痛みを伴う「塀の穴」の話  2001年8月13日

イツ滞在中、ボン空襲(1944年10月)について書いたおりに、こんな話を紹介した。「中小都市空襲の『傷痕』は、東京・府中の私の家の塀にも残っている。書斎脇の古い塀に、12.7ミリ機関銃弾の貫通した5センチほどの穴が2個ある。1945年5月、府中・立川方面を空襲したノースアメリカンP-51ムスタング戦闘機が、父の従兄弟が庭で遊んでいるのを見つけて急降下。機銃掃射してきた。父の従兄弟が樫の木の影に隠れると、反対側から回り込み、もう一度攻撃してきたという。残っているのは、その時の銃撃の跡である。操縦席で笑う米軍パイロットの白い歯がはっきり見えたという」
  弾痕が残るわが家の塀を、近隣の工事の関係で建て替えることになった。そこでこの機会に、わが家の「歴史の証言者」を永久保存すべく、穴の周囲を切り取り、研究室に運ぶことにした。犬もピックリ!工事関係者が拙宅の反対側から撮った写真を見ると、子どもの頃から見慣れた穴とは形状が異なるのに気づいた。そこで思い出したのだが、警察は射殺体を調べるとき、弾丸が体に入る際にできる「射入口」と、貫通して外に出るときにできる「射出口」とを見極めるという。うつ伏せの死体の背中にホクロのような黒いシミがあり、体をひっくりかえすと、腹がザクロのように開いているとき、その人は背後から射たれたと判断される。わが家の塀の穴も、私の家の側が「射入口」ということになる。今回、初めて「射出口」にお目にかかったわけである。
  先月、北広島のリハビリ施設に誤射されたのは20ミリ機関砲だった。12.7ミリでもこんな穴があくのだから、20ミリの実弾だったらと思うとゾッとする。まさに「蜂の巣」東京・東大和市にも、機銃掃射で蜂の巣になった変電所の建物が保存されている。コンクリートがこんな状態になるのだから、生身の人間などひとたまりもない。塀やコンクリートにできた穴をみていると、どれも「痛みを伴う」。

  話は突然変わるが、スティーブン・セガールやアーノルド・シュワルツネッガーなどが演ずるアクション映画を見ていると、主役はどんな不安定な恰好でピストルを射っても、かなり遠くにいる「悪人」たちに次々命中する。他方、主役は重機関銃の弾が背後に迫っても、それより速く走って助かる。弾は決してあたらない。よしんばあたっても、ごく微量の血を流しながら、どんどん走っていく。肩に12.7ミリ弾が貫通したのに、いつのまにか出血が止まっている主役もいる。ハリウッドの戦争映画を、アメリカ人が安心して見られるのも、主役を常に安全なところにキープする、「痛みを伴わない目線」に起因する。そのアメリカ人にとって、「痛みを伴う」、おそらく最初の映画となったのが「プライベート・ライアン」だろう。海に落ちた兵士に、水中で速度が落ちた弾丸がゆっくり突き刺さる。「グェッ」と呻いて、兵士は海底に沈んでいく。アメリカ人は、自国の兵士がこんな悲惨な死に方をするのを、身悶えさえしながら観たに違いない。封切り直後から、年輩の戦争体験者のなかには、気分が悪くなったり、フラッシュバックで神経症になる人も出てきた。そんな人のために、心理療法のセンターが設けられたという。「銃弾にあたれば痛みを伴う」。そのことが、映画のなかとはいえ、初めて実感されたわけだ。この映画の功績の一つはそこにある。
  では、映画「パール・ハーバー」はどうか。実はこの映画には、「プライベート・ライアン」からのパクリがある。日本軍の攻撃で沈没する戦艦アリゾナとオクラホマ。傾いた艦から次々と水兵たちが海に落ちていく(構成もアングルも「タイタニック」のパクリ)。水中でもがく水兵たちの無数の足を、ローアングルで撮り(これは「ジョーズ」のパクリ)、そこに日本の零戦が執拗に機銃掃射をかける。機関銃弾は白い線を描いて水中を走り、兵士にあたる。これは明らかに「プライベート・ライアン」のパクリだが、こちらは上陸作戦時の戦闘。「パール・ハーバー」の方は、水中で助けを求める水兵たちを狙い撃ちにするのだから、観客は、ドイツ軍よりも日本軍の残酷さの方を強く印象づけられる。マコが演ずる山本五十六大将の陳腐さ(実際は南雲忠一中将じゃろうが!)、日本海軍のディテールのハチャメチャ加減、歴史考証の初歩的ミス、ルーズベルト大統領の(実は「奇襲」の情報を得ていた見方もあるが)「偽りの驚愕」を安直に描くシナリオなど、ケチをつける意欲さえわかないが(映画評参照)、一つだけ「新しさ」を指摘すれば、真珠湾を、「爆弾を落とされた側」から描いたことだろう。アメリカ人を徹底的に被害者とする、「痛みを伴う」描き方。例えば、全身ヤケドの兵士たちが泣き叫びながらゾロゾロ歩いてくる。手を前に出し、指先から皮膚が垂れている。どう見ても、ヒロシマ・ナガサキのシーンである。重傷者であふれる病院の惨状。被害者意識丸出しのこの映画は、最後、B25爆撃機16機による東京初空襲で終わる(軍事施設だけでなく、一般住宅や早稲田大学講堂も被弾)。その時の描き方は、私の伯父を笑いながら機銃掃射したP51のパイロットの「目線」である。
  何事も、どういう「目線」で描くかで変わってくる。8月9日発売の雑誌『世界』9月号で、岡村俊一氏(つかこうへい「広島に原爆を落とす日」の演劇プロデューサー)と「ヒロシマの伝え方を考える」という対談をやった。そのなかで私は、水戸黄門の例を引いて、「目線」の問題の大切さを指摘したので、参照されたい。
  「穴」は常に二つの顔をもっている。こちら側と向こう側。私が48年の人生で見慣れた「こちら側」とは異なる「向こう側」の顔と対面した。歴史をどう見るかが問われているいま、私がこの「穴」から学んだことは多い。

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