「国民的憲法合宿」のこと  2005年4月18日

4月14日、衆議院憲法調査会(中山太郎会長)は、発足から5年間の「調査」内容をまとめた最終報告書を賛成多数で決定した。再生紙利用の683ページの分厚いもの。9条「自衛権の行使として必要最小限の武力行使を認める」「自衛権及び自衛隊について何らの憲法上の措置をとることを否定しない」というのが多数意見として明記された。前文に「わが国固有の歴史・伝統・文化」に入れることも。他に多数意見としては、女性の皇位継承の容認、非常事態規定の新設、憲法裁判所の設置、環境権などの創設、道州制の導入などがある。各論併記という扱いは、集団的自衛権行使に関する3論の併記、国民を対象とした義務規定の新設、家族や家庭、共同体の尊重規定の新設、憲法改正手続の要件緩和がある。5年間も手間隙と外国への大名旅行のような「視察」を重ねて、国会議員の多数が到達した結論がこれである。4月4日、自民党憲法起草委員会(「あの男」が委員長!)の「自民党新憲法試案要綱」も出されており、憲法「改正」の動きは一段と促進されるだろう。ただ、改憲に向けた、政治家たちの妙な「力み」と「熱さ」に比べて、国民の側はさめているように見える。最近のNHK世論調査(4月8~10日)では、憲法改正の必要ありとする人は48%、必要がないが16%、どちらともいえないが31%という数字だった。ただ、具体的に憲法9条の改正に対する賛否を問うと、改正する必要がある26%、必要がない36%、どちらともいえない31%という数字だった。「どちらともいえない」が同じ数字だが、この層があまり動かないとすると、憲法改正の必要性は認めても、9条については躊躇する層が20%前後いるということがわかる。国民の多数が憲法9条改正に賛成していると断定することはできない。
  
そうしたなか、ライブドアとの抗争にゆれるフジテレビで、3月30日深夜、「シリーズ日本国憲法――第96条・国民的憲法合宿」という番組が放送された。私が1月初旬に軽井沢に「缶詰」になって収録された番組である。3月8日に放送予定だったが、諸般の事情でここまで延期されていたものだ。放送は午前2時32分から3時30分までという「常軌を逸した時間」(笑)。ほとんどの方がご存じないと思うが、けっこう反響があったようである。下記は、国公労『調査時報』2005年3月号の連載5回「『3分の2』と『過半数』の間」をベースに、番組をみて得た情報を加筆して再構成したものである。なお、『市民の意見30の会・東京ニュース』88号「改憲とどう向き合うか」の前半とも重なる。

   1月初旬、雪の軽井沢で、憲法を語る「合宿」に参加した。フジテレビ系の「ノンフィックス」という番組の、「シリーズ日本国憲法――第96条憲法改正」収録のためである。ごく普通の市民が、改憲をめぐって一つの結論を、陪審員のように「全員一致で」出す。その1泊2日を大小6台のカメラが追う。参加者は街頭で声をかけるなどして集められた「12人の怒れる男」ならぬ「6人の浮世の男女」(26歳から72歳まで)に対して、改憲派の論客・小林節氏(慶応大学法学部教授)が検察官役で「冒頭陳述」を行う。私は弁護人役である。3つのセッションごとに2人の意見が戦わされる。その後、そのやりとりを参考にして市民だけで議論が行われる。全員一致の結論が出るまで続けられる。私は、改憲論議を刑事裁判に見立てた設定に違和感があったが、やってみるとこれが面白かった。
  
当初、参加者の意見は、「改憲」3と「護憲」3に分かれた。「改憲な感じかな」という元自衛官から、「子どものことを考えると護憲」という主婦にまで、いずれの立場も感覚的な意見が多かったが。
  
9条をなぜ変えるのか?変えないのか?」というセッションでは、「もし攻められたらどうする?」という議論に入り込み、その時点では「改憲」4、「護憲」2の傾きになった。ところが、「憲法とは何なのか?」という最後のセッションに入ると、小林氏と私の意見が一致する場面が生まれた。
  
「憲法は権力者を拘束し、制限する規範である」というのは立憲主義の常識である。この点を曖昧にした改憲派の議論を私が批判すると、小林氏もこれに同意した。また、氏は、改憲派のなかにある倒錯した発想、例えば、家族のあり方などを憲法に書き込み、国家が市民に説教するかのような主張を批判した。政治家たちが憲法改正手続を容易にするための改憲にも反対し、自衛隊イラク派遣は違憲と明言したのである(「タカ派改憲論者はなぜ自説を変えたか?」『現代』2005年2月号参照)。おりをみて司会者が、「皆さん、憲法が権力者を拘束するものだということを知っていましたか?」と問うと、全員が沈黙した。
  
こうして、6人の老若男女は、翌日夜までずっと議論を続けた。全員一致で出した結論は、「今年中に国会議員によって提出されるであろう憲法改正案に対して、国民として態度を留保する」というものである。そして、「この態度を国民の側から表明することによって、より質の高い草案を提出させるきっかけにすると同時に、憲法とは政治家が国民に押しつけるものではなく、国民が大切な政治を委託する、政治家の行動を監視する手段であることが非常に大事であるので、国民一人ひとりが自分たちの考えや意見をもつことを期待したい」と結んでいる。「改憲」と「護憲」に真っ二つに分かれた市民が、私たち2人の専門家の情報提供と議論、長時間にわたる討論を通じて全員一致で出した結論は貴重である。番組放映までの結論をスタッフから教えられていなかったため、「合宿」から2カ月以上たって、「全員一致の結論」を番組でみたときは、うれしかった。

