どこが「新憲法」なのか  2005年11月7日

11月3日の憲法公布59周年に大阪で講演した。この2カ月間、福岡や東京、神戸、大阪と、弁護士会関係の講演が続いたが、今回は「11.3憲法集会実行委員会」という市民団体主催だった。参加者に資料として配布された自民党「新憲法草案」(『朝日新聞』10月29日付)を使って、詳しく検討した。「第1次案」が出た直後の8月の直言でも一度取り上げたし『軍縮問題資料』2005年10月号にも掲載されたので、繰り返しを避けるという意味で、やや「トリビア」な点も含めて、今回気づいた点を中心に述べていくことにしよう。

  「新憲法」という言葉は、年輩の方には独特の響きをもつだろう。戦後、大日本帝国憲法に対して、人権、国民主権、平和主義の日本国憲法のことを、人々はそれぞれの思いを込めて「新憲法」と呼んだ。私の学生時代、制定から30年近くたっても、なお「新憲法」と呼ぶ先生がいた。ご自身の学生時代の授業は、大日本帝国憲法でやっていたわけだから、日本国憲法のことをずっと「新憲法」と呼び続けても違和感はないのだろう。

  自民党は来週、11月15日に結党50周年を迎える。結党以来の党是である「自主憲法制定」との関係で、10月28日に公表された「新憲法草案」は、自民党内部ではどのように評価されているのだろうか。そこには、結党50年を迎える自民党の提示するこの国の未来や、理想とする「国のかたち」を描く熱き理想や理念の表出はまったく見られない。起草者本人ですら、胸をはって「これが新憲法草案です」といえるだろうか。前にも書いたが、自民党らしく、その信ずる理念と目標を正面から掲げ、国民に問題提起をすべきであった。その意味では、どのような自民党らしい前文が出てくるのか、この2カ月あまり待っていた。このたびの前文付き「新憲法草案」を見て驚いた。その前文は、あまりにもそっけなく、無味乾燥な内容だったからだ。政党の憲法草案というものが、ここまで自らの主張を抑制してしまっていいのか。結党50年の自民党のアイデンティティはどこへいったのか。「新」憲法草案というならば、党是であった「自主憲法」なり、自民党のアイデンティティがもっと濃厚に投影したものになるのが自然である。一つの政党の草案がそのまま憲法になるわけではなく、各党とのすり合わせ、最終的な妥協で国会が発議する草案になるわけであって、自民党案の段階で過度に自己の主張を控える必要は本来なかったはずである。なのに、ここまで自民党自身の主張や理念を抑制したのはなぜか。やはり小泉首相の「即断」があったからに違いない。
  
国家主義者というよりは「国家趣味者」。靖国参拝についてもしかり。もともとあまり参拝しなかった彼が、首相になる時、妙に張り切って、「8.15にはどんなことがあっても参拝します」と叫んでしまった。「英霊の政治利用」という声もあるほどだ。また、日本の首相がドイツ首相とワーグナーのオペラ(ヒトラーが好んだ)を鑑賞することの「歴史的意味合い」にまったく無頓着な彼のことだから、すべては自分の思うままである。結党50年の「新憲法草案」の大切な前文ですら、一夜漬けの答案のようなそっけない文章に改ざんするのもお手の物だろう。ブッシュ政権の期待どおりに、とにかく憲法9条を変える。あとは96条の改正手続さえ緩和しておけばどうにでもなる。こうした安易で簡易な、戦術的配慮だけの発想で、結党50年をアピールする理念型の前文を「捨てた」のだろう。

  では、実質は現行憲法の改定案であるものを「新憲法草案」と称するのはなぜか。それは憲法改正国民投票法案の規定の仕方を先取りしたからではないか。つまり、国民投票において、個々の条文ごとに、逐条的に賛否を問うのか、一括で問うのかという点は、国民投票法案の議論の核心をなす。もし一括方式をとれば、9条2項の削除と環境保護条項の新設等について一度に判断することが求められる。つまり、国民投票に向けた議論のなかでは、「9条2項の削除に賛成するのか」ではなく、「あなたは環境保護条項を入れることに反対なのですか」という迫り方が可能になる。あたかも、「郵政民営化に賛成か、反対か」の「国民投票」に歪められた「9.11総選挙」のように。そこで、この「新憲法草案」の問題点を、さしあたり4点だけ指摘しておこう。

