拉致問題解決に向けて 2003年9月22日

泉首相と金正日総書記との日朝首脳会談と「平壌宣言」から1年が経過した。その直後にこうした切手も作られていた。この会談や拉致問題に関する私の立場はすでに、「日朝首脳会談と拉致問題」で明らかにした。北朝鮮は、拉致を国家政策として実行していた国であり、金総書記自身がその事実を認めたことからも、拉致の犯罪性は明白である。北朝鮮は自国民の憲法上の権利(特に67条の言論・出版の自由、75条の移動の自由、79条の通信の秘密など)を無造作に、かつ徹底的に侵害している。異論を唱えるものは収容所に送られ、裁判抜きの「処刑」も行われている。北朝鮮は、「国家(政府)による殺人」(デモサイド)を行っている国であることも疑いをいれない。朝鮮民主主義人民共和国憲法(1998年)を見れば、その尋常ならざる内容に驚かされる。特に「市民の基本的権利・義務」の章(第5章)では、市民の権利が「一人は万人のために、万人は一人のために」(One for all and all for one) の原則に基づくとある(63条)。「将軍様一人のために」という一般条項によって、市民の権利は包括的に制限できる仕掛けになっている。憲法71条の「リラックスする権利(休息権)」に至っては、かの国の現実に鑑みればジョークに等しい。

  そのような国が存在するのも、北東アジアに依然として冷戦構造が残っているからである。ブッシュ政権の先制攻撃戦略の片棒を担いで、この国との軍事的緊張を高めることは愚策である。北朝鮮と国境を接する韓国は、北の「ソフトランディング」(軟着陸)をはかるために、さまざまな努力を行っている。昨年訪韓し、政治、軍事、マスコミ、教育などさまざまな分野の人々と交流してみて、そのことを実感した。ソウル大学の張達重教授によれば、「全面的対決関係」から「制限的対決」と「制限的相互依存」の関係を経由して、「全面的相互依存を通じた平和的関係」をどう築いていくか、が課題となっている。大変なエネルギーと努力と忍耐を必要とする仕事である。張教授によれば、そうした努力を通じてこそ、「冷戦を克服する過程での統一」が実現できるというのである

  だが、北朝鮮に対する日本政府(特に首相官邸)の対応は、きわめて問題がある。日本の外交は、拉致問題に拉致されてしまったかのような状況を呈している。外交はあらゆるチャンネルを活かしながら多様かつ柔軟に行われるべきものであり、戦争に至らないよう、あらゆる努力を積み重ねる必要がある。「戦争は外交の失敗」とされる所以である。ところが、昨年9月以降、拉致被害者家族の一部には「戦争も辞さず」といった発言をする者も出てきた。被害者家族はしばしば米国を訪れ、ネオコンやそれに近い人物に会って、北朝鮮に対して経済制裁や強攻策をとることを要望している。他方、外交ルートを通じて、あるいはNGOなどのチャンネルを通じて北朝鮮サイドと接触することを、「売国奴」といわんばかりの勢いで非難する人々もいる。外務審議官の自宅に発火物が仕掛けられると、東京都知事が、「やられて当然だ」という趣旨の発言をして物議をかもした。いかに弁解しようとも、これはテロ容認の思想である。都知事は、東京都警察(警視庁)を管理する東京都公安委員の任命権限をもち、東京の治安の最高責任者である。この発言一つで、辞任に値すると言えよう。

  ところで、拉致問題解決が困難となった原因の一つに、9.17(日朝首脳会談と平壌宣言)後の政府部内の足並みの乱れがあるように思う。実は、昨年の9.17は、ブッシュ政権にとって「日本のフライング」の面があった。拉致問題が日朝間の交渉で解決することは、ブッシュ政権にとっては決して心地よいものではなかった。そこで、会談直後に軌道修正がはかられた。政府部内でも、拉致被害者を北朝鮮に戻さないという決断が「これは国家の意思です」(中山内閣官房参与)という形で行われた。拉致という国家犯罪に対して、明確な国家意思として対処すべきだということは実にわかりやすい。しかし、子どもたちと家族との話し合いを経由して、家族全体の帰国をはかるという、外務省ルートで進められていた段取りは、これで崩れてしまった。当然、北朝鮮は「裏切られた」として硬化する。世論は、北朝鮮のさまざまな隠蔽工作や責任の下部への押しつけなどとも相まって、「人さらいが何をぬかす」というトーンで怒りを高める。その結果、日朝が9.17の線に沿って問題解決に向かう動きは遮断された。これはブッシュ政権の意向を反映したものだったのではないか。拉致問題を未解決状態にしておくことで、この地域の緊張を持続させる。日本が韓国との関係を強めつつ、米国を差し置いて北朝鮮との間で問題解決に向かうことは阻止したい。日本政府部内(官邸)にも、結果的にそうした方向と響きあう力が強まっていった。小泉首相は、こうしたさまざまな政治力学のなかで、自らが行った9.17決断について、首尾一貫した政治的イニシィアティヴをとることができなかったのである。

