ドレスデンのねじれ
2005年4月4日

イツ東部、エルベ河畔の古都ドレスデン。14年前、ドイツ統一直後に東ベルリンに滞在した際、ザクセン州の州都になったこの町を初めて訪れた。夏の暑い日だった。道路のアスファルトがボコボコになり、靴の裏につく。教会は瓦礫の山。シュタージ(国家秘密警察)県本部だった建物は、塀から建物壁面まで、市民の怒りの落書きで、すごいことになっていた。瓦礫の教会というのは、聖母教会である。中世のマリエン教会に代わり、ゲオルゲ・ベアの設計により1726〜43年に建設された由緒ある教会で、プロテスタント教会建築の重要な一つとされてきた。その外観から「石の釣り鐘」といわれたドームの屋根も、空襲による火災で崩壊した。旧東独時代は、瓦礫の山のまま放置され、広島の原爆ドームや、西ベルリンのカイザー・ヴィルヘルム記念教会と同じような役回りを与えられていた。99年に再訪したとき、市内の様子は一変していた。聖母教会も、世界各国からの寄付で再建途上にあった。そして、いま、ノイマルクト広場に再びその美しい姿を見ることができるまでになった(最終的な完成は2006年)。かつての「反戦の象徴」は、いま「和解の象徴」とされている。ただ、旧東独時代の「反戦」にはバイアスがかかっていたが、それが昨今、さらにねじれてきた。今回は、この問題について書く。

ドイツが無条件降伏する12週間前、1945年2月13日夜から14日にかけて、イギリス空軍、RAF(Royal Air Force)の重爆撃機773機が二波にわたり、この古都に無差別爆撃を行った(写真)。22万の住宅のうち、7万5000が完全に破壊され、1万1000が重大な被害を受けた(写真は後掲書の見返しから)。35万人が罹災。死者は3万5000人にのぼる。イギリス空軍(RAF) 爆撃集団のアルツール・ハリス司令官のポリシーは、都市に対する無差別爆撃である。すでにRAFは1942年2月14日付の指令で、爆撃目標は常に都市の中心部とし、絨毯(じゅうたん)爆撃には焼夷弾を使用することを確認していた。ハリス将軍は、参謀たちが別のやり方を具申しても、あくまでも無差別・絨毯爆撃に固執したという。後にチャーチル首相は、ハリス将軍の無差別爆撃に再検討を求めたほどである。なお、ドイツではRAFという略号は、70年代にテロ活動を行った「ドイツ赤軍」(Rote Armee Fraktion) を指すから、2月13日前後にドイツの新聞各紙の空襲関連記事に「RAF」という略語を何度か見かけて、妙な気分だった。

さて、ドレスデン空襲をめぐっては、極右の動きとあいまって、さまざまな「ねじれた議論」が見受けられる。1月21日、ザクセン州議会で、アウシュヴィッツ強制収容所解放60周年(1月27日)とドレスデン空襲60周年を前に、ナチス犠牲者への黙祷を行うことになった。04年選挙で12議席を得たネオナチの国民民主党(NPD) は、ドレスデン空襲の犠牲者のみに黙祷することを主張し、議場から退席した。演説のなかでNPDの議員は、ドレスデン空襲に関連して、「アングロ・アメリカの大量殺戮」「爆弾ホロコースト」という言葉を使った。「ホロコースト」という言葉は、ナチス犠牲者一般には妥当せず、ユダヤ人だけが使える「特権的」言葉である。当然、ユダヤ人協会などが激怒。NPDの禁止提訴の動きに出るも、すでに一度失敗しているため、正面からの政党禁止手続には至らなかった。なお、2月13日、NPDは、約5000人のネオナチを集めてデモを行った。これに対しては、厳しい集会規制が行われた。

旧東独の社会主義時代、聖母教会は、「ナチスと米英帝国主義による破壊の象徴」だった。いま、極右は、もっぱら米英に矛先を向ける。「鬼畜米英」という点では、旧東独社会主義と、極右の主張は響き合っている。

米英軍によるドイツ都市への無差別空襲の問題は、戦争末期の旧東独地域、とくにベルリンにおける、旧ソ連軍による大規模な強姦・略奪と並んで、長らく正面から問題にされることはなかった。ドイツが空襲被害の面を強調すると、「アウシュヴィッツを相対化するものだ」との非難がかえってくる。だが、戦争が終わって半世紀以上が経過して、ナチスの暴虐とは別個に、米英による無差別爆撃を問題にする動きも出てきた。

『シュピーゲル』誌も何度か特集を組んできた。早い時期では1993年7月19日号の「ハンブルク空襲50周年」の特集記事(別刷)が、鮮烈な写真とともに印象に残っている。上記の写真は、2003年1月6日号の表紙だが、この号は本テーマに関する最も詳しい特集だった。

2002年に出版され、ベストセラーになったJ・フリードリッヒ『炎上』 (Jörg Friedrich, Der Brand――Deutschland im Bombenkrieg 1940-1945, 2002)は、この「タブー」に挑戦し、米英軍による都市爆撃の悲惨な実態とその狙いを明らかにしている。そもそも、ドイツでは、爆撃による犠牲者数すら完全に確定しておらず、曖昧である。犠牲者の死亡原因が、爆発や瓦礫の下敷きなどが5〜30%、熱風による火傷5〜15%、一酸化炭素中毒が60〜70%という指摘は興味深かった(Friedrich, a. a. O., S. 378)。日本の空襲犠牲者は黒こげの焼死体が多いのに対して、ドイツでは建物の構造上、頑丈な地下室に避難して一酸化炭素中毒死するケースが多かったようである。いろいろと参考になるところが少なくないが、ただ、この本には、ユダヤ人虐殺と、米英軍の「モラル爆撃」(市民の士気を挫く)とを等号で結ぶ記述が見られる。ドレスデンで多くの人々が焼け死んだことに、“Krematorium ”(強制収容所の人体焼却炉)という言葉をあてたりもしている。この本の「アウシュヴィッツ相対化」の視点はさまざまに批判されている。

