ベルリンの「壁」から「石碑」へ  2005年5月23日

5月23日は、ドイツの場合、日本でいう「憲法記念日」である。56年前の今日、同じ月曜日に、ドイツ連邦共和国基本法が公布された(翌24日施行)。冷戦の結果、ドイツは東西に分断されたため、旧西ドイツの憲法は「憲法」(Verfassung)ではなく、「基本法」(Grundgesetz) という言葉を使った。ライン河畔の大学町、ボンで制定されたので、「ボン基本法」と呼ばれた。基本法は、基本法制定会議で、1949年5月8日(日曜)深夜11時55分に可決された。無条件降伏4周年の日が終わるギリギリの時間帯に可決に持ち込み、「二度とナチズムの誤りは繰り返さない」という強いメッセージを込めた。私は6年前、在外研究中のボンで「ドイツからの直言」を発信していたとき、「ボン基本法50周年」について注目して、何度か書いた。コソボ紛争でドイツが第二次大戦後初めて、 NATO軍の一翼を担ってユーゴスラビア爆撃を行っている最中だった。そして、私が滞在中に、連邦議会をはじめ、首都機能の大半がボンからベルリンへと移ったのである

  実はボンに滞在する8年前の1991年、私は東ベルリンに7カ月ほど滞在したことがある。その当時から、統一後の首都の中心に、巨大な「ホロコースト記念碑」を建立する計画が立ち上がっていた(1988年) 。記念碑はDenkmalというが、これはMahnmalといって、「記念」するというよりは「警告」というニュアンスが強い。ボン滞在中も、この議論は進んでいた。計画の全貌が見えるに従って、私はその構想に驚かされた。場所は、ベルリン中心部、ブランデンブルク門の近くに、無機質な石の塊を無数に並べるというのだから。

  1999年6月25日(金曜)、ボンの連邦議会は、「統一ドイツの首都にふさわしい施設が必要」という提案をめぐって対立した。そして、5回にわたる記名投票の末、党議拘束を解除して、各議員が自らの判断で投票した。その結果、慰霊の対象を「欧州ユダヤ人」に限定した記念碑の建設が決まった。ナチスは、ロマやシンティといったいわゆるジプシーや、同性愛者、障害者も殺していたので、その犠牲者も含めてほしいという声があがった。しかし、連邦議会は慰霊の対象を、欧州ユダヤ人に限定する提案を可決した。賛成312、反対207、棄権13。同じ政党の議員でも賛否は分かれた。苦渋の決断だった。

  アメリカ人建築家P・アイゼンマンの設計で、犠牲者の名前は刻まず、石碑をびっしりと敷きつめる計画が進行していった。だが、この建設には紆余曲折があった。建築着工式には、E・ディープゲン・ベルリン市長(当時)が欠席した。ベルリンは「恥辱の都市」になってしまう、というコメントがマスコミに流れた。市の最高責任者として、統一後の都市計画全体との関係で、この一等地の使い方には、やはり抵抗があったのだろう。ナチス犯罪に関連した記念碑は、ベルリン市内の各所にある。なぜ、いま、この一等地に石碑を敷きつめるのか。慰霊の仕方、追悼の方法にはいろいろあるのであって、ベルリン中心部の使い方として、これではあまりにも痛々しい、ということだろう。
  
その後、2003年になって、石碑の表面の塗装(落書き防止)工事を請け負った業者の「過去」が問題になった。関連会社の一つが、ナチス強制収容所のガス室で使われた毒ガス「チクロンB」の生産に関わっていたからだ。大騒ぎになったが、この業者は建設過程から排除されることはなかった。時代を生きたドイツ人の「過去」に遡及すれば、どこかでナチスとの接点がみつかる。「過去の克服」のむずかしさがある。

  今年5月10日(火曜)。17年間の長く激しい議論の末、ホロコースト記念碑が完成。その除幕式が行われた。連邦議会議長W・ティールゼが演説し、この記念碑は「ドイツ史最大の罪の告白にあたる」と述べた。この議長は東ベルリン出身で、私のボン滞在中も議長をやっていた。人気はないが、何度も再選されて任期は長い。髭の多い重厚な顔つきと重々しい言葉のわりに、演説の中身は意外に空疎なのが特徴的である。6年前の着工式での演説も、今回の演説も「懺悔するドイツ」を印象づけるのだが、1985年のヴァイツゼッカー大統領の歴史的一回性の演説のインパクトに比べるべくもない。

  ブランデンブルク門に近い一等地19000平方メートルには、いま、2711基の石碑が等間隔で並ぶ。幅95センチ、長さは2メートル38センチ。高さはまちまちで、低いものは1メートルに満たないが、最大では4メートル70センチもあるという。約39億円の建設費は税金でまかなわれた。上の写真は水島ゼミのゼミ長が5月にドイツで撮影したものである。この記念碑の近くにはブランデンブルク門、その向こうには連邦議会、議員会館、首相府などがある。門の前のパリ広場には、フランスとアメリカの大使館。ウンター・デン・リンデン大通りを東に少し歩くと、右側に巨大なロシア大使館(旧ソ連大使館)、その少し先を左に入ったところにイギリス大使館がある。第二次大戦後にドイツを占領した4カ国の大使館の場所は、破格の一等地である。アメリカ大使館に至っては、1999年、警備上の都合(「ロケット砲に狙われるから」)を理由に、大使館前の通りを一車線にするように要求。ディープゲン市長(当時)を激怒させたことをよく覚えている。都心の超一等地に、今度は欧州ユダヤ人の巨大な石碑群。先週、イスラエルの外相(副首相)が訪れ、満足そうだった。外相は、見学のあとの記者会見で、パレスチナ民衆への攻撃を正当化した。ユダヤ人が作ったイスラエルという要塞国家が、現在進行形で行っている蛮行を思うとき、何とも複雑な気持ちになった

