大学の授業への「介入」 2002年5月27日

週、早大をめぐって一つの「事件」が起きた。5月20日発売の『サンデー毎日』(毎日新聞社)6月2日号に、「政界激震:安倍晋三官房副長官が語ったものすごい中身――核兵器の使用は違憲ではない」なるトップ記事が載ったのだが、これは授業を密かに録音したテープ(起こし原稿)をもとに書かれたものだった。当該科目は専任教員4名を含む複数の教員が担当し、全学部の1〜2年生に提供されるオープン教育科目(通年4単位)である。14号館B101教室で、定員200名。毎回さまざまなゲストが登場する。安倍氏に続いて20日には、ニュースキャスターの筑紫哲也氏が話をした。土井たか子氏(社民党)、菅直人氏(民主党)、北川正恭氏(三重県知事)などが続く(辻元清美氏もゲストに含まれているが、実際に講義するかどうかは不明)。出席もとっており、単位認定の対象となる正規の授業であるから、一般向けの講演とは異なる。

  そもそも大学の授業という空間においては、いかなる課題や対象を選択するか、その処理の仕方、方法論の選択、結論の提示など、そのすべてが担当教員の「教授の自由」に属する。憲法23条の「学問の自由」は:

 (1)学問研究それ自体の自由、
 (2)学問研究の成果発表の自由、
 (3)それらの成果を学生に教授する自由

を柱とする。そこに学問的批判以外の圧力や規制は許されない。京大・滝川事件(1933年) や東大・美濃部事件=天皇機関説事件(1935年)を引くまでもなく、この国には「学問の自由」が抑圧された苦い経験がある。現代においては、学問の自由に対する抑圧は、かつてのような露骨な圧迫ではなく、さまざまな形態がある。大学の教員だけでなく、メディアもそうした問題に対してもっと敏感であってほしいと思う。

  ところで、私自身、2号前の『サンデー毎日』に登場し、「有事法制」について批判的意見を表明している。その私の立場からすれば、安倍氏の発言そのものについては批判的にならざるを得ない。安倍氏は、1957年以降の岸信介首相などの見解を紹介したつもりらしいが、さすがの岸首相も、核兵器の使用まではいっていない。安倍氏の発言は不正確であり、従来の政府見解からの逸脱といえる。問題発言とされた他の論点についても、私の立場から批判したい点もたくさんある。だが、ここでは、あえてそれをしない。安倍氏の発言が、大学の授業の場におけるものだからである。

  『サンデー毎日』の「編集長後記」には、編集部に送られてきたファックスから取材が始まったとある。ファックスには、安倍氏が「早稲田大学で行った講演での発言内容が記されていた」と。編集長は講演という認識だ。しかし、記事のリード文には「授業」となっており、本文中では講義となっている。ここでは、授業・講義なのか、講演なのかが決定的に重要である。編集部には、この点の認識と自覚が決定的に欠けている。一般向けの講演ならば、ある程度外部に出ることを予定している。だが、大学の授業は単位認定の対象となり、市民向けの講演のような開かれた空間ではない。そこでの内容が直ちに社会的バッシングの対象になるならば、教室で安心して話せないというゲスト講師が出てきても不思議ではない。なかには参加を断ったり、発言を自粛したりするゲストが出てくることも予想される。当該科目を履修する学生のなかには、「この授業をとっていると変な目で見られる」ということで、授業への出席を控えたりする傾向もないとはいえない(学内の一部集団による威圧的批判の影響もある)。そんな雰囲気のもとでは、科目担当者は自由な授業運営をできず、授業が萎縮していくことになるだろう。

  もっとも、当該科目は派手に記者会見までやって公表したものだから、他の授業とは違うという反論もありうる。率直にいって私自身、当該科目は「時の人」を安易に並べすぎているなという印象を持っていた。「なぜこの人なのか」というゲストもいないではない。しかし、何度もいうが、授業における素材の提供や選択は、担当教員の責任においてなされるべきものであり、最終的には、学生の授業評価に待つべきだろう。

  私もかつて授業で元特攻隊員で元自衛官の方に話をしてもらったことがある。その時の学生の反応は大変よかった。もし将来、「日本核武装論者」を授業にゲストとして招待した場合、それが密かに録音され、「危ない話」として外部で叩かれたとしたらどうだろう。事情を知らない「識者」や反核運動関係者の「怒りのコメント」を並べて。だが、そのゲスト講師の話は、1年間の授業のなかでの一素材にすぎない。教育効果を期待すれば、核武装論者の極論の提示は、その後の私の授業展開にとって有益なスパイスともなりうる。だから、「核武装論者を呼んではいけない」というような「圧力」を受けたら、私は断固としてたたかうだろう。4単位の授業というのは、担当教員と学生との、1年をかけた「学問の旅」だと思う。その途中の1日だけを取り出して、あれこれ決めつけることは、教育の世界に対する不当な介入だろう。今回の問題を通じて、大学の授業というものの大切さとむずかしさを改めて考えさせられた。

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