そうしたなかで、ドレスデンの「犠牲者神話」から距離をとる議論もある。例えば、歴史家のフレデリック・テーラーのインタビュー記事がある(die tageszeitung vom 12.2.2005)。彼の立場を要約すれば、爆撃は道徳的に非難されるが、軍事的には一定の意味があったというものである。ドレスデンが正当な目標だったのは、交通の要衝だったことのほか、兵営や工場がたくさんあったから。7万人が軍需工場で働いていた。ドレスデン空襲はハーグ陸戦法規上、許される攻撃と許されない攻撃との限界線上にある。ドイツの無条件降伏の12週間前でも、軍事的に合理的な攻撃だった。アルデンヌでドイツ軍の攻勢もあり、戦争の早期終結のために、市民のモラルを破壊することに重点を置いたのは合理的という立場だ。空襲は5月まで続いたが、それは、軍事的に効果があったからではなく、軍事装置は、オイルタンカーのように機能するから、コース修正には多くの時間を必要とするなどとして、結局、爆撃は意味があったということを論証しようとしている。

1937年のスペイン内戦時、ドイツ空軍がゲルニカを空襲して市民多数を殺害したことは、ピカソの作品「ゲルニカ」によって、あまりにも有名である。ドイツ空軍はイギリスのコベントリーなどの都市を爆撃。その報復が、1943年のハンブルク空襲だった(34000人が死亡)。このイギリスの手法を米軍は日本空襲に応用したのであり、その中心人物がカーチス・ルメイ将軍だった。

もともと、野戦で正面から軍隊が衝突すると、双方の犠牲は大きい。空軍を使って、後方の都市(家族や産業がある)を破壊することで、敵国民と軍隊の士気を粗相させるというのは、有名な「ドゥーエ理論」である。都市を破壊すれば市民の士気が衰え、戦争の早期終結に向かうという発想である。だが、ドレスデン空襲では、消火活動が懸命に行われているところに、第二波の爆撃を行って、消火を妨害するなど、じつに執拗な攻撃が行われた。焼き尽くし、破壊し尽くすという手法である。これは、戦争の早期終結という目的からは合理的に説明できない。なお、こうした絨毯爆撃と都市の完全破壊のやり方は、約1カ月後の東京大空襲で実践された

戦争末期の無差別爆撃は、戦争の早期終結よりも、すでに始まった冷戦の手段だったという評価もある。「冷戦は、ドレスデンと広島の破壊で始まった。連合軍は、世界の分割をめぐって相互に対決した。一般市民は人質になった」という評価もその一つだろう(Mongolensturm, in: Die Welt vom 10.2)。そこから、西側占領地区になるべきドイツ西方の都市への空襲は7割破壊なのに、ドレスデンでは完全破壊を行ったのは、ソ連軍の占領下で使用できるインフラをあらかじめ破壊するのが目的だったという見方もある。だが、米英軍がそこまで明確な方針と戦略をもって、都市の破壊に差別化をはかっていたという証拠はない。後知恵的な説明のようにも思う。ドイツでも日本でも、戦争末期の空襲のなかには、「消化試合」的なものものあった(例えば、土崎空襲など)。

なお、2月15、16日、NHK衛星第一放送の「海外ドキュメンタリー」の枠で、北ドイツ放送(NDR) の作品「無差別爆撃の歴史――ドイツの都市は壊滅した」(2004年) が放映された。貴重な歴史資料がふんだんに使われていて、興味深かった。番組は最後に、1945年5月までにドイツ市民60万人が死亡し、700万人が家を失ったことを淡々と伝えていた。

大事なことは、「どっちもどっち」式の議論に陥らないことである。「たかが60万」のドイツの空襲犠牲者は、「アウシュヴィッツ」犠牲者の十分の一に「すぎない」ではないかという言説がそれである。もう一つは、ゲーリングのドイツ空軍がロンドンなどを空襲しているのだから、それに対する報復としてやむを得ないという見方である。第二次大戦でたくさんの命が失われたが、「たかが」いう命は存在しない。数の問題ではない。ロンドン空襲でも犠牲者がかなり出たが、米英軍によるドイツ都市への攻撃は執拗を極め、かつ大規模である。民間人の生活の場である都市を破壊し尽くすやり方は、戦時国際法(とくにハーグ陸戦規則)からも決して正当化できないだろう。ゲルニカ、重慶、ドレスデン、広島・長崎…。都市に対する無差別爆撃は、その根底的発想において間違っている。テーラーのように、懸命にドレスデン空襲の「合理的理由」を見つけやる必要もないし、フリードリッヒのように、ドレスデン空襲とアウシュヴィッツを過度に結びつける不自然さも問題とされるべきだろう。無差別爆撃(戦略爆撃〔前田哲男〕)の思想は、今日も、世界各地で「実践」されている。それは、「現在」の問題でもある。


付記:本稿は、2月28日掲載予定だったものだが、都合で今回UPする。

2016年8月21日追記:直言「ペギーダの「月曜デモ」――「ベルリンの壁」崩壊から27年(1)」でこの「直言」に言及したので、アクセスの増加を見込み、読みやすいようにスタイルを改めました。
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