「もし万一攻めてしまったら」  2001年9月3日

月下旬、読者からメールが届いた(ここをクリック)。「ベテラン司法試験受験生」からのもので、実に興味深い内容だった。その方にメールを送って、このコーナーで紹介することにつきご快諾を得た。諸事情で今日まで遅れたことをお詫びしたい。

  このメールで印象に残ったのは、「もし隣国が攻めてきたら」ではなく、「もし隣国を攻めてしまったら」という危機感の方がリアリティがあるという下りだ。鋭い指摘である。「もし攻められたら」という土俵を設定して議論を始めると、もろもろの前提や条件を無視した、結論誘導的な議論に陥るおそれがある。安全保障の中心は、「攻められない」ようにする条件をどう作るかにある。「目の前で恋人が殺されようとしているのに、何もしないのか」といった類のシンプル思考は論外としよう。視野があまりにも狭く、理性的応答になじまないからである。国家自衛権の問題を、個人の正当防衛権の安易なアナロジー(類推)で論じてしまう人々もまた、初歩的な誤りをおかしている。立憲国家のもとで「固有の権利」を主張できるのは、人権の担い手としての個人だけである。国家の権限は憲法で定められて初めて生ずる。国連憲章51条は自衛権を「固有の権利」と書いているが、各加盟国は主権国家として、それぞれの国の憲法によって、自衛権のありようを定めるわけである。しかも、戦争違法化と軍備制限の国際的な流れ(核兵器、生物・化学兵器、対人地雷など)は、自衛のためとはいえ、各国が行使できる「力」の内容と場面はますます制約されている。日本国憲法は、徹底した無軍備平和主義の採用により、自衛権を実質的に放棄するところまで到達したと私は考えている。国家の安全保障から全世界のpeoplesに依拠した安全保障へ。「安全と生存」は、自衛権や軍事力によらず、積極的な平和外交と、「平和を愛する諸国民(peoples)」との連携・連帯により確保されるべきなのである(拙著『武力なき平和』第6章参照)。

  「もし万一攻められたら」という問いかけの不毛性は、メールの方が明快に指摘する通りである。日本共産党が、「万一の主権侵害」の際の「自衛隊活用」という安易な方針を打ち出し、顰蹙をかったのは記憶に新しい。そもそも、「もし万一攻められたら」という物言い自体が、あまりに素朴で、自己中心的な発想とは言えまいか。『ソ連軍日本上陸』なんていうキワモノが書店に平積みになっていた二〇数年前の冷戦時代ならいざしらず、いま日本を「攻める」と想定されているのはアジアの国々である。それらの国々を、かつて日本は侵略したのである。そうした事実さえ否定して、無邪気で無神経なナショナリズムの突出が最近目立つ。そうしたナショナリズムの突出と、「もし攻められたら」という「一国安全思考」とが結びつくとき、それは、アジアの人々にとっては、日本の傲慢・不遜なエゴと映る。日本の市民やNGOが世界中で大変な努力をして信頼と成果を得ているとき、無邪気なナショナリズムの突出は大変な損失を与えることになる。「もし攻められたら」という視点を維持する限り、「問題を抱えた国々」(拉致問題や人権問題を起こすような)との外交的な問題解決も困難となるだろう。

  それ以上に重大なことは、新ガイドライン以降、対米軍事協力に過度にのめり込んだ日本が、アメリカの地域紛争介入戦略に便乗して、アジアのどこかの国を「攻めてしまう」可能性が出てきたことである。その際の論理は「人道的介入」であったり、人道的救援活動であったりする。東チモールがその直近の例である。いま、自衛隊の装備・組織・運用思想は、「専守防衛」型とは異なる、外洋型、外征軍型へと転換しつつある。「防衛型空母」の保有が語られ、やがて竣工する13500トン級護衛艦を見れば、「専守防衛」が死語化しつつあることを実感するだろう。こうした状況のなか、南米コスタリカの市民が、「軍隊がないからこそ平和だ」と言い切れるのはなぜか。市民のなかに、紛争を平和的に解決する思考や技法が広まる。それは学校教育の現場で「暴力なしに争いを解決する方法」を教えるところから始まっている。「安全」がエゴに転化した「帝国主義的市民」(渡辺洋三)にならないよう、市民レヴェルでも自己省察が求められる所以である。 いま必要なことは、「もし攻められたら」といった視野の狭い、歴史の反省を欠いた「一国安全思考」への退行ではなく、アジアにしっかりと軸足を置いた、積極的な平和政策の展開である。

〈付記〉『日本の論点2002』(文藝春秋社、2001年11月刊)に、「もし攻めてしまったら」という切り口で「有事法制」批判の論文を書いたので参照されたい。

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