  まず第1の問題点は、すでに述べたように、前文の「簡素化」である。『朝日新聞』10月7日付が「原案の骨格判明」という形で抜いた美文調の「原案」とはうってかわって、抑制された筆致の、著しく無味乾燥なものになっている。中曾根前文起草小委員長のもとで作成された「原案」は、「日本国民はアジアの東、太平洋と日本海の波洗う美しい島々に、天皇を国民統合の象徴として古より戴き、和を尊び、多様な思想や生活信条をおおらかに認め合いつつ、独自の伝統と文化を作り伝え多くの試練を乗り越えて発展してきた」という重々しい文章で始まる。その「原案」が短期間で、ここまでそっけないものに変えられたこと自体が「サプライズ」だった。中曽根氏は「(前文から)日本の歴史、文化、伝統、国柄が完全に抜けている。そういう不満が爆発的にあった」と声を震わせたという(『東京新聞』10月29日付)。党内の「爆発的」な不満が残ったことは、今後の不確定要因である。
  
「草案」前文のなかで、「象徴天皇制は、これを維持する」とある。これは保守勢力からすれば、何のことだと批判がでよう。自民党の立場に徹すれば、「自主憲法」の前文である以上、もっと高い理念と文体によって、象徴天皇制をきちんと基礎づける必要があったように思われる。それに、「維持する」という表現では、「男系男子」の世継ぎがいない「悩ましい」状況のもとで、制度存続の気持ちが思わず滲み出てしまっている。「維持する」は、憲法前文という場で使う言葉ではない。国民主権などを「不変の価値」と呼んでいるのも問題だろう。日本国憲法前文には「これは人類普遍の原理であって」とある。「不変」は「可変」でないことを意味し、普遍性という意味での「普遍」とはだいぶニュアンスが異なる。また、愛国心が入っていたのを削除して、「帰属する国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支え守る責務」という形になっている。愛国心や「国を守る義務」とストレートにうたうことを回避して、ここまで薄めたのはいいが、国だけでなく、社会も同じ程度に「支え守る」というならば、「愛国心」と「愛社心」になるのだろうか。でも、「愛社心」だったら、結局、企業を愛せになってしまわないか。愛国心がどうのといわれないために、あわてて「帰属」「社会」とつくろってみたものの、一夜漬けのあとは否めない。

  第2は、9条改定の「簡素化」である。8月1日の「第1次案」では、9条は全部で10項からなっていたが、今回は現行憲法9条1項をそのまま維持した上で、9条の2として4項を置くにとどめ、「第1次案」のように9条の2、9条の3という形で混在していたのを整理したようである。特に、「自衛軍」が「我が国の基本的な公共の秩序の維持のために活動を行うことができる」という規定は、「軍」が警察の権限事項に安易にコミットする可能性も出てくることから、今回は「緊急事態における公の秩序の維持」に限定しようとしている。ただ、「又は」で「国民の生命若しくは自由を守るための活動」という形で、「軍」がさまざまな領域に進出する余地を残している。すべて法律の定め方次第である。部内では、「自衛軍」ではなく「国防軍」とすべきだったという意見があると聞く。いずれにせよ、「軍」とさえ規定すれば、国際法規・慣例に従うことなど、いちいち憲法に書き込む必要がないという理解だろう。とにもかくにも、戦力不保持と交戦権否認の9条2項を削除して、軍事的合理性を貫徹できる憲法に転換すること。ここに「新憲法草案」の8割以上の狙いがこめられている。
  
