トルコの「90年前の現在」  2005年4月25日

週、ドイツの新聞・雑誌を読んでいて、頻繁に登場した日付が4月24日だった。残念ながら、この日付は、私の記憶のなかにはなかった。何本もの記事や論稿を読むなかで、90年前の昨日から始まった「過去」が未だに疼いており、「現在」進行形で問題化していること、それがヨーロッパの「未来」に関わる問題にも発展していることを知った。

  1915年4月24日(土曜)。イスラム教のオスマン・トルコ帝国によるアルメニア人(アルメニア正教会系キリスト教徒)の強制移住と虐殺が始まった。トルコの特別部隊が政府命令で、アルメニア人をシリアのアレッポなどに強制移住させたのである。水も食料もなく、途中で100万人以上が死亡した。「アレッポへの死の行進――20世紀最初のジェノサイドでトルコ人は100万人以上のアルメニア人を殺した」。『シュピーゲル』誌4月18日号の見出しである。地図を見ると、各地に収容所や大量虐殺のポイントが確認できる。これは、ナチス・ドイツによるユダヤ人大量虐殺のモデルとなったという。それゆえに、「ジェノサイド」と呼ぶ学者もいる(G. Heinsohn, Armenien 1915―eine Ermutigung für Adolf Hitler, Netzeitung.de)
   同一民族の国民の名において行われた犯罪については、トルコの左派も右派も沈黙を守ってきた。トルコ首相は先週、「トルコの歴史には、我々が恥じねばならないような出来事は存在しない」と言い切った。逆にトルコでは、今日、4月25日:「ガリポリ上陸作戦90周年」が祝われる。第一次世界大戦中のこの日、英仏、オーストラリア、ニュージーランドの連合軍がゲリボリ(英語名はガリポリ)半島に上陸作戦を敢行。トルコ軍と激しい戦闘になった。血みどろの激戦の末、連合軍は多数の戦死者を出して撤退した(『朝日新聞』4月23日付2外に「90周年」の記事あり)。この戦争で双方あわせて50万人以上が死傷したという。トルコでは、この戦闘は教科書で大きく扱われ、地図や絵、写真などを使って英雄的に描かれている。近代トルコ建国の父、アタチュルクが指揮をとった戦略拠点は、観光名所にもなっている。だが、この上陸作戦の前日に始まったアルメニア人強制移住については、トルコでは一貫してタブー視され、歴史教科書にはほとんど記述がない。 トルコの歴史教科書が沈黙したり、過少な数字を挙げたりしているのに対して、アルメニアの教科書は自国の「民族虐殺」について詳細に書き、トルコへの怒りをかきたてる。その際、アルメニア側は「ジェノサイド」という言葉に固執してきた。
  では、一体何人が死んだのか。アルメニア側の資料では、100万人以上が死んだとされている。150万という数字もある。第一次世界大戦直後、トルコ政府は死者数を約80万人とした。今日のトルコの公的な歴史記述では、30万人とされている。トルコ公文書館からは、アルメニア武装集団がトルコの民間人を殺戮したという記録も出てきた。トルコのメディアによれば、50万人以上のトルコ民間人が犠牲になったという。トルコ国内で長らくとられてきた見方では、アルメニア人の死亡者は、「わずか」30万人だったという。膨大な数の民衆、とりわけ老人、女性、子どもが死んだことは確実なのに、亡くなった人々の名前ではなく、無機質な数字ばかりが飛び交う。なお、数字の問題については、「185枚の証明写真」でも触れたので参照されたい。

  では、一体、この膨大な死者はなぜ生まれたのか。原因は、トルコ側が主張する、クルド民兵などによる殺戮、行進間の飢餓、喉の渇き、過労による死という偶発的なものなのだろうか。それとも、アルメニア側がこだわる、意図的な「絶滅政策」が存在したのだろうか。多くの歴史家は、「強制移住として始まった追放は、ロシア戦線の敗北との関連で、本格的な絶滅政策となった」という認識から出発する(die taz vom 21.4)。絶滅は意図しなかったが、それに近い結果を発生させたということだろう。90年前のアルメニア人の大量死に関して、トルコは、国として重大な責任を負っているといえよう。