  この記念碑の評価はまちまちである。ベルリンの地元紙の解説記事にはこうある。シュレーダー首相は「人が好んで行く場所」と記念碑を歓迎したが、ティールゼ連邦議会議長にとっては「気楽な記念碑」にはならないし、歴史家のイェッケルは「空虚な墓碑」と語ったことを紹介しつつ、「かさ高のモニュメントは、国家が担う国民的記念碑としてほとんど役に立たないだろう」と結ぶ(Der Tagesspiegel vom 4.5.2005) 。左派系のtageszeitung紙は「人が好んで行く記念碑か?」という特集を組んだ(taz vom 10.5)。「国の中心地に作られた、自分の罪を想起する、世界的に一回性の標識」「自分の悪行をかくもはっきりと象徴化した国民はいなかった」等々。保守派は、ここに、長らくドイツの「正常化」を妨げてきた「マゾヒズム」(自虐)を見て取る。他方、これは古い発想だとし、「正常化」とホロコーストの想起は対立物ではないという積極評価もある。ユダヤ人中央評議会議長は、「忘却に対する戦いにおける必要な警告」と評価する(FR vom 11.5) 。地下に作られた「情報の場」(Ort der Information) には、イスラエルのJad Maschemホロコースト記念館から集めた犠牲者800人の写真などが掲げてある。これは、犠牲者が「匿名の数」ではなく、生きた具体的な人間、「個人」であったことを示すものだという。「個人」の名前と短い生活データ(年齢、職業、家族、死亡の状況)がついている。600万人は抽象的な数字ではない。46歳の展示責任者はそう説明する(taz vom 10.5

  「過去」を「思い起こす」とはどういうことだろうか。先週の「直言」で、中国の「反日デモ」について書いた際に指摘したことは、ここでもあてはまる。この記念碑の存在の仕方(場所、面積、外形…)は、自然な形で「過去」と向き合い、「思い起こす」ことに資するだろうか。私がこの記念碑のコンセプトに違和感があるのは、去年の連邦議会の議論のなかでも指摘されていたことだが、慰霊と追悼の対象を、なぜ、欧州ユダヤ人に限定しなければならなかったのか、ということである。ロマやシンティ、同性愛者や障害者、政治犯など、ナチスの犠牲者すべてを慰霊するという形にできなかったのか。欧州ユダヤ人の犠牲者にこだわる、頑な態度と物言いが反発を招いたことは否定できない。「被害者の差別化」である。
  救われるのは、地上の石碑群は匿名性で一貫しているが、地下の「情報の場」の展示では、600万人中の800人の「人生」を感じさせるコンセプトである。「600万人のユダヤ人」という数ではなく、生きた「個人」への眼差しがこの「地下」にはあるようである。この地下施設の評価は分かれている。私もまだ現地に行って直接見ていないのでなぜこの800人が選ばれたのか、その基準などはわからない)、地上と地下のバランスやその組み合わせが成功しているのかどうかなど、全体的な評価は差し控えたい。ただ、「数」で語るのではなく、生きた「個人」に語らせるという視点は重要だろう。顔が見える距離で交流し、知り合ってしまった人たちは殺し合いができない(E・M・レマルク原作『西部戦線異状なし』の映画で、主人公が銃剣で刺したフランス兵が息たえるまでの「長い時間」を想起せよ)。
  
そこで思い出したのが、ボン滞在中に書いた直言「185枚の証明写真」である80万人といわれたコソボ難民のうちから26000人の証明書用写真をひたすら撮りつづけた2人の写真家がいる。ここに掲げたのは、彼らが撮影した26000人のうちの185人分の写真を並べただけのもの。家族や知り合いを殺され、命からがら国境を越えて逃げてきた直後に撮影されたものだ。カメラを向けられると思わず微笑んでしまう。どんなにひどい状況でも、人はカメラを向けられると微笑んでしまう。何ともせつない。数字だけの難民像からは想像できない、一人ひとりの生きた具体的な人間、表情豊かな「個人」がそこにいる
  
同じことは、原爆被害のとらえ方についてもいえる。2002年にNHK広島放送局が制作した「『爆心地猿楽町復元』〜ヒロシマの記憶〜」は、消滅した町の暮らしを細部にわたって再現する試みである。コンピュータ・グラフィック(CG)の発達が大きい。NHKに先行すること何年、2000年6月、広島の新聞『中国新聞』は、平和公園になっている旧中島町の復元を記事上で行っていた。一つひとつの地番を掘り起こしていく。そこに「誰」が住んでいて、その隣に「誰」が住み、どんな「店」があったのか。爆心直下に生活していた「住民」を描く手法である。そして、別刷の裏面で、そこに住んでいた人々の顔を並べている。拡大してみれば、おかっぱの女学生がいる、小学生がいる、赤ちゃんがいる…。原爆で一瞬のうちに命を奪われた「住民」の顔がそこにある。広島で「何人死んだのか」ではなく、「誰と誰が死んだのか」という視点で、毎年8月6日に原爆死没者名簿が更新されている。60年目の今年も。そして、これは長崎でも、東京大空襲の東京下町でも、さらにはアジア各国の町々でも同じことがいえる。
  
かけがえのない人間の命を「個人」に置き換えて、いとおしく思う気持ちが大切である。「個人」の命に対する想像力の源泉は、体験をしていない出来事も想像して、「思い起こす」ことだろう。ベルリンの2711の無機質な石の群は、有機的な人々の心をつかめるだろうか。

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