「毒饅頭」10年目の効果 2003年11月17日

「わが歴史グッズの話」を始めたとき、最初に紹介した「グッズ」は、第7回衆議院議員選挙(明治35[1902]年8月10日)の投票所入場券(京都府河原林村役場)だった。有権者は「直接国税10円以上」の高額納税者約98万人で、人口比でわずか2.18%。ちなみに、この第7回衆院選の投票率は88.39%だった。25歳以上の男子が普通選挙権を得たのが1925年。その20年後、20歳以上の男女が選挙権を行使できるようになった。普通選挙権も男女平等選挙も「多年にわたる自由獲得の努力の成果であって」、一朝一夕に獲得できたものではない。今年11月9日の第43回衆院総選挙。投票率は59.86%(小選挙区)だった。4割の有権者が棄権したこの総選挙で、自民党は公明党の助けを借りて安定多数を確保した。民主党は177議席に躍進した。その一方で、共産党は9議席に、社民党は6議席に激減した。土井党首は責任をとって辞任したが、共産党委員長は「二大政党論に対応する時間が足りなかった」「マスコミが政権選択選挙を煽った」などとして、敗北の原因をもっぱら外部に求め、自らの政治責任を問う姿勢は見られなかった。「党中央」無答責を導く「民主集中制」なる前世紀前半のアナクロニズムをいつまで続けるつもりだろうか。
  この総選挙の結果については、さまざまな角度から分析される必要があろう。一ついえることは、1994年「政治改革」関連法、特に公選法改正による「小選挙区比例代表並立制」が、10年たってその「効果」を全面的に発揮したということだろう。この仕組みが完成すれば、社会党は滅びる。それを承知で、この選挙制度を推進した社会党幹部の一人は、当時それを「毒饅頭を食べる」と評した。10年たって、その通りの結果になった。

  1993年、細川連立政権のもとで、小選挙区制と比例代表制を組み合わせた選挙制度が導入された。そのベースとなった第8次選挙制度審議会答申(1990年4月26日)について、私は1991年3月、朝日新聞編集委員の石川真澄氏らと『日本の政治はどうかわる――小選挙区比例代表制』(労働旬報社)を出版した。第8次答申は、委員の多くがマスコミ関係者だったこともあり、巧みなレトリックを駆使した。例えば、「民意の反映」と「民意の集約」をフラットに並べ、政権交代を可能にする「民意の集約」を重視するというものだった。何となくわかった気になってしまい、民主主義にとり最も重要な「民意の反映」を損なうおそれのある制度が導入されるに至った。
 当時、「併用制か並立制か」という言い方がされたが、両者は似て非なるものである。「併用制」とされたのは「小選挙区制を加味した比例代表制」(旧西独型)であり、「並立制」とは「比例代表制を加味した小選挙区制」である。比例代表制と小選挙区制という異なる制度が「併用」と「並立」という形でその本質的違いが曖昧にされたのである。ここに仕掛け人がいる。小沢一郎氏である。彼の戦略は、保守二大政党制である。若き自民党幹事長経験者(現在の安倍幹事長よりも若かった!)の小沢氏は、宮沢内閣不信任に同調。細川政権成立に関わり、土井衆院議長を誕生させた(社会党のパワーの封じ込め)。そして、新生党、新進党、自由党を経て、ついに民主党に「一兵卒」として入党した。彼の戦略は明確である。「保守二大政党制」は確実に近づいてきた。

  ところで、94年の「政治改革」4法案成立の過程で、3人の人物が決定的役割を果たした。細川護熈首相、河野洋平自民党総裁、土井たか子衆院議長(いずれも当時)である。この法案は衆議院で可決されたが、94年1月21日、参議院で否決されてしまった。「並立制」に反発する自民党と社会党の議員が反対にまわったためである。法律の場合は、両院で可決されることが原則である(憲法59条1項)。参議院が異なる議決をしたときは、衆議院は両院協議会の開催を求めることができる(59条3項)。1月26、27日と2度の両院協議会が開かれたが、成案を得られなかった。こういう場合、衆議院が3分の2の多数で再議決すれば、法律となる(59条2項)。「政治改革」関連4法案も衆議院の再議決が焦点となった。しかし、参議院で「造反」が出たトラウマから、自民党も連立与党も「再議決」を回避しようとした。そこで先の3人の人物の登場となる。土井議長が仲立ちして「細川・河野トップ会談」が開かれ、「政治改革」関連4法案に関する合意が成立。1月29日、第3回両院協議会で、衆議院議決通りの協議案が可決され、それが同日、衆議院と参議院でそれぞれ可決され、法律として成立したわけである。

  この点に関連して、面白い判決を見つけた。1995年3月20日の宮崎地方裁判所の判決である(1994年(ワ)第169号、訟務月報42巻11号2557頁)。元公正取引委員会審査官(69歳)が、国と先の3人を相手どり、300万円の慰謝料の支払いを求める損害賠償請求訴訟である。「原告は、政治改革関連4法案は、両院協議会で成案が得られないものとして廃案とされるべきであったにもかかわらず、被告細川、同河野及び同土井は両院協議会に違法に関与して成案を得させ、法律として成立させた、被告細川らの右行為は議会制民主主義破壊の違法行為であり、被告細川らは原告に対して不法行為責任を負うと主張し(た)」(政党助成法の論点は省略)。原告のこだわりは、被告土井が被告細川と被告河野に調停案を示したが、これは両院協議会の結論を違法に変更させるものであり、細川・河野トップ会談は両院協議会の場で行われるべき妥協案作りを勝手に代替するもので、憲法に反するというものだった。
  では、これについて宮崎地裁はどのように判断したか。「…法律として成立している以上、明らかな憲法違反事実が存在しない限り、両議院(国会)の自律性を尊重すべきであり、裁判所は、議事手続(議事運営)の適否について判断すべきではないと解するのが相当である。そして、政治改革関連4法案の成立過程における議事手続に明らかな憲法違反があることを窺わせる証拠はない」と。判決は、被告細川、被告河野、被告土井は、それぞれの政治的主張・信条に基づき「政治改革」関連4法案を成立させるべく行動したもので、憲法51条〔議員の免責特権〕の保障は、衆院議員の立法に関する政治的活動に対しても及ぶものと解されるから、個別の国民が被告の右政治的活動を理由として不法行為責任を追及することは許されない、と判示して、原告の訴えを棄却した。本件は福岡高裁に控訴され、最終的に1997年10月31日に最高裁で上告棄却になった。なお、裁判所の審査権が、議院の議事運営や手続に及ぶかどうかという論点については、すでに40年前の警察法改正無効事件最高裁判決(1962年3月7日民集16巻3号445頁)がある。判例の流れからすれば、本件の結論はすでに見えていた。宮崎地裁判決は、『朝日新聞』西部本社(福岡)1995年3月21日付が報道したほかは、東京・大阪方面では報道されなかった。
 さて、3人の当事者の「その後」を、NHK「プロジェクトX」のエンディング風に書いて、本稿を閉じることにしよう。♪♪♪……首相在任時代パフォーマンスだけが印象に残った細川さんは、いま陶芸の個展を開き、悠々自適の優雅な生活をおくっている。「やるっきゃない」と一世を風靡した土井さん。「やらなきゃよかった」トップ会談仲立ちで成立した小選挙区制によって、10年後、自らが落選の憂き目をみることとなった。そして、河野さん。歴史上唯一「総理・総裁でなかった自民党総裁」。2003年11月の特別国会で、衆議院議長の地位につく。♪♪♪……

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