   「合宿」に参加した6人は、「国民投票」の主体である「国民」の縮図である。憲法について専門的知識はまったくない。憲法についてじっくり考えたこともない。日々の生活に追われている。番組では6人のそれぞれの人生が紹介され、一人ひとりが憲法と必死に向き合った姿が伝わってきた。
  
各種の世論調査では、憲法を変えることに賛成か、反対かという一般的な問いかけがなされるので、多数の人が賛成と答える。「古くなったものを改正してなぜ悪い?」と問われれば、これに反論するのには相当なエネルギーが必要となろう。だが、実際に「何を」「どのように」変えるのかという具体的な問い方がなされれば、憲法を積極的に変える側の説明負担は増大する。この合宿の体験は、明確な論点の提示と十分な情報提供が行われ、かつ十分な議論の時間が確保されれば、市民はきちんとした判断能力を発揮しうることを示唆する。
  もちろん、憲法は自らの条文の改定を予定している。社会の発展のなかで憲法も発展するという一般論は間違っていない。ただ、国の最高法規である以上、現実とのズレが長期にわたって存在するからといって、規範を変える理由にすることはできない。現実を規範の側に近づける地道な努力もまた、現実的な選択である(拙稿「理念なき改憲論より高次の現実主義を」『論座』〔朝日新聞社〕2004年3月号)。憲法があえて自らの変更に関して「重い」手続を要求するのも、そうしたさまざまな選択肢を考える「手間隙」を課しているからである。
  
憲法改正の段取りは、①国会議員による憲法改正の「発案」、②総議員の3分の2以上の賛成により、国会(両院)の「発議」、③国民投票での国民の「承認」、④天皇による「直ちに公布」である(96条)。
  
「総議員」については、(1) 法律上の定数を意味するのか、(2) 現在議員数を指すのかで説が分かれる。その違いは、端的に言えば、欠員をカウントするかどうかに関わる。議員の議席喪失(55条)、会議の非公開(57条1項)、議員の除名(58条2項)の場合、また、衆院が可決した法律を参院が否決したときの衆院の再議決(59条2項)の場合は、いずれも「出席議員の3分の2以上」である。臨時国会の必要的召集が「総議員の4分の1以上の要求」(53条)であり、定足数は「総議員の3分の1以上の出席」(56条)である。「総議員」と「3分の2」の双方が要求されるのは憲法改正の場合だけである。現在議員数も欠員で変わるし、出席議員数は毎回変化するが、定数は法律で決まっているので動かない。事柄が憲法改正という最高法規の変更に関わる以上、その合意はより厳格でかつ安定的であることが望ましい。法律上の定数と解するのが妥当である。
  
この「重い」改正手続をまず変えろという主張が出てきた。2000年9月、衆院憲法調査会が多額の税金を使って訪欧「調査」を行った際、ローマ在住の日本人女性作家に話を聞いている。作家は「総議員の過半数」に変えることを提案したという。『読売改憲試案』も改正手続のハードルを下げることを提案している。現行96条では、衆参各議院の総議員の3分の2(66.6%)と国民投票の過半数だが、「試案」は二つの道を提案している。まず、各議院の在籍議員の3分の2以上の出席で、出席議員の過半数(33.3%)と国民投票(有効投票)の過半数のセットの道。もう一つは、各議院の在籍議員の3分の2以上の出席で、出席議員の3分の2以上の賛成(44.4%)の道である。後者には、「前項の規定にかかわらず」という一文が挿入されているので、予測困難な国民投票を省略した後者の道が選択されるだろう。そうなると、国会議員の半数にも満たない数で憲法改正が可能となる。これでは他の法律に対して重みを感じない「軟弱憲法」になってしまうだろう(拙稿「『読売改憲試案』の目指すもの」『論座』2004年7月号参照)。

   「総議員」と「出席議員」、「3分の2以上」と「過半数」。これらの組み合わせのなかに、憲法制定者の微妙な判断が働いていることがわかるだろう。普通の法律ならば出席議員の過半数で可決される。定足数は「総議員の3分の1以上」だから、極端な話をすれば、総議員の6分の1以上で法律はできるわけである。憲法改正はそうはいかない。
  
どこの国でも憲法改正には法律制定よりも「重い」手続が要求される。憲法が権力を制限・拘束することを本質とする以上、権力担当者が自らの「規制緩和」を求めてきたときは疑ってかかれというメッセージと言える。だから、「まず憲法改正手続を変えて、憲法改正を容易にしよう」と権力担当者自身が言いだしたときが一番危ないのである。しかも、いま世界のバランスはきわめて悪い。何よりも、「神」をバックに「自由の拡大」を武力で世界に押しつける「絶対的権力」が米国に生まれた(2期目ブッシュ政権)。そんなとき、戦争や武力行使に対してどこの国の憲法よりも厳格な姿勢をとる日本国憲法9条を変えることが、どのような意味をもつのか。しっかり考える必要があろう。そのためにも、改正手続の「重さ」そのものをしっかり受けとめる必要があるだろう。改憲のための改憲、護憲のための護憲ではなく、「憲法は何のためにあるのか」という根本的な議論が求められる所以である。

追記:全日本テレビ番組製作社連盟「第22回 ATP賞2005」ドキュメンタリー部門優秀賞を受賞しました。
    https://www.atp.or.jp/aword/22.html
    http://www.fujitv.co.jp/fujitv/news/pub_2005/05-nonfix-atp.html

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