真の現実主義とは何か 2003年10月13日
論家の宮崎哲弥氏が『東京新聞』 6月27日付夕刊「論壇時評」で、『世界』(岩波書店)7月号の拙稿を批評している。東京地方の限られた読者(しかも注意深い)しかご存じないと思うので、長文になるが、当該箇所を引用しよう。
……国家の安全や国益といった言葉が氾濫しているわりに、いまなし崩し的に進められている立法や行政が、本当に国の安全や利益に資するものなのか、長期的な展望を視野に収めた上での議論が全体に乏しい。今回は例外的な論考に注目してみよう。例えば、有事法制について、憲法学者の水島朝穂氏が火を吐くような批判を展開している(「『有事法制』の危険な性格は何も変わっていない」『世界』)。水島氏の論考の、とくに各論部分には、有事関連法制の規定よりも柔軟で、アクチュアルな対抗案が示唆されている。しかしながら「『有事』という日本国憲法が想定していない状況を想定することをみても、『有事法制』の違憲性は明白である」とする教条主義的な水島氏の基本姿勢が国民に受け容れられるとは到底思えない。水島氏は他方で、世界各国に有事法制が存在するが、「各国ともそれぞれ、いかに法の濫用を防ぐか真剣な議論があり、試行錯誤があった。またフランスやスイスのように、緊急事態法のすでに不必要になりつつある部分を見直す動きもある」と述べている。水島氏の編著『世界の「有事法制」を診る』(法律文化社)に詳しいが、これは正確な指摘である。だが各国で、「真剣な議論」が交わされ、「試行錯誤」が可能なのは有事の際、政府に特別の権限を付与する国家緊急権が憲法において認められているからである。ともすれば国にフリーハンドを与えてしまいかねない「危険な」国家緊急権をいかに適切に制限するかが、各国有事法制の主眼なのである。一方、日本国憲法は国家緊急権を規定していない。現行憲法に緊急権条項は存在しないのだ。今回、有事関連法制が成立するまでは、「濫用を防ぐ」も何も、そもそも議論の土台が存在しないことになっていたのだ。然るに自衛隊という武力集団が厳存している。事実と規範の間に乖離が生じているのである。この乖離状況を放置すれば、早晩、規範は空文化し、事実は無規制の状態に陥るだろう。……
  宮崎氏については、比較的若い世代の論客として注目してきた。上記においても、氏の議論の仕方は誠実であり、その月の雑誌論文を紹介するコーナーで拙著まで紹介いただいた点は感謝したい。ただ、「教条主義的な水島氏の基本姿勢」という下りには首をかしげた。教条主義というのは、特定の教義・原理を金科玉条として、現実の状況や変化を無視して押し通す姿勢ないし主張をいう。憲法研究者が憲法規範や原理に、一般の人々よりもこだわることは自然だろう。それを「教条主義的」と表現してしまうのは、日頃宮崎氏が一番嫌うところの無益なレッテル貼りの手法そのものではないか。「理念か、それとも現実か」という二項対立ではなく、規範(理念)に反する現実を規範(理念)の方向に徐々に近づけていく努力もまた、現実を踏まえた冷静な思考選択である。規範・理念をより重視する立場を戯画化した上で叩くという手法は、フェアではないだろう。
  「憲法を守れ」という主張に対して、「神学論争はやめて、常識で判断しましょう」とか「憲法をタブー視するな」と非難するのも同様である。前者については、「9.11」後に行った「憲法再生フォーラム」講演会で、樋口陽一氏が適切に批判していた(「『常識』の専制に抗して」加藤周一、井上ひさし、樋口陽一、水島朝穂共著『暴力の連鎖を越えて』〔岩波ブックレット〕所収)。「タブー視」という言葉についても、表現の自由が保障されたこの国で、憲法を宗教的禁忌の対象にする人など実際に存在するのだろうか。とどのつまり、憲法規範や原理にこだわることを、現実無視の宗教のように描くためのレトリックではないのか。
  憲法は一国のあり方を定めた最高規範であるが、それに反する現実が生まれ、長期に渡って存在することはありうることである。その場合、規範と現実の矛盾をどう解決するかについて、複数の選択肢が存在しうる。裁判所が憲法違反の法律を違憲・無効とするのは一番わかりやすい解決の仕方であり、憲法の規範力回復への近道である。他方、現実の方にそろえて規範を変更するという解決法もある。憲法改正である(さらに進めれば、新憲法の制定ということもありうる)。日本国憲法は、「戦争と平和」という事柄に関しては、一切の戦争、武力行使・威嚇を否定し、そのための手段(戦力)を保持しないという徹底した平和主義の方向を選択した。ヒロシマ・ナガサキの体験を踏まえた歴史的決断と言える。