なお、「新憲法草案」76条3項の軍事裁判所の規定は、自衛隊を「軍」にすることに伴う長年の念願だったが、「下級裁判所として」という「蛇足」的な一言によって、不徹底なものになってしまった。現行憲法76条2項が特別裁判所の設置を禁止したことから、通常の裁判所の系列にあるというイクスキューズが必要だった。だが、「新憲法草案」というならば、現行憲法に過度に遠慮して「下級裁判所として」という文言を入れることもなく、戦前のように一審・即決・非公開とまではいかないが、少なくとも高裁、最高裁に上訴可能な規定の仕方をする必要はなかったのではないか。ここに「新憲法草案」といいながら、十分な検討をしていない手抜きのあとがうかがえる。

  第3のポイントは、人権条項の思いつき的追加である。①障害の有無により差別されない権利(「新憲法草案」14条1項)、②個人情報の保護(同19条の2)、③国政上の行為に関する説明の責務(同21条の2)、④国の環境保全の責務(同25条の2)、⑤犯罪被害者の権利(同25条の3)、⑥知的財産権(同29条の2)である。①そもそも「障害」という言葉の妥当性、それを憲法に持ち込むことの安易さが問題とされるべきだし、③「国政上の行為に関する説明の責務」というのを「知る権利」、④「国の環境保全の責務」を「環境権」という形で報道するのは安易すぎる。「知る権利」や「環境権」の矮小化にもつながる。②の小見出しもあくまでも「個人情報の保護」であって、「プライバシー権を明記」(『読売新聞』11月5日付)といえるかどうか。憲法規定を直接の根拠として訴訟上請求しうる(個人の)「権利」〔具体的権利〕と、直接に個別具体的な「義務」の生じない(国家の)「責務」〔努力目標・プログラム規定〕の差は大きい。「犯罪被害者の権利」や「知的財産権」に至っては、これは憲法の人権条項に入れるべき筋合いのものではないだろう。憲法の人権条項というのは、やたらと何でも放り込むと、人権相互の調整が困難になったり、また、法律で定めることが適切な事項を憲法に入れたために、かえって別の人権の制約につながったりする問題もある。今回は入っていないが、プライバシー権の規定の仕方によっては、報道の自由、表現の自由との関係で問題を生ずる可能性もある。だから、憲法に人権に関する項目を入れるのには慎重さが求められる所以である。この6つの追加は、憲法改正国民投票の際の「アメ玉」であって、むしろ、「公共の福祉」を「公益及び公の秩序」(同12、13条)に改変することの方が重大である。人権と人権が衝突した際の調整原理としての「公共の福祉」が、最初から「公益」や「公の秩序」という形で、所与の制約原理として作動する仕掛けができる。「自衛軍」の規定と連動させれば、軍事目的による人権制約も憲法上可能となる。
  
「自衛軍」が海外で「戦死者」を出した場合を含め、首相や閣僚が靖国神社との関わりあいをもつことに憲法上のクレームがつかないよう、「新憲法草案」20条3項は「社会的儀礼又は習俗行為の範囲を超える」宗教的活動という形で、「いかなる」宗教的活動も禁止した現行憲法の「規制緩和」をはかろうとしている。それに続けて、最高裁の津地鎮祭訴訟判決での「目的・効果基準」をそのまま取り込み、政教分離の相対化を補強している。これも思いつき的な、安易な追加である。「新憲法草案」89条1項は、同20条3項の「規制緩和」を受けて、宗教団体への公金支出についてもハードルを低めている。
  
なお、「新憲法草案」18条2項は、奴隷的拘束と「意に反する苦役」とを項を分けて区別し、後者には、「犯罪による処罰の場合を除いては」という条件を付けている。長年にわたり政府は、徴兵制の違憲解釈の根拠としてこの箇所を挙げており、「意に反する」苦役を限定しようとする意図がうかがえる。このように現行憲法18条を分離する狙いは、単に徴兵制のオプションに対して違憲解釈の余地をなくすということにとどまらず(むしろ、今日の軍事情勢からいえば、一般兵役義務制は歴史の舞台から去りつつある)、自衛隊法103条の業務従事命令の範囲や対象を拡大するなどして、多様な軍事負担を国民に課す狙いが含まれていよう。