  この問題に詳しいトルコの歴史研究者Taner Akcamは、トルコが「民族虐殺」を認め、犠牲者に補償する時がきたという(die tageszeitung vom 22.4) 。そしてトルコが、アルメニア人への不法、歴史的不正義を正面から認めて、犠牲者(遺族)に補償を行うべきであるとする。その際、トルコ国内やシリアのアレッポにある旧アルメニア人所有の土地などの返還を要求することは、国際法的に不可能である。では、どういうことが可能だろうか。最近、トルコ議会で、アルメニアとトルコの専門家からなる歴史委員会の設置がいわれている。双方が資料をすべて開示して、90年前の事実を丁寧に明らかにしていく。その共同作業のなかでこそ、和解も生まれるだろう。
  
ただし、重要な前提として、トルコが、アルメニア人への不法が行われた事実を認めることが重要である、とAkcamはいう。そして、EUから委任された委員会がこの活動を行えば、積極的な一歩になりうるともいう。当事者だけに任せると、歴史上の「恥部」であるため、都合の悪い事実を十分に解明できないという可能性もあるからだろう。

  先週、4月21日、ベルリンのドイツ連邦議会で、この問題が議論された。他国の、しかも90年も前の歴史的出来事が議会で議論されるのは異例である。この2月、ドレスデン空襲をめぐって「ねじれ」た議論が起こったことはすでに書いた。歴史の話題が続くのは、やはり節目の年だからだろう。
   90年前、ドイツはトルコと同盟関係にあった。アルメニア人の大量死に関連しては、フォン・ゼークト将軍などもコミットしており、ドイツも部外者ではあり得ない。すでにドイツの「記念日外交」について書いた、いま、ドイツ議会でなぜ「トルコの過去」が問題にされることになったのだろうか。これを読み説くためには、いろいろな背景を知る必要がある。第一義的には、トルコのヨーロッパ連合(EU)加盟問題がある。シュレーダー首相の与党連合はトルコの加盟に前向きだが、野党のキリスト教民主・社会同盟(CDU/CSU) は反対している。先週の議会討論も、さまざまな思惑が錯綜していることがわかる。野党の議員の演説を見ると、トルコを糾弾するのではなく、トルコが「過去」と誠実に向き合うことを求めている。そして、トルコとアルメニアの和解への貢献が重要だという点で、各会派とも違いはない。野党の趣旨説明でも、ドイツに住む4万人のアルメニア人とトルコ人との和解の重要性が指摘されている。だから、アルメニア人の大量死を「民族虐殺」であったかどうかという点の評価は、慎重に避けられている。それでも、トルコの在ドイツ大使は、先週の議会討論について、野党のCDU/CSUが「狂信的なアルメニア民族主義者の代弁者」になったと非難。トルコ外相は、ドイツ野党がこの問題を議会で取り上げたことを「トルコ史の中傷」だと反発した。だが、ドイツの「緑の党」のCem Oezdmir EU議会議員(トルコ系)は、「トルコはEU加盟までにジェノサイドを認めるだろう」との見通しを語った。トルコのEU加盟に反対する国々や政治家たちは、トルコが責任を認めることを加盟の前提条件として要求している。他方、トルコ政府にとって、このことを認めることは「政治的自殺」に等しいと受けとめられてきた。だが、トルコにも、「過去」を英雄の歴史としてのみ見るのではなく、暗い出来事とも向き合う、知的な人々が十分にいる(Die Welt vom 22.4)90年という時の経過のなかで、「冷たい沈黙の終わり」(Die Zeit vom 21.4) となるのかどうかは、予断を許さない。

  何十年たっても、被害を受けた側の記憶は消えない。被害を与えた側がその事実を忘れたり、あるいは無神経な発言をしたりする。被害を受けた側の怒りといらだちは、その言動や言葉そのものによって増幅させられ、世代をこえて継承されていく。これは不幸なことである。だからこそ、市民の「歴史への眼差し」が大事である。90年も前の出来事が、アルメニアの歴史教科書には150万ないし100万と書かれ、トルコではほとんど無視される。書かれても、「わずか」30万という形で少ない数字である。いずこの国でも、こういう数字の遊びはやめにしたい。一体、そこで何が起こり、誰が、どのように死んでいったのか。その死に対して、誰が、どのような責任を負うのかなどについて、当事者双方が一緒に、「真実和解委員会」のような歴史委員会を作って掘り起こしていく。こういう積み上げのなかでこそ、信頼関係も築かれていくのではないだろうか。
  
ネーション・ステート(国民国家)を過剰に背負った「国民」の対立があちこちに生まれている。グローバル化に対する「ナショナルなもの」のRestoration(復古)という側面もあるように思う。それぞれの国が、「過去」における誤りと向き合い、被害を与えた人々に対して誠実に対応していくことが求められているのである。