日朝首脳会談と拉致問題 2002年9月23日

史の扉が開くとき、それは軋みと痛みを伴う。これは、ドイツが統一した直後の1991年に、旧東ベルリンの中心部で生活した私の実感である(「ベルリン発緊急レポート」として『法学セミナー』に4回連載。拙著『ベルリンヒロシマ通り』所収)。当時、旧東ドイツ国家保安省(シュタージ)の悪辣で非人道的な行為が毎日のように暴露されていた。突然の失踪、拉致も行われた。「壁」を越えて西に逃げる若者を射殺した元国境警備兵。だが、旧体制のトップ(E・ホーネッカー)の責任追及はなされなかった。シュタージ文書も公開された。当時、私が住んでいた近くに「ガウク機関」の事務所があり、そこで市民は自分に関する密告資料を読むことができた。しかし、そのファイルを開くことは、耐えがたい恐ろしい事実(例えば、密告者は夫か恋人か)を知ることになる。それに耐えられず死を選んだ人もいた。しばらくして、ヴァイツゼッカー大統領(当時)がシュタージ文書公開について抑制的な発言をして、和解をよびかけた。まもなくベルリンの壁崩壊から13年になるが、冷戦により引き裂かれた傷はまだ癒えていない。

  20世紀のドイツは、国民社会主義(ナチス)とソ連型国家社会主義(DDR)の2つの全体主義体制を体験した。その間、国民は指導者(党)への忠誠・完全服従を要求された。秘密警察の支配は、人々の間に疑心暗鬼と不安を増幅させた。いきおい、自分の保身のために、人を密告する者も現れる。そして拉致・監禁。密かに殺されたり、長期拘禁されたりして、家族が引き裂かれる事例は無数にあった。スターリンのNKVD(内務人民委員部)が戦後、旧東ドイツでやった拉致と抹殺の歴史の一端は、ナチス時代の強制収容所の「再利用」という最も醜悪な形で、いまも確認することができる。さらに、カンボジア・ポルポト政権下のキリングフィールドツールスレーン収容所の惨状も記憶に新しい。R.J.Rummel, Death by Geovernment, 1994によれば、政府による自国民の政策的殺人は「デモサイド」(Democide)と呼ばれ、犠牲者は計1億2954万人に及ぶ。このうち、旧ソ連が5476万(1917-1987)でトップ。中国が3523万(1949-1987)と続き、北朝鮮は129万人(1948-1987)である。この数字には、ジェノサイド(民族虐殺)は含まれていない。Rummelの数字にはいろいろと問題があるものの、全体主義体制のもとで、いかに多くの人々が拉致され、抹殺されたかを窺い知ることができる。その際、末端で実行する者たちは、命令に忠実であっただけでなく、命令されなくても、率先して悪事に手を染めた。こうしたことは、全体主義体制のもとで共通して見られる。それはなぜか。

  この点に関連して、『ビヒモス』を著したF・ノイマンの論文「不安と政治」(Angst und Politik, 1954)が参考になる(内山他訳『民主主義と権威主義国家』〔河出書房新社〕所収)。ノイマンによれば、キーワードは「不安の制度化」である。「神経症的な不安をつくりだすことで、被指導者を指導者にしっかり結びつけて、指導者との同一化がなければ滅びると思わせるのは、指導者の課題である。その場合、指導者は犯罪指令をだすが、その集団にゆきわたっている道義心…によれば、こうしたものは犯罪ではなくて、基本的には道義的行為である。しかし良心は、旧来の道義的確信をなくすことはできないのだから、犯罪の道義性には抵抗する。したがって罪悪感は抑えられ、不安は爆発寸前の状況になるが、そうした状況は指導者に対する無条件服従によってのみ克服されえ、また新しい犯罪指令を強要する。これが、全面的に抑圧的な社会における不安と犯罪との結合の私の見方である」。権力を奪取した「退行的大衆運動」は、「指導者との同一化を維持するために、不安を制度化する。それには三つの方法がある。すなわち、テロ、宣伝、そして指導者に追従する人びとにとっては一緒になって犯罪をおかすことである」と。