  拉致被害者の子どもたちの年齢は15歳から21歳である。20歳以上が4人いる。彼らを犯罪国家から「奪還」するという発想はわかりやすい。しかし、彼ら一人ひとりが判断能力を持っている。家族がどのような生活を選択するのかは、いかなる干渉も排して家族が話し合って決めることである。その場が奪われている状況を早く克服して、家族の再会と話し合いを求めていく。この視点が必要だろう。だが、子どもたちは独裁国家でマインドコントロールされているから、そんなことはナンセンスだという反論もありうる。だが、家族が再会して、話し合う場をどう確保するかという観点は決しておろそかにしてはならないだろう。昨年12月、私は、中国残留孤児問題との関連でこう指摘した。「国家と国家の隙間に家族がはさまれ、ある時は無視され、ある時は過剰に介入されて、翻弄されている。国家がその時々の都合で個人・家族を利用し、『国策』を推進するのは、戦前も戦後も一貫している。個人の生活をこれ以上、『国策』の道具にさせてはならない」と。

  先月、北朝鮮核問題について6 カ国協議の枠組ができたことは一つの進歩である。何らかの形で多国間の話し合いのテーブルが生まれたという意味は大きい。もちろん北朝鮮と米国の双方の動きから、楽観は許されない。では、いかなる道が考えられるか。
 ここで想起されるべきは、1975年の「欧州安全保障協力会議(CSCE)最終議定書」(ヘルシンキ宣言)だろう。そこには、安全保障協力や経済・技術協力のほかに、「人道およびその他の分野における協力」が重要な柱として打ち出された。これは「人的接触」「情報」「文化」「教育」の4分野の協力からなり、「人的接触」では「家族の絆を基礎とする接触および定期的会合」「家族の再結合」がトップに掲げられている。第二次大戦と冷戦構造のなかで引き裂かれた家族の再結合は、ヨーロッパでも重要な課題だった。こうしたCSCEの「信頼醸成措置」とそれを軸とする多面的な接触・協力を通じて、閉鎖的な東欧諸国の内部にも変化が生まれ、やがてそれは冷戦構造を崩す力となっていった。

  北東アジア地域において、このような協調的安全保障枠組はまだできていない。アジア全体では、94年7月、ASEAN 地域フォーラム(ARF) が発足した(北朝鮮も2000年に参加)。信頼醸成の促進と予防外交の展開、紛争へのアプローチの充実というプロセスを設定して活動している。歩みは緩やかだが、重要な枠組と言える。さらに93年以来、韓国政府は、ARF と並んで、北東アジアにおける「ミニCSCE」型の安全保障対話を追求してきた。すでに「北東アジア協力ダイアローグ」(NEACD) のもとで、いくつかの「トラック・ツー」(民間レヴェル)対話も開催されている。日朝首脳会談直前、北朝鮮がNEACD への参加を表明したことは注目される(法律時報2003年6月号所収の拙稿参照)。

  この地図を見ていただきたい。『朝日新聞』9月14日付でも紹介されたが、昨日その現物を入手した。これを見ると、日本海は内海であることがわかる。この海を取り巻いて、日本の日本海側自治体と韓国、北朝鮮、中国、ロシアの自治体が多数存在する。そこに住む住民という観点で見た場合、この海は共通の関心事となる。すでに環日本海の自治体間交流も93年頃から活発化している。

  この地図を見ると、さまざまな発想が浮かぶ。「困った隣人」北朝鮮を「窮鼠猫を噛む」状況に追い込んではならない。6カ国協議を手始めに、協調的安全保障アプローチをどのようにこの地域で前進させるか。その際、日本は、「日米同盟」への過剰な偏りを修正して、中国や韓国との密接な協力のなかで問題解決に向けて努力する必要があるだろう。

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