「傲慢無知」の政治言語 2003年8月25日

し合いや交渉といった場面では、自分の主張を相手に丁寧に伝え、同時に相手の言い分をよく聞き、理解するという双方向的行為が不可欠となる。相手の主張を理解しようとしない「自己チュー人間」が一人でもいると、そうした話し合いは困難に陥る。

 その一例。ある大学で、人員削減の必要から、学部内の各大講座に配属された専任職員と非常勤職員を再配置することになった。文系のある講座はそれまでの専任枠1が0になり、3人の職員全員が非常勤にされてしまった。理系のある講座が文系の専任枠を複数持っていってしまったからである。その際ときの理系教授の言い分が、「だって、ほしいんだもん」だった。いい年をした大人が、子どものように、ただ自分の言い分をむきだしに主張したのには驚きだった。それぞれの事情を出し合った上での、最終的な妥協の結果ならまだ納得できるが、「だって、ほしいんだもん」と言われれば、紳士的な文系教員は黙ってしまう。結果的に、理系が有利な配分を受けた。

 もう一つの例。研究紀要などの予算を審議する委員会で、別の理系の教授が、「注がたくさんある文系の論文は無駄だ」と予算削減を主張した。理系の論文(短いものが多い)と文系の論文との違いをきちんと理解すれば、そういう発言はできないはずだし、すべきではない。私が逆の立場ならば、理系の研究発表のやり方を尊重する方向で調整するだろう。近年、大学(特に国立大学)がおかしくなっていったのも、業績評価や研究成果などについての一面的な(ここが大切!)理系的発想が世間や文部行政に浸透していったことが大きい。物理学の東大教授が文部大臣をやった頃から、この傾向が強まった。その結果、大学の自由な雰囲気が急速に損なわれていった。「独立法人化」はそうした方向の「到達点」と言えるだろう。ノーベル賞学者の湯川秀樹博士など、一流の理系学者は真の文化人だったとつくづく思う。

 政治の世界に目を転ずると、「だって、ほしいんだもん」という感覚に近い、あっけらかんとした主張をする政治家が目につく。政治家の資質は、本音をそのまま主張せずに、一般受けするよう、より普遍的な言葉で巧みに表現するところにある。選挙の公約だって、「どうせ自分の利益のためじゃろうが」と思われたとしても、「皆さまのため」という普遍的響きで、いかに堂々と主張するかにかかっている。だが、最近の政治家は、何のてらいもなく、本音をむきだしに語るようになった。強引で厚顔無恥というよりも、己を知らず、相手の主張を理解しようともしない「傲慢無知」なのである。ブッシュ政権と小泉政権は特にそういう人々が多いように思う。

 占領下イラクにおける米兵襲撃に激昂して、「かかってこい」なんて言ってしまうブッシュは、脳と言語中枢がシンプルなだけにまだ分かりやすい。だが、ラムズフェルド国防長官らの口から飛び出す言葉の数々は、真に驚かされるものがある。日本の政治家もひどい。太田誠一行革推進本部長の「集団レイプする人は、まだ元気があるからいい」発言(6月26日)や、「かつて総理大臣をやったあの男」の女性蔑視発言(同)は論外としても、鴻池防災担当大臣の「市中引回しの上、打ち首」発言(7月11日)は問題だろう。彼はすぐに訂正せず、世間の反応を巧みに観察していた。「あえて言った」の感が強い。杉田敦氏(法政大教授)も、『朝日新聞』7月24日付オピニオン欄「すさむ政治家の発言:社会的背景」のなかで、聴衆の存在を意識して、意図的に言っている感じがすると指摘していた。事実、鴻池発言に「共感する」41%、「共感しない」59%という形で、国民の支持は意外に高い(『朝日新聞』8月9日付be on Saturday版)。

 「言葉は思想の衣装である」(Samuel Jonson 『詩人の生活』)。言葉が荒れてくれば、その人の思考や思想も荒れる。「この程度の約束を守らないことは、大したことではない」(1月23日、衆院予算委)、「フセイン大統領が見つかっていないからフセインが存在しなかったと言えるか」(6月11日、党首討論)、 「どこが非戦闘地域でどこが戦闘地域かと今この私に聞かれたって、わかるわけないじゃないですか」 (7月23日、党首討論)。短い言い切り、体言止め、「no… without…」(「改革なくして成長なし」)式の標語的表現を多用する首相。従来の政治家にはなかった、そうした言葉づかいが、新鮮な感覚で受け取られ、支持率の高さを担保してきたが、今やその幻想はかなりの程度失せたかに見える。それにしても、かつてなら一つの発言だけでも一内閣が吹き飛ぶほどのものを連発しながら、たいした批判も受けずに、まったりとした政治空間が維持されるのはなぜか。それは、近年の世論の変化と無関係ではないように思われる。

 W・リップマンの名著『世論』(岩波文庫)によれば、世論はこう定義される。「人びとの脳裏にあるもろもろのイメージ、頭の中に思い描く自分自身、他人、自分自身の要求、目的、関係のイメージ」であり、それは社会的には「集団の名の下に活動する個人が頭の中に描くイメージ」である。その結果、出来事の「真の空間、真の時間、真の関係、真の重要性」が失われ、「ステレオタイプのなかで凍結」させられる。世論は、ステレオタイプにより最初から「汚染されている」と。例えば、アルカイダとタリバンのメンバーがキューバの米軍基地(グアンタナモ)内に長期抑留されているが、彼らの扱いは捕虜でも被疑者でもない。ブッシュ政権は「不法戦闘員」という勝手なカテゴリーを捻出して、ジュネーヴ条約違反(捕虜虐待)と合衆国憲法違反(被疑者の権利侵害)の主張をかわそうとしている。その際、政治家たちは世論のステレオタイプ思考を巧みに利用している。市民のなかにも、「9.11のテロリストに人権なし」「今回は特別だ。例外だ」という「イメージ」があるからこそ、政治家たちはそのような違法行為を堂々と続けることができるのだ。日本でも同様だろう。触法精神障害者(と当初は見られた人物)による凶悪事件が起きると、刑法39条(心神喪失者の不処罰)削除論が飛び出し、そうこうしているうちに、十分な議論もないままに心神喪失者処遇法が成立した。多くの問題を残したまま、既成事実だけが進んでいく。また、12歳による4歳の殺害事件が起これば、少年法と刑法41条(責任年齢)の「見直し」論が出てくる。それを中身抜きに、感情的に支持する人々がかなりいる。鴻池大臣の発言の裏には、こうした世論の変化がある。チェチェン武装勢力のテロが頻発するロシアでは、大統領選にも出馬した有力政治家(州知事)が、捕らえたテロ要員は「機関銃掃射による公開処刑にせよ」と発言したという(『読売新聞』8月3日付)。犯罪やテロが増えてくると、「やっちまえ」という短絡的な気分と感情が突出してくることは否めない。いずこでも、市民のなかにある不安感に便乗した政治家の過激な発言が目立つ。だが、政治家個々の発言も問題だが、普通の市民のなかにも確実に「傲慢無知」が広がっていることの方がより重大だろう。犯罪やテロの原因やその再発防止への冷静な眼差しを欠いた報復感情が社会をおおい、完璧な「安全」を求めて暴走を始めるとき、その社会は「自由」を失う。それは歴史の教訓でもある。

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