  「特殊機関の一部が妄動主義、英雄主義に走った」。北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の金正日総書記は、日朝首脳会談の席上、拉致の事実を認め、その責任を「父親の時代の部下」に押しつけた。何と白々しい、と思うだろうが、存外この発言は本音を語っているかもしれない。というのも、拉致は彼の指示・命令で行われた可能性が高いが、なかには、忠誠心を競うあまり、末端で率先して行われた場合もあったろう。だから「妄動主義」と「英雄主義」なのだ。後者は、明確な指示・命令はなかったが、末端の機関員が自分から進んで拉致を行ったことを含意する。北朝鮮でも「不安の制度化」が完成していたから、「指導者に追従する人びとにとっては一緒になって犯罪をおかすこと」(F・ノイマン)が名誉となる。そういう末端の「英雄主義」をあおる構造をつくり出した者の責任は重い。「秘書がやった。部下がやった。」と責任逃れするのはどこでも同じだが、北朝鮮の体制からすれば、「部下がやった」ではすまない。

  拉致について言えば、陸続きの韓国はひどかった。冷戦時代、北朝鮮に拉致された人々の数は7000人以上。今も486人が北に拘束されているという。周囲を海に囲まれた日本の場合、常に船が使われる。海岸付近での行方不明者のなかに、どれだけ拉致者が含まれるか確認は相当困難だが、現在の11名+数名を上回ることは確かだろう。いずれにせよ、普通に生活している人々を拉致して、家族から引き離し、その人生を狂わせるような行為は絶対に正当化できない。なお、今回、拉致被害者8名の死亡が伝えられたが、死亡日が同一だったりして、「処刑」された可能性が示唆されている。ここで言っておくが、マスコミは「処刑」という言葉を使うべきでない。何の犯罪も犯していない人を、裁判抜きで、密かに抹殺することは、死刑という刑罰を執行するという意味での「処刑」ではなく、単なる殺人である。端的に、国家ないし政府による殺人(デモサイド)と言うべきだろう。


   さて、ここからが本論になる(2回連載の予定だったが、一括掲載する)。

  まず、日朝首脳会談と「平壌宣言」をどう評価するか。日朝国交回復が成功すれば、戦後史、20世紀の歴史に関わる大きな事件となる。ただ、ここで確認しておきたいことがある。日本は、国家社会主義と封建制度のアマルガム(合体)のような国(私はかねてから「朝鮮君主主義臣民共和国」と呼んできた)を相手にしているということである。本稿の前半でも書いたように、拉致を引き起こす構造的問題をもった国なのである。だから、拉致問題の責任追及といっても、通常の政治システムをもつ国のような国内的なチェックは期待できない。「世襲君主」は責任をとることはない。ただ、みんながそう思っていた矢先、首脳会談の席上、金総書記は、あえて「拉致」という言葉を使い、日本政府のリストにない人々の名前まで出し、拉致について謝罪し、責任者の処罰にまで言及したのである。これは金総書記特有のタクティックス(戦術)ないしマヌーバー(謀略)と見ることも可能だ。感覚的な「指導」でならす金正日だけあって、意表を突く手法で日本側を揺さぶり、経済援助を引き出そうと賭に出てきたと見られる。核問題やミサイル問題でも、驚くほどの柔軟性を示した。「平壌宣言」には、「日本国民の生命と安全にかかわる懸案問題については、遺憾な問題が今後生じることがないよう北朝鮮は適切な措置をとることを確認した」とある。これは拉致問題の再発防止への約束である。「拉致」という言葉がないと批判することは簡単だが、北朝鮮にここまで言わせた意味は小さくない。

