日、札幌地方裁判所は、被告人の野崎兄弟に対して無罪の判決を言い渡した。問題は判決理由である。自衛隊法は憲法に違反する、ゆえに自衛隊法121条は違憲無効であり、被告人は無罪という弁護団が期待した流れにはならなかった。判決のポイントは次の通り。①一般に刑罰法規は構成要件が明確な表現で規定されていることが罪刑法定主義から強く要請されるところ、自衛隊法121条にいう「その他の防衛の用に供する物」という文言は、包括的・抽象的・多義的な規定方法であり、その解釈にあたっては厳格解釈の要請がひときわ強くはたらき、類推解釈の許容限度もきびしく制約されること、②自衛隊法121条は「武器、弾薬、航空機」という例示物件を掲げているが、「その他の防衛の用に供する物」とは、これら例示物件とのあいだで、法的に、ほとんどこれと同列に評価しうる程度に密接かつ高度な類似性のみとめられる物件を指すこと、③本件通信線は、かかる例示物件との類似性の有無に関して実質的に疑問があり、「その他の防衛の用に供する物」には該当しないこと、④裁判所が立法や国家行為について違憲審査権を行使しうるのは、具体的な法律上の争訟の裁判においてのみであるとともに、具体的争訟の裁判に必要な限度に限られること、⑤被告人の行為について自衛隊法121条の構成要件不該当の結論が出た以上、弁護人ら指摘の憲法問題に関し、なんらの判断をおこなう必要がないのみならず、これをおこなうべきでもないこと、である。

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端的に言えば、通信線は「武器、弾薬、航空機」に匹敵するようなものではなく、「その他」には含まれないから、これを切断しても、防衛用器物損壊罪の構成要件には該当せず、ゆえに無罪ということである。これはかなり無理な理由だった。

3年前に札幌で講演した際、会場で野崎健美さんと再会した。私の左側に立っているのが野崎さんである。その際、「私が切断したのはこういう通信線でした」と、黒い通信線を示された(右側の写真参照)。公判でも、弁護人がこれはいくらするのかと質問すると、自衛隊側が「20円」と答えたことが公判記録にある。だが、値段の問題ではない。近代戦において、砲兵部隊が目標に正確に着弾させるには、観測班が前進して、方位や距離を野戦電話で伝える。弾着修正をして、目標に砲弾を指向させる。砲兵部隊と観測班とをつなぐ通信線は、ある意味では戦車や航空機と同等どころか、それよりも重要な機能を果たしている。判決は、その機能の評価を無視したものだった。

そうまでして、通信線を価値がないものと評価して、被告人を無罪にしなければならなかったのはなぜか。自衛隊に対する違憲判断を回避するためである。通常、被告人に無罪判決が出れば、検察官は悔しがる。ところが、この事件は異例だった。無罪判決なのに弁護団はお通夜のように静まりかえっていた。これに対して、橋本検察官は、法廷の階段を二段ほどつまずいてころがりそうになりながら法廷を飛び出して、あとを追ってきた親崎検事と顔をあわせ、「オー、よかった」と抱き合うように堅い握手。万年筆を落したのもかまわず廊下を走り出した(『恵庭裁判』法律時報1967年4月臨時増刊27頁)。違憲判断にならなかったことを東京に報告するために電話機に向かったのである。

検察側は無罪判決を不服として、当然札幌高裁に控訴するところだが、すぐに控訴せずと決めて、無罪判決は確定した。これも異例のことだった。深瀬教授はこの裁判を、理論、弁論、世論の「三論一体」を説き、映画でもその場面が描かれる。憲法学界の9条解釈と自衛隊違憲論、そして大弁護団の任務分担による周到な弁論、そして世論も憲法9条を支持していた。そういう時代状況と空気が、映画では再現されている。「憲法9条と自衛隊」という点では、およそ自衛隊合憲判決が出る状況ではなかったことが重要である。むしろ、公判の過程を全体として見れば、裁判所は違憲判決を出して被告人を無罪とする可能性があった。何としても違憲判決を阻止して、事件を終わらせる。検察官はそこに全力をあげた。他方、弁護団は憲法9条違反を正面に掲げ、違憲の法律による訴追は無効、故に無罪を導こうとした。そうした双方の間で裁判所は苦悩した。裁判官の悩みを映画は微妙に描く。

不思議なことがある。辻三雄裁判長が結審の日、判決理由の言渡しには時間がかかるので、当日は高齢の方のために椅子を用意すると言っていたことである。公判における辻裁判長の訴訟指揮と、結審の当日に語った椅子などへの配慮などから、弁護団は違憲・無罪判決を確信したという。フライング気味の新聞社は、「恵庭事件、違憲判決か」という観測記事まで出すほどだった。ところが、実際には前述のような無理な論理で被告人を無罪にして、10分ほどで終わる短い判決だった。これはなぜか。すでに長文の違憲判決が書かれていたのに、直前になって短い判決に差し替えたのか。このあたりが、この映画の「50年目の検証」の一つの山場となる。映画には私も出演しており、また、辻裁判長の関係者の重要な証言もあるので、詳細は触れないでおこう。

