「戦前の古稀」に思う  2005年2月14日

「戦後の還暦」については、昨年秋に「それぞれの『記念日』」にからめて言及した。今回は、「戦前の古稀」について書く。具体的にいえば、「1935年」のもつ歴史的意味についてである。
  
いまから70年前の3月6日、ドイツが「再軍備宣言」を行った。ヒトラー政権誕生から2年。ベルサイユ講和条約を公然と無視する宣言である。その半年後にはニュールンベルク法が公布されてユダヤ人迫害が法制化され、9カ月後にはラインラント進駐が始まる。1935年は、第二次世界大戦開戦まで4年という重要な転換点だった。日本にとって1935年(昭和10年)はどんな意味をもっていたのか。

  今週の金曜日は、天皇機関説問題70年にあたる。1935年2月18日、貴族院で菊地武夫議員が美濃部達吉東京帝国大学教授の「天皇機関説」を非難した。その2年前の1933年、滝川幸辰京大教授の刑法テキストをやり玉にあげたのも貴族院で、同じ議員だった。こういう場で、学者の学問的言説が非難される。きわめて異様なことであった。すぐに「論壇」や政治団体などから、美濃部非難の大合唱が始まった。一般の人々の間では、「美濃部という教授はけしからん。天皇陛下を機関車になぞらえて、シュッポ、シュッポといった」という形に歪曲され、単純化されていった。4月4日、「皇道派」の真崎甚三郎陸軍教育総監が、全陸軍に対して「国体明徴」の訓示を行った。こうして、一学者の言説を利用して、軍に対する精神統合が一気に強化された。

  美濃部の学説というのは決して奇をてらったものではない。簡単にいってしまえば、ドイツ19世紀の学者が唱えた「国家法人説」を応用して、日本にあてはめたものである。この説は、国家を統治権をもつ法人とみて、君主をその国家の一機関と相対化することによって、王権神授説に対抗するとともに、社会契約説的な説明をも拒否するものだった。端的にいえば、立憲君主制の正当化理論である。「国家法人説」を応用した、「穏和な」美濃部説が、1935年という「その時」においては、立憲主義的傾向を根絶やしにするための「スケープゴート」にされたわけである。そうして、非合理的な「国体」を過剰に押し出す契機となり、軍や政府全体に伝播して、「日本を破局に暴走させる切り換えポイント」となったのである(松本清張『昭和史発掘』6巻)。なお、4月9日には、『逐条憲法精義』など美濃部の著書3冊が発行禁止になった。面白いのは、発禁と決まるや、多くの人が書店に走り、美濃部の著作が売り切れになったことである。健全な理性がまだ残っていたということだろう。
  
さて、8月3日には軍に続き、政府までもが、「国体明徴」の声明を行った(10月15日に第2次声明)。7月15日付で「皇道派」の真崎大将は罷免され、「統制派」の渡辺錠太郎が教育総監となった。そして、8月12日、「相沢中佐事件」が起こる。陸軍省内で、「統制派」の永田鉄山軍務局長が「皇道派」の相沢三郎中佐に、切れ味のよい河内守国次(大阪新刀一派の名刀)で斬殺された。「2.26事件」で渡辺教育総監が殺害される「その時」まで、残り半年であった。こうして相沢事件前後の状況を診ていくと、「軍閥の暗闘」(松本清張『昭和史発掘』7巻)が「2.26事件」を経由して、日本を戦争に引きずり込んでいく構図が見えてくる。なお、「相沢中佐事件」の翌月18日、美濃部達吉は貴族院議員を辞職した。