  「双方は、朝鮮半島の核問題の包括的な解決のため、関連するすべての国際的合意を遵守することを確認した」「北朝鮮は、ミサイル発射のモラトリアム(凍結)を2003年以降も延長していく意向を表明した」。関連するすべての国際的合意の遵守ということは、核をめぐる国際的な査察を受け入れることを意味する。「平壌宣言」のこの下りは、今後のアジアの平和・安全保障にとって、決して楽観はできないが、重要な手がかりになる。また宣言には、「10月中に国交正常化交渉を再開する」とある。国内的チェックが期待できない国だからこそ、国際社会が見守る交渉の舞台で、拉致問題を含むさまざまな問題について、一つひとつ詰めていくことが大切だろう。だからこそ、外交にたずさわる者には、確実な情報、気迫と精神力、したたかでしなやかな思考と姿勢が要求されるのだ。今回の日朝首脳会談について言えば、ここまでこぎつけたことは評価に値する。だが、外務官僚の特殊なエリート意識や国民から遊離した生活感覚が、大切な場面でマイナスに働いたようだ。特に拉致被害者リスト公表、死亡日時の問題にそれが集中的にあらわれた。誰のための、何のための国交回復交渉なのか、という原点に立てば、もっと別の対応の仕方があったと思う。日頃の弱点は、ここぞというところに出てきてしまうものである。

  死亡者の発表をめぐって、なぜ家族は怒ったか。この点、私は福田官房長官のミスキャスト性についても指摘したい。この人物は、人の心を傷つける言葉をポロッと吐く。彼は「小泉首相の前の首相」のもとでも官房長官をやっていた。当時の記者会見におけるあっけらかんとした発言の数々は記憶に新しい。一縷の望みをかけた家族に向かって、例の調子で話したのだろう。福田氏の顔とともに、家族の怒りの深さが想像できる。生死はまだ最終的に確認されたわけではない。「まだ生きている」という拉致被害者家族の気持ちを少なくとも支持するという姿勢で、政府は交渉にあたる必要があろう。


  その国を民主化するのは、その国の民衆である。ブッシュ大統領のように「政権の取り替え」を軍事力でやろうなどというのは愚の骨頂である(イラク問題は10月の直言で触れる予定)。この事件を好機とばかり、軍備強化に走るのは正しくない。それよりも、民衆の生活を安定させ、民主主義の基盤を育てていく。そのためには、真にその国の民衆のためになる経済援助が必要である。だが、援助の垂れ流しはやめて、ポリシィのある援助をすべきである。半世紀にわたる「臣民教育」の結果、民主主義の定着には途方もない時間がかかることは明らかだ。でも、やがて生活水準があがり、インターネットも普及していけば、かの国も変わっていくだろう。拉致問題への怒りのあまり、国交回復交渉を御破算にしてはならない。拉致問題の全容解明、責任の所在の明確化、賠償や補償の問題なども、交渉のテーブルが確保されてこそ可能になる。

  なお、6年前の96年9月。当時の梶山官房長官が「有事立法」問題に絡んで在日朝鮮人を敵視する発言をしたが、それをテーマにしたシンポジウム(東京・水道橋)に招かれ講演したことがある。会場に着くと、在日朝鮮人がたくさん来ていた。主催者の名称は別のものだったので、少々驚いた。パネラーになった総連系の人物は、北朝鮮批判には根拠がないと一蹴したが、私は、人権カントリーレポートやアムネスティ・インターナショナル報告などをもとに、北朝鮮の人権侵害についてはっきり指摘した。そして、軍事力で外から威嚇するのではなく、時間をかけて内側から変えていくことが大事であること、現在の体制からすれば途方もなく困難な課題だが、そのためにも新しい世代の成長に期待すると述べた。前列の方には若い人達が目立ったが、真剣に聞いてくれた。終了後、エレベーターホールに向かう私のところに在日の若い人達がきて、私の意見に賛意を表してくれた。そして、「共和国は変わるべきだと思う」と述べていたのが印象的だった。在日朝鮮人のなかにも、こういう世代が育ちつつある。こういう世代とも連携を強めて、ソフトランディングをはかっていくことが必要だろう。残念なことに、拉致問題への怒りから、朝鮮学校の生徒たちに向かって「出ていけ」と言ったり、嫌がらせをしたりする不心得ものがあとをたたない。朝鮮人強制連行という点で言えば、戦前の日本も「拉致国家」ということになる。その点について、「平壌宣言」で「痛切な反省と心からのお詫び」をした。その中身がこれから問われてくる。この会談と宣言が、どんなに限界と問題だらけの「歪んだ作品」であっても、これを手がかりにして前に進むべきだろう。そのためにも、歴史を後ろに戻さない冷静さが求められている。お互いの「過去克服」は、いまを改善し、未来を築くことにつながるのだから。

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