だから、憲法9条と自衛隊の矛盾的併存状態というのは確かに「異様」ではあるが、それは憲法をとりまく政治状況の変化のなかで生まれた、歴史的妥協の産物にほかならない。逆に、憲法9条の規範が存在し続けるがゆえに、自衛隊のあり方にも間接的に影響を及ぼし、「軍隊ではない」という変則的な存在形態により、この半世紀の間、米国が行った戦争に直接参戦しないですんだという事実も否定できないだろう。思えば、ちょうど50年前の1953年11月19日、来日中のニクソン副大統領(後の大統領)は、「日本の非武装化は米国の誤りだった」と明言した。朝鮮戦争に日本を参戦させられず(海保の掃海部隊を除き)、日本再軍備の障害となった憲法9条の「押しつけ」を、米国の権力者が後悔するというのは、まさに歴史的皮肉と言えよう。
  そうした「普通でない」状態を改憲によって「すっきり解決」し、「普通に」武力行使や武力威嚇を実施できるようにしたい。そうした考え方は、野党・民主党のなかにも有力に存在する。民主党は「有事」3法に賛成したが、それを促進した前原誠司衆院議員。彼の発想はその典型と言える。それゆえに「日本のネオコン(新保守主義)」と呼ばれるが、ご自身は「大変心外」と反論している(『諸君』2003年9月号)。前原氏は、憲法改正を、「実態的なニーズ」に基づき、「帰納的」に論じていくべきだとする。その点で、憲法9条だけでなく、98条2項も「ゆるんだゴムバンド」だという。憲法98条2項は、国際法規の誠実遵守を定めるが、前原氏にかかると、「遵守」というのは強すぎる、「尊重」という形に緩和すべきだ、ということになる。「国際法規の尊重」ならば、多少は守らなくても柔軟にいける、というのが本音らしい。「イラク戦争」では、米国は国連憲章を守らなかった。小泉政権もまた、国連憲章違反の米国の行動を「理解し、支持します」と、どの国よりも先駆けて、しかも「ぶらさがり」(立ち話の変則的記者会見)で表明した。「遵守」を「尊重」に変えれば、98条2項は単なる「ゴムひも」と化すだろう。ゴムバンドの方は緩んでいても「締める」機能はかろうじて残っているが、ゴムひもはそのままならばダラリと垂れ下がる「ただのひも」にすぎない。その昔(といっても1960年代半ば頃まで)、各家庭を訪れ、モノを売りつけた「押し売り」の定番は、「奥さん、ゴムひも買わんか」だった。前原氏は「現実のニーズ」をしばることをしない憲法を構想しているようだが、これでは憲法は、「のびきったゴムひも」になってしまう。前原氏は「安全保障基本法」の制定によってその弱点をカバーしようというのだが、「基本法」といっても法的な効力は一般法律と同じだ。これでは「歯止めが利かない制度上の欠陥」(前原氏)を重ねる結果になるだけではないのか。「現実のニーズ」の中身の検証なしに、「現実」に無批判に寄り添い、「憲法のゴムひも化」を押し売りするのはいかがなものか。最大野党の安全保障エキスパートには、もう少し「規範」から「現実」を統制・チェックしていくという緊張感を期待したい。
  さて、戦後50年における知識人の役割について考察した論説のなかで加藤節氏はいう。「『歴史の渦』への適応をリアリズムの名の下に正当化し、原理への執着をドクマティズムとして切り捨てる傾向がますます強まっているように思われる。……特定の価値に敢えて与し続ける思想のモラルの解体が異論の不在を生むことによって思想の翼賛体制化に結びつくとすれば、われわれは、現在、その危険性の極めて高い時代に生きていると言わなければならない」(『政治と知識人』岩波書店、1999年)。
  現実に軽やかに迎合して、ルールや規則、憲法までも帰納的に変えていく「現実主義者」が増えるなか、憲法規範に基づき現実の方を変えよと主張する者に対して「教条主義的」というレッテルを貼る傾向が強まれば、加藤氏のいう「思想の翼賛体制化」はさらに進むだろう。日本国憲法の理念に基づき現実を変えていくことは、途方もないエネルギーと知恵と勇気を必要とする。再び、加藤氏はいう。「理念と現実との往還への視点を欠いた『現実主義』が支配する思想的伝統の中で、既成事実への適応を拒否し、現実が超越する理念による新たな現実の創造を目指した『進歩的文化人』の苦闘は、原理に賭けようとする高い志操性や知的誠実性とともに、われわれが継承すべき貴重な思想的遺産である」。この「遺産」を受け継ぎつつ、新しい条件のもとで、憲法9 条に基づいて、したたかに、しなやかに、軍事化の現実を変えていく「高次の現実主義」(ハイアー・リアリズム)を目指したいと思う。