「限りなき不正義」と「不朽の戦争」  2001年10月1日

治の言葉は無責任だ」。ドイツ児童保護連盟会長H・ヒルガー氏は、ことさら過激な言葉を選ぶ政治家たちを批判した(die taz vom 19.9)。テロの根源とたたかうかわりに、「文化の闘争」や「十字軍」といった安易な言葉を用い、ことさらに「敵」像を表示する。「子どもたちはいま、エモーショナルにかき乱されている」とヒルガー氏はいう。子どもだけではない。テロ事件以降、メディアに飛び交う言葉は、人々の理性的判断を誤らせている。高校時代の作文(タイトルは「感情」)が零点だった人物の口から出た「最初の言葉」が、不幸の始まり、誤りの根源である。

  6000人以上の命を奪った卑劣なテロではあるが、戦争ではない。20世紀の人類の到達点は、戦争違法化である。「戦争は変わった」といって安易に武力行使を容認することはできない。戦争は国家に対する国家の力の行使であり、一定の集団が行うテロは、どんなに規模が大きくとも、戦争とは区別されなければならない。ブッシュが「これは戦争だ」と叫び、直ちに報復を呼びかけた時から、すべてが狂ってきた。国際的な反テロリズムの共通のたたかいを呼びかけることは正しい。テロが一国で対処できる性質のものではなくなり、国際的な対処が必要なことも事実である。だが、テロを実行した者たちが潜んでいる(とされる)国に対して「報復」を行うことは許されない。「武力復仇」を克服し、これを禁止するのが国際法秩序である。「報復」で無辜の市民を犠牲にすることは、国際法秩序を崩壊させるものといえよう。

  「作文零点大統領」の不用意発言は続く。9月16日、彼は「テロに対する戦争」を「十字軍」といってのけた。私はのけぞった。失言でないとすれば、ブレーンは相当な「確信犯」である。ローマ法王ヨハネ・パウロ2世が、3月から5月にかけて各地を訪問。ギリシャ正教やユダヤ教の指導者に対し、900年以上前の「十字軍」について謝罪したばかりではないか。エルサレムでは、法王との会見にイスラム教の指導者も同席した。「十字軍」は今風にいえば、「カトリック原理主義」による、軍事力を使った他宗教への抑圧である。法王の謝罪は、「千年単位の画期的な和解」への一歩になり得るものだった。それをブッシュが結果的にぶち壊すことになった。イスラム教の信者は全地球人口の6分の1、約10億人。これを敵にまわす最悪の構図だ。「ブッシュの報復」に警告を発したローマ法王の顔は苦渋に満ちていた。一方、テロ指導者と目されている人物は、かかる状況を巧みに利用。「ユダヤ・十字軍への聖戦」を呼びかけた。イスラム教を悪用する一部のテロ集団を、イスラム世界で孤立化させるたたかいが求められているとき、ブッシュの一言一言は、反テロリズムのための国際的な連帯を傷つけるだけである。

  言葉の誤用はさらに続く。米軍の作戦名は、当初「限りなき正義」(Infinite Justice)(朝日新聞。読売新聞は「無限の正義」と訳す)だった。しかし「限りなき」は神の意味をも含む。イスラム教では「アラーの神」に関わる言葉を米軍が使うことに反発が出てきた。「傲慢無知」とはこのこと。9月25日に国防長官が記者会見して、異例の作戦名変更を明らかにした。「不朽の自由」(Enduring Freedom)作戦(読売は「不屈の自由」、時事は「不滅の自由」)。傲慢で独善的という点では、この言葉も根は同じだろう。


   日本では、いつもは冷静なNHK が、「大本営発表」さながらの、エキサイトした放送を展開した。「旗を見せよ」(アーミテージ国務副長官)という恫喝にたじろぎ、「湾岸の轍を踏むな」という「乗り遅れオブセッション(強迫観念)」にとりつかれた外務官僚や政治家たち(与野党問わず)。首相の口からは、勇ましい言葉がポンポン飛び出す。「憲法の範囲内」と言ったかと思うと、「危険な所に出しちゃいかんでは話にならない」。「武力行使と一体化しない後方支援」等々。自衛艦のインド洋派遣を防衛庁設置法5条18号の「調査・研究」で正当化するなど、まさに「法恥国家」である。

  国会に上程される対米支援新法は、国連決議を受けたタイトルや外見をとりながらも、実質内容は、米軍の戦闘作戦行動それ自体の支援を目的としている。周辺事態法までは、何らかの論理的「クッション」が工夫されていた。例えば、「後方地域支援」に、戦闘部隊に密接・近接した支援は含まれない。「後方地域」とは「現に戦闘が行われておらず、かつ、そこで実施される活動の期間を通じて戦闘行為が行われることがないと認められる我が国周辺の公海及びその上空」だからである(周辺事態法3条3号)。だが、今回は「周辺」以外の公海や、他国の領土・領海まで想定されている。だから、新法は周辺事態法と異なり、「後方支援」というネーミングをあえて使った。だが、「後方支援」の本質は兵站支援にほかならない。兵站は戦闘部隊の武力行使と一体不可分である。敵対関係にある相手方は、補給部隊を攻撃し、補給路を絶つ戦法をとるのが自然だろう。アブガン戦争では、ソ連の後方支援・補給部隊からたくさんの戦死者が出たのは記憶に新しい。

  「旗を見せよ」のイメージが先行し、湾岸戦争の時以上に、「はじめに自衛隊ありき」が露骨である。テロとたたかうため、どのような手段が必要なのかの合理的な検証なしに、自衛隊を出すことが自己目的化されている。その発想は湾岸の時と大差ない。違うのは、日本が戦闘作戦に実質的に参加することである。結論からいえば、新法は、「わが国の平和と独立を守り…わが国を防衛する」という自衛隊の任務・行動の原則規定(自衛隊法3条)と整合しない。従来政府がとってきた「自衛のための必要最小限度の実力」という解釈を維持する限り、その限度を超えるものは違憲となる。集団的自衛権の行使はその限度を超えると解釈されてきたが、今回、「必要の前に法はなし」とばかりに、憲法のみならず、これまでの日本の「防衛法制」とも整合しないことが実施されようとしている。テロ対策の名のもとに、市民社会における諸自由が制限される危険性も強い。米国同時多発テロは、この国の自由と民主主義のありように深刻な影響を与え続けている。

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