読売改憲試案の勘違い 2004年5月10日

月3日の全国憲法研究会「憲法記念講演会」で講演した。900人という多数の方に来ていただいた。この講演会は、学会運営委員としての裏方的な立場からも成功させねばならないと取り組んできたので、正直ホッとしている。この場を借りて、参加された皆さんに感謝申し上げたい。
   さて、講演当日、『読売新聞』は一面トップから総合面、特設面あわせて計8頁を使った「読売新聞社・憲法改正2004年試案」を公表した。私は、講演内容を大幅に変更して、この「読売改憲試案」についてコメントした。
  読売新聞社は、1994年11月3日に「読売改憲試案」を初めて公表した。これについては、その当日、星陵会館(東京・永田町)で開かれた日本ジャーナリスト会議主催の講演会でコメントした(その発言内容全文はJCJ編『日本への心配と疑問』高文研〔1995年〕所収)。そのあとすぐに、『法学セミナー』1995年1月号に「読売『憲法改正試案』にもり込まれた危険な意図」を書き、より詳しく批判した(拙著『武力なき平和』岩波書店所収)。当時、憲法学界の主要メンバーのなかでは、「試案」はことさらにコメントするに値しないという空気が強かったが、私はあえて発言を続けた。2000年5月3日の第二次試案にについては、この「直言」でも触れた。今年5 月3日の第三次案は、最初の試案から約10年というタイミングで公表され、読売の改憲案としては一応の「完成稿」と言えるものである。この日の社説は「『新憲法』を政治日程に乗せよ」と題して、「読売試案もたたき台に」と自画自賛している。新聞社が紙面を「私的」に利用してここまでやるか、の世界である。思わず顔が赤らむほどである。ここで「読売改憲試案」の問題点を、第一次案から第三次案まであわせて概括的に3点指摘しておこう。
  問題点の第一は、権力制限規範としての憲法の基本的特質を限りなく緩和・縮小しようとしていることである。端的に言えば、「権力にやさしい憲法」への改変がはかられている。それは次の5点に示される。まず第1に、国家権力担当者に憲法尊重擁護義務を課した日本国憲法99条を削除して、「試案」前文で「この憲法は、日本国の最高法規であり、国民はこれを遵守しなければならない」と定めたことである。ここには、憲法というものに対する「試案」執筆者たちの姿勢ないしスタンスが集中的に表現されている。だが、これは大いなる間違いである。憲法は「国民みんなで守る最高法規」では断じてない。第一義的に権力の暴走をチェックするための権力制限規範という点にこそ、憲法の存在意義がある。「国民の遵守」も一歩進めれば、「憲法忠誠義務」にまでいきかねないだろう。第2に、「国の安全」「公の秩序」「公共の利益」によって人権の包括的な制約が可能にされていることである(「試案」17条)。日本国憲法12条は、国民に対して「自由及び権利の保持責任」を求めている。これは国民には憲法尊重擁護義務を課さないかわりに、自由や権利を守り、発展させる自覚を持ち続けることを期待したものと言える。権力には憲法遵守を、国民には自由・権利への自覚を求める。ところが、読売試案は、この自由・権利の保持責任の意味を逆転させ、「公の秩序」などの一般概念を羅列して、要塞のような人権制限条項を仕立てようとしている。第3に、国会に対して、「国民の代表機関として、国政の適正な運営を図る」(「試案」52条2項)ことを求めている。この下りは第三次案で入ったものだが、日本国憲法41条の「国権の最高機関」を削除して、政府(内閣)の国政運営に協力せよと言わんばかりの調和条項である。時には野党の抵抗で「国会が止まる」という事態が起きることを先回りして除去しようとする姿勢がうかがえる。第4に、地方自治体と住民に対して「自立と自己責任を原則とする」としつつ、ご丁寧に、「国と協力して」の一文も挿入している(111条)。「自己責任」という言葉が昨今、どのように機能しているか。その美しい言葉とは別筋の怪しい意味合いは、読者の皆さんもお感じになっていることと思う。ことさら自己責任と国への協力をうたう「憲法」のもとでは、中央政府のさまざまな統制・操縦が可能となり、地方自治の創造的発展は期待できないだろう。第5に、憲法改正条項のハードルを著しく下げたことである。