憲法訴訟論の観点からすると、恵庭事件については、深瀬忠一『恵庭裁判における平和憲法の弁証』(日本評論社、1967年)という古典的名著がある。若い世代の憲法研究者(西村裕一氏)によって鮮やかにその意義づけがなされている。また、最近、恵庭事件における他の訴訟戦略という点で、公判を通じて明らかになった酪農家の野崎兄弟の「通信線切断行為は、可能な限りの抗議と陳情を尽した末の已むに已まれぬ自力救済的行為であった点に定位して、違法性の阻却を主張することが認められる余地はないか」という評価も出ており、注目される(蟻川恒正「裁判所と9条」水島朝穂編『立憲的ダイナミズム・日本の安全保障3』〔岩波書店、2014年〕196頁)。

恵庭事件に引き続いて起きた長沼事件(長沼ナイキ基地訴訟)では、恵庭判決の6年半後に、同じ札幌地裁で自衛隊違憲判決が出されている。この事件については、裁判長だった福島重雄さんに対する私のインタビューを軸として、福島重雄・大出良知・水島朝穂編著『長沼事件 平賀書簡―35年目の証言』(日本評論社、2009年)がある。「長沼ナイキ基地訴訟一審判決から40年」も参照されたい。

私は1983年から1989年まで6年間、恵庭事件の現場から直線で15キロのところにある札幌郡広島町(現・北広島市)に住んだ。その間、私と家族は、戦闘機の訓練や、島松・恵庭演習場での実弾砲撃演習(105ミリ、155ミリ榴弾砲)の騒音が日常生活のなかにあった(直言「「エルフィンのまち」に降ったもの」)。雲が立ち込める日などは、砲撃の衝撃で窓がビリビリと揺れたことが何度もあった。だから、着弾地に近い野崎牧場がどれほどの騒音と振動だったかは十分に想像がつく。1984年夏に札幌学院大水島ゼミ生を連れて、恵庭事件の現場を訪れ、野崎健美さんにインタビューしたこともある(『法学セミナー』1987年11月号参照)。野崎さんは「原点からものみる」ことを強調し、射撃訓練の被害は人権問題であり、自分たちの人権がどう保障されているかを知るため、憲法制定過程の審議録まで読んで勉強したことを熱く語ってくれたことを思い出す。

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今日の自衛隊に対する普通の国民の感覚からすれば、この映画に違和感を覚える人もいるだろう。だが、恵庭・長沼の憲法訴訟があったからこそ、「自衛隊は軍隊ではない」ということを主張し続け、その積み重ねのなかで、「自衛隊の体制維持強化」がはかられてきたのである。そうした憲法的負荷がなければ、普通の軍隊として存在し、戦後の日本の他国との戦争との関わり方も違ったものになっただろう。憲法9条と自衛隊をめぐる問題は、そういう歴史のなかでとらえられるべきなのである。安倍晋三内閣の5年間で、自衛隊の軍隊化が急速に進んでいる。日本型文民統制(文官統制)は終焉を迎え、自衛隊内部の「政治的軍人」の跳梁も著しい。そういう時だからこそ、手前味噌になるが、「軍事的合理性の観点から憲法九条を「変える」ことに過度に傾斜した議論が急速に高まっているなかで、あえて憲法九条の「平和的合理性」に徹することによって、複雑化した現実にいかに向き合っていくか。いま、平和の「守り方」と「創り方」についての腰を据えた議論が求められている」という「平和の憲法政策論」の視点が重要なのである

2年前に深瀬教授が亡くなり、「偲ぶ会」が開かれた。その深瀬教授は、50年前の恵庭判決直後に、「野崎牧場のたたかいのあと等が映画化されるときく。きわめて有意義なことであると思う」と書いていた(『恵庭事件』法律時報臨時増刊22頁)。この深瀬教授の文章が公にされてから50年たって、映画が完成したわけである。

7月2日、北海道大学で開催された日本平和学会の春季研究大会2日目、この映画の試写が行われた(その感想の一つ)。フェイスブックに、「記録映画恵庭事件・50年目の真実」がある。

《付記》
上記の2枚の写真は、2011年11月6日、東千歳の第7師団の90式戦車と89式装甲戦闘車が公道を走行するのを撮影したものである。たまたま講演で訪れていた。道路を傷つけないようにキャタピラにゴムパッドがはめてあった。なお、今年6月29日にも、同じ戦車・装甲戦闘車が公道を長距離移動した(『北海道新聞』2017年6月29日付)。
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