  軍と右派勢力が美濃部を狙ったのは、「天皇機関説」だけではなかったように思う。この学説が天皇をおとしめるものでないことは、彼の書いたものをよく読めば明らかである。むしろ、軍が美濃部に対して反感をもった背景には、「統帥権干犯問題」をめぐる怨念があったのではないか。軍の最高指揮権は「統帥権」だが、帝国憲法11条には「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」とあり、この天皇の「統帥大権」には、政府も帝国議会もコミットできないと主張されてきた。これがいわゆる「統帥権の独立」である。軍には、「軍政」(軍に関わる行政事務)と「軍令」(作戦用兵関係)の二つの事項があり、後者については、陸軍参謀総長と海軍軍令部長(後に総長)が天皇をサポート(輔翼)し、内閣や議会は関与できない、と解されてきた。他方、帝国憲法12条は「天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム」とあり、組織や予算に関わる事項については、内閣・議会が関与できるという解釈が有力だった。美濃部は帝国憲法をできるだけ立憲主義的に解釈しようと試みていたから、これがいちいち軍の「逆鱗」に触れていったわけである。美濃部をターゲットにして排撃すれば、他の学者たちは推して知るべし。その威嚇効果は抜群だったろう。軍人たちの思い上がりと「傲慢無恥」は、1935年の一連の出来事に集中的にあらわれている。

  さて、滝川教授を守るために戦った京大法学部に対して、東大法学部は美濃部を守ることはなかった。1935年は、「大学の死」という点でも象徴的な「その時」だった。竹内洋『大学という病――東大紛擾と教授群像』(中央公論社、2001年)は、東大経済学部とその教授たちを舞台まわしにしながら、大学が内部から崩壊していくさまを活写している。ここでは、枝葉的なところで印象に残ったことを一つ挙げておこう。それは、東大法学部の1934年秋の授業で、「東洋政治思想史」を担当した早稲田大学教授津田左右吉のことだ。年末最後の授業で「これで私の講義はおわります」と津田がいいおわるやいなや、学生たちからの「質問」が飛び、津田は数時間にわたり学生たちの追及を受けた。執拗に「質問」をしたのは右翼急進派の学生たちで、「神皇正統記の大精神に反する」などといいがかりをつけた。右翼結社などの圧力は津田を招いた東大法学部から、彼が長期にわたり教授として勤務した早稲田大学にまで及んだ。1935年、津田は早稲田大学を追われ、その著書『古事記及日本書紀の研究』は発行禁止処分にされた。4年後の1939年、東大では、軍艦設計にあたった海軍技師の平賀譲が総長となる。この「軍艦総長」のもとで行われた「平賀粛学」は、「天皇制ファシズム」による大学弾圧、軍国主義による学問への抑圧の一例とされてきたが、この本は、従来の解釈と異なり、事件の真の原因は大学教授間の派閥闘争にあり、外部からの圧力によってではなく、内部からの自壊の結果として、東大経済学部は解体したという説をとる。とうの昔に「大学は死んでいた」という評価である。その意味では、津田を追い出した早稲田も「死んでいた」のである。

  以上のような時代状況から70年がたってみると、いま、よく似た現象があるように思う。自衛隊の二等陸佐(中佐)が、憲法改正草案を起草し、そのまま与党の憲法改正案に使われるというところまできた。1935年における軍内部の抗争は「2.26事件」を準備し、これを契機に「軍の論理」が突出していくことになる。政治家の質も大きく落ち、軍人の思い上がりと勘違いが幅をきかせてくると、その国の自由の状況は危ういものとなる。それを「炭鉱のカナリア」のように敏感に感じとり、世間に向かって警告を発するような知性が存在するはずの大学が沈黙し、目先の成果や効率・能力のためにエネルギーと知力を費消している。かつてのように、大学教授がその思想の故に大学を追われるような露骨な動きはないだろう。しかし、「国際競争力」を錦のみ旗にして、「特色を出せ」というオブセッション(強迫観念)、自己点検、第三者評価、学生による授業評価といったツールが、個々には意味があったとしても、全体として大学を息苦しいものにしていないだろうか
   いま、「戦後の還暦」を前にして、その「戦後」を生み出した「戦前」への深い洞察が求められている。