殿様首相が残したもの 2002年12月23日
日新聞の折り込み誌『毎日夫人』10月号に、「人生は二毛作」というインタビュー記事が載っていた。「一粒で二度おいしい」アーモンドグリコのCM(←ちょっと古いか)を思い出しながら頁をめくると、「『晴耕雨浴』で作陶の日々」とある。優雅な人だなぁ、と写真に目を凝らすと、何とあの人ではないか。細川護熈氏。1938年生まれ。1983年から熊本県知事を2期。92年に日本新党を結成し、93年に自民党一党政権を倒して、第79代内閣総理大臣となる。旧熊本藩主細川家の18代当主。祖父は元首相の近衛文麿である。
 細川氏は98年に政界を引退してから湯河原に住み、家に温泉を引いて「晴耕雨浴」だそうな。昼夜を通してロクロをまわし、できあがった作品で個展も開くのだそうな。「まさに自分の人生を謳歌している細川さんだが、そのコツは、『自分流にわがままに生きることです。日本人は、他人の言うことをあれこれ聞きすぎますよ』と助言された。……首相時代にさりげなく首に巻いたマフラーが話題になった。今、マフラーをタオルに替えて、天性のセンスを作陶に生かしている」。これを書いた記者は、芸能人にでも取材するような感覚だ。細川氏は64歳で悠々自適。人の生き方にケチをつけるつもりはないが、首相在任中、「自分流にわがままに生き」た結果、この国の政治は大きく変わった。それをどう総括しているか聞きたいところだ。
細川内閣(1993年8月9日〜1994年4月27日)によって、自民党の一党支配「55年体制」は終わりを告げ、「連立」の時代に入ったと言われる。だが、同時にそれは無原則、「何でもあり」の日本政治メルトダウンの始まりでもあった。バブルがはじけ、経済は低迷。野党連合(略して野合)政権は政治理念や政策によってではなく、「政権維持」それ自体を目的として離合集散を繰り返した。政党間のほとんどの組み合わせが可能となり、連立離脱をカードに使う「ブラックメール・ポリティクス」(脅しの政治)が生まれた(白鳥令「細川連立政権の問題点」『朝日新聞』1993年11月24日論壇)。社会党消滅への道も、この内閣によって確定的なものとなった。とりわけ故・山花貞夫委員長と赤松広隆書記長の二世議員コンビは、村山政権誕生以前に社会党消滅の道を準備した。山花氏が「政治改革担当大臣」として入閣。社会党が戦後一貫して反対してきた小選挙区制を実現する先頭に立ったことは、まさに歴史的ジョークでさえあった。いまは民主党に所属する赤松氏の浅薄な軽口も、当時、社会党のイメージダウンにかなり貢献したように思う。そのなかで、細川氏の「軽さ」は際立っていた。従来型の政治にはないファッション性やパフォーマンス性が加わって、首相のイメージが変わり、一瞬ではあれ政治に清新さを吹き込んだ(かに見えた)。それは「日本新党」ブームという、線香花火ほども続かなかった一過性政治劇にも通ずるものがある。「政権」という点では、寄り合い所帯の多党連立だったために、実際の政策実施という段になって混乱が続き、国民の期待は急速に冷めていった。 忘れもしない94年2月3日。細川首相は「国民福祉税7%」導入を突然発表した。新聞各紙の東京本社版14版(最終版)の締め切り(午前1時30分)を見透かしたような深夜の記者会見。各社とも、1面トップ見出しの差し替えなどで騒然となった。記者が「なぜ7%なのか」と質問すると、細川首相は「腰だめの数字」と答えた。この唐突な増税提案も、翌日あっさりと白紙撤回。その2カ月後、今度は政権もあっさり投げ出した。あまりのあっけなさに、「よきにはからえ」感覚なのだろう、とつくづく思う。
 さて、細川内閣で成立した「政治改革」法案。当初、細川氏は小選挙区250議席、比例区250議席の「並立制」を連立政権参加の条件にまだ高めていたにもかかわらず、一夜でこの方針を変更してしまった。そして、実際に成立したのは、小選挙区選出議員が多数を占める「比例代表制を加味した小選挙区制」だった。細川氏はこの制度を立ち上げるに際して、選挙制度には「民意の反映」と「民意の集約」の両面が必要だと説明した。「民意の集約」とは言いえて妙である。選挙では「民意の反映」こそが第一であり、「集約」という言葉に込められたのは、政権の安定と政権交代可能な二大政党制の実現とされている。だが、総選挙が行われるたびに、政党の顔ぶれが変わっていく。日本新党は消え、新進党が生まれては消え、社会党と民社党は解体して自民の一部と連携して民主党になった。そこから今度は保守の一部が飛び出して、保守新党が作られようとしている。政治的離合集散は一向になくならない。政権与党をチェックできる存在感ある野党も未だに生まれていない。日本政治の停滞と沈滞の基礎を生んだ「小選挙区比例代表並立制」。細川内閣が生み出したこの制度のもとで、「自社さ」の村山内閣が誕生し、この国はさらに「節操なき政治的迷走時代」に入っていった。
 細川氏は「殿」と言われ、そのパフォーマンスこそ国民の注目を引いたものの、人望はまったくなかった。特に側近たちが、深い怒りを胸に去っていくのが特徴的だった。「やってもらって当たり前。よきにはからえ」という殿様タイプに仕える秘書や事務方はどこの世界でも苦労が多い。側近中の側近であった松崎哲久氏の場合もそうだった。献身的に仕えていても、ある日突然「殿の逆鱗」に触れてあっけなく除名。比例名簿5位で繰り上げ当選の対象にならなかっため、当選無効訴訟を起こしたが破れた(最高裁判決1995年5月25日)。
 田中元外相も、この点では細川氏とよく似ている。元秘書の「実名告白」(週刊文春)なんぞを流し読みしていると、人の心のわからない、お嬢様の哀れささえ感じた。まわりがどんな形でフォローしているか気づかない。あたり前と思っている。「何様でと思っているのか」と周囲のほとんどが思っていることに気づかない。あまりにあきれて誰も何も言わなくなり、みんな去っていく。まさに「裸の王様」と「裸のお嬢様」である。
来年の8月は細川内閣誕生10周年である。誰もそんなこと気づかないし、気づいてもあまり意味があるとも思えない。でも、この間、「失われた10年」という言葉だけでは片づけられない、より本質的なものをこの国は失ってきたのではないか。いまの小泉内閣の状況を見るにつけ、政治「その存在の耐えがたい軽さ」を実証した殿様首相時代の罪深さを思う。 来年2月11日「建国記念の日」、細川54万石のお膝元である熊本市で講演する