日本国憲法96条では、衆参両議院の総議員の3分の2(66.6%)と国民投票の過半数である。「試案」は二つの道を示す(116条)。まず、各議院の在籍議員の3分の2以上の出席で、出席議員の過半数の賛成(33.3%)と国民投票(有効投票)の過半数のセット。もう一つは両院の在籍議員の3分の2以上の出席で、出席議員の3分の2以上の賛成(44.4%)である。後者は「前項の規定にかかわらず」となっているので、特別の事情は憲法上要求されない。憲法を変えたいときはどちらの道もOKとなると、面倒な国民投票を省略した後者が常態化するだろう。とすると、国会議員の半数に満たない数で憲法改正が可能となる。これでは他の法律に対して重みを感じない「軟弱憲法」になってしまう。

  問題点の二つ目は、「軍事の論理」ないし軍事的合理性を全体に貫こうとしていることである。まず第1 に、第一次案では「自衛のための組織」とやや引けた定め方だったが、第二次案では「自衛のための軍隊」と言い切った(「試案」12条)。第2に、大量破壊兵器に関する規定を置いているのだが、そこには仕掛けがある。製造・保有・使用の禁止をうたうが(「試案」11条2項)、実はこれは「非核三原則」の「持たず、作らず、持ち込ませず」の三つ目を巧妙に外して、「非核二原則」の憲法規範化をはかるものだろう。今も昔も焦点になるのは、核持ち込み・核配備と核積載艦船の領海通過・トランジットである。「試案」は、米軍の核持ち込みOKを憲法で内外に宣言するのと同じ結果となろう。第3に、「国際協力」のところで軍事的紛争や国際テロリズムを入れ、国連以外の「国際的な共同活動」に軍隊を派遣できるようにしている(「試案」13〜14条)。湾岸多国籍軍からイラク連合軍に至るまで、米軍が求めるすべてのオプションに応えられる規定にしてあるのがミソである。第4に、日本国憲法18条(「意に反する苦役」)を削除して、「国民は、第一項の軍隊に、参加を強制されない」とさりげなく定めている(「試案」11条3 項)。徴兵制は世界的に見れば風前の灯火で、ドイツでも廃止へのカウントダウンに入っている(米国で「復活」の声が突然あがったとはいえ)。日本でも徴兵制は有効ではないし、現実的可能性はほとんどないから、「試案」は「軍隊への参加強制」だけを禁止して、「有事法制」に基づく国民の「防衛負担」(国民の軍事協力)への道をおおらかに開いたと見ることができよう。読売好みの緊急事態規定はてんこ盛りだから(「試案」89〜91条)、「有事」措置において、政府は憲法をまったく気にする必要はなくなるわけである。第5に、日本国憲法76条2項の特別裁判所設置の禁止を削除して、「特例の裁判所」の設置禁止にした(「試案」92条2項)。特別裁判所が軍法会議を意味することは広く知られ、政府も軍法会議の設置は不可能と考えてきたが、「試案」の「特例の裁判所」という定め方からすれば、例えば、自衛隊の法務関係者が参加した東京高等裁判所防衛部の設置は可能となろう。つまり、実質的な軍刑事裁判所である。軍法もなく軍法会議もない「いびつな軍隊」とされてきた自衛隊が、ようやく「試案」によって「普通の軍隊」としての実質をもつわけである。だが、これが多くの自衛隊員にとって幸福かどうかは別問題であるが。

  「試案」の三つ目の問題点は、個人や家族、社会のありように対する過度な方向づけ(オリエンテーション)がなされていることである。一般に憲法は、権力の制限、つまり制限引き機能を第一義とするが、何らかの指導理念やプログラムを示し、将来に向かって政治過程や国家作用を方向づける方向指示機能もある(Vgl. G. F. Schuppert/Ch. Bumke, Die Konstitutionalisierung der Rechtsordnung, 2000, S. 25f.) 。だが、「試案」の発想が権力制限機能を限りなく縮小していく反面、社会や家族のあり方について「お節介」的な規定をいくつも置いている。憲法は家族や社会のあり方などに細かく口を出さない方が本来の機能を果たせると思うのだが、「試案」は能弁・多弁である。まず第1に、家族のあり方に対する規定を置いている(「試案」27条)。第三次案の目玉とされたものだが、ことさらに「家族の再構築図る」と力むわりには内容が乏しい。