  第4に、やや「トリビア」に属する問題について。すでに指摘したように、9条2項の削除と並んで、この「新憲法草案」の最大の狙いは憲法改正手続の緩和にある。国会の発議段階で、「各議院の総議員の3分の2以上の賛成」というハードルを、「各議院の総議員の過半数の賛成」に緩和している(「新憲法草案」96条1項)。改正手続のハードルを下げることは、憲法改正の「重さ」に関連する重大な問題を含む。このことはすでに前掲『軍縮問題資料』読売改憲試案批判の際に指摘した。ハードルという点に関連して、「新憲法草案」56条2項には何とも不思議な改定がある。現行憲法56条1項は、「両議院は、各々その総議員の3分の1以上の出席がなければ、議事を開き議決することができない」。つまり、定足数を割った場合、急いで「外出中」の議員を呼び戻さなければならない。その間、会議は中断する。「新憲法草案」56条2項は、「両議院の議決は、各々その総議員の3分の1以上の出席がなければすることができない」に改変されるが、その効果は、議決の際に3分の1以上がいればよく、会議自体は中断しなくてすむということだろう。議事と議決の双方の要件だった「総議員の3分の1」を議決時に限定することは、何が狙いなのだろうか。まさか会議中に女性議員たちが国会内の美容院に行きやすくするためではなかろう。2年前に参議院の憲法調査会に招致されたとき、議員たちの出入りの激しさに驚いた。「学級崩壊」を指摘する向きもあった。いくら委員会の掛け持ちが多いからといって、定足数のハードルという基本的な箇所を、政治家の事情で緩和してしまうというのはいかがなものだろうか。「新憲法草案」のこの箇所は、政治家たちの緊張感のなさを露呈したものとはいえまいか。
  
最後に、「トリビア」的に気になるのは、第8章「地方自治」が91条の2という枝番で始まっていることだろう。91条は財政状況の報告の規定であり、その枝番として、「地方自治の本旨」の定義が行われている。枝番は、条文を繰り下げることなく、新たな条文を加えるときの立法技術として使われるものだが、「新憲法草案」というならば、そしてその形式美からすれば、大切な地方自治の章が、枝番で始まるというのはいかがなものだろうか。91条の2で「その負担を公正に分任する義務を負う」という形で住民負担を明確にし、他方、92条で、国と地方自治体との「適切な役割分担」と「相互の協力」を入れることによって、地方「自治」の内実を憲法であらかじめ低く設定しようと意図されたものだろうか。国と地方自治体とでは財政面でも権限面でも対等ではないのに、憲法で「相互の協力」をうたえば、力関係の優劣は明白だろう。
  
ほかにも、「新憲法草案」には指摘したいことがあるが、このくらいでやめておこう。

  本日、11月7日から、衆院憲法調査特別委員会(中山太郎委員長)の7人の委員が、約2週間の日程で、スイスやフランスなどヨーロッパ5カ国に向けて出発した。国民投票の仕組みを視察するというのが目的だという。それぞれの国がいま、国民投票の真っ最中ならまだわかるが、関係条文を見たり、担当者のインタビューをしたりする程度なら、日本にいてもできることである。それこそ税金の無駄遣いだろう。
  
公明党幹部は、「将来に禍根を残す拙速な議論」を戒める発言をしており、来年秋には公明党の「加憲案」を提出するという。その際、「9条1項、9条2項を堅持する」というから(『朝日新聞』11月6日付)、9条2項を削除した自民党との関係は決して一枚岩ではなく、曲折が予想される。
  
小泉首相の政治手法が濃厚に反映した、ご都合主義的な「新憲法草案」になったことは、今後の改憲論議において、別の効果を発生させていくかもしれない。もっと洗練された、自民党らしい前文をもった草案になっていたら違った展開になっていただろう。その意味での「新しい」効果に注目したいと思う。

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