雑談(45)音楽よもや話(7)指揮者と教師、再論  2005年11月14日

越しをすると、いろいろな本と「再会」できる。これについてはすでに書いた。今回は、引越しの際に出てきた『あるベルリン・フィル楽員の警告――心の言葉としての音楽』(音楽之友社、1996年)を素材に少し書こう。
  著者はヴェルナー・テーリヒェンという有名な打楽器奏者で、フルトヴェングラーからカラヤンまでの巨匠たちのもとで、ベルリン・フィルの「栄光の時代」を生きた人物である。私はこの本を8年前に確かに読んだ。表紙に「Tokio, den 16. Juli 1997」と書き込んであるから間違いない。赤線や頁を折った跡も残っている。当時は、超一流オーケストラが「バベルの塔」を築いてしまったことに対する「警告」や、その歴史におけるナチスとの関わりなどに興味があったようで、そうした叙述に赤線が引いてある。とりわけ印象的だったのは、長年このオーケストラに君臨した首席指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンに対する鋭い批判である。「個人的利益の野放図な追求」、音楽の商品化・広告化、いまふうにいえば「音楽界の市場原