これは、犯罪被害者の権利やプライバシー権、知的財産権保護、環境権など、話題を呼びそうな美味しいネタを思いつくままに並べたという印象が強い。「試案」全体から見れば、「鎧の下から見える衣」程度の意味しかないように思う。第2に、生存権条項に、「自己の努力」を明記した狙いは明白だろう(「試案」28条)。日本国憲法25条の生存権をめぐる訴訟のなかで、裁判所は国の立法裁量を広く認めていく傾向にあるが、初期の地裁判例では生存権の権利性を認めるものもある。もし、生存権に自助努力や自己責任を明文化すれば、社会保障分野における訴訟は実質的には起こせなくなる。「試案」前文が「個人の自律」「自由かつ活力があり、かつ公正な社会」というのは、響くこそ美しいが、現在行われている新自由主義改革の目指す社会のありようを示唆するものである。「勝ち組」にはどこまでも便利で、「負け組」には冷たく退場を迫る「強者の憲法」である。第3に、生命倫理に関する規定を置いたことである(「試案」29条)。こういう分野の問題は、憲法で定めるのが妥当なのかどうか。一般の法律にする際にも慎重な議論が求められるのに、安易に憲法条文化するのは無意味以上に有害ですらある。科学技術の発展と人権の問題は、現行の憲法のもとでもさまざまな角度から議論が必要であり、安易な憲法条文化は拙速でしかない。第4に政党条項である(「試案」3条)。国民主権の章に置かれており、憲法条文としての構成上も問題がある。政党はもともとは社会に根をもち、国民の政治的意思形成に協力しつつ、重要な国家機関にコミットする。純粋な結社でもなければ、国家機関そのものでもない。その意味で、憲法が政党をどのように規定するかは民主主義の発展にとって重要な意味をもつ。「違憲政党の禁止」のような「たたかう民主制」的な規定は自粛したようだが、政党の「憲法的編入」とその仕方については慎重さが求められる所以である(40年前の憲法調査会では両論併記だった)。以上、個人、家庭、社会のありように関わる部分について、国家的な方向づけをはかっている。生存権に見られるように、自助努力や自己責任をまず求めたり、家族のあり方まで憲法に定めて国がコミットするというのは、個々的に見ればよいことのように見えても、「試案」全体の「鎧」から見れば、単なる「衣」ではすまない。本来自由にすべき領域に過剰な国家介入を惹起し、本来救済すべき分野については放置する。「小さな親切、大きなお世話」というよりも「小さなお節介、大きな害悪」の方向に向かう可能性が高いと言えよう。

  なお、以上三つの問題点とは別に、「試案」が思いつき的に条文化した結果、無用な混乱を来している箇所をいくつか指摘しておこう。水島ゼミのホームページ掲示板で議論されていたことを紹介する。まず、「試案」70条5項に関わる問題である。衆議院が可決した法律案を参議院が否決した場合、一定の手続を踏んだ上で、衆議院が3分の2の多数で再議決した時、衆議院の議決が「国会の議決」となる。「試案」はこの再議決要件を「過半数」に下げた。ある学生はこれを、「国会単独立法の原則」ならぬ「衆議院単独立法の原則」に近いと批判している。こんな憲法ができたら、参議院不要論がますます高まるだろう。次に、「試案」73条。「参議院の優越」とやらで、特定の案件について先に参議院に提出して、参議院の議決と異なる議決を衆議院が行った時、一定の手続を経たあと「参議院の議決を国会の議決とする」のだそうである(73条3項)。これも不思議な規定である。ある学生(?)はシェイエスらしき言葉を引いて、「第二院と第一院が意思を異にするならば有害であり、意思が同じならば無用である」と書き込んでいる。
  細部まで見ていけば、「試案」の有害無益性はさらに見えてくるが、このへんにしておこう。10年前、第一次案を論じた文章の末尾で、私はこう書いた。これは「『未来志向型憲法』などでは決してなく、欧米の『普通の憲法』の水準に達しない、この国の後進性と権威主義的体質を助長・促進する『現状追認型憲法』への退歩でしかないだろう」と。第三次案まで出揃い、憲法調査会が改正案を出そうとしている現段階では、読売社説が自賛する「新憲法」への動きは、今後加速されていくだろう。10年前のように「コメントに値しない」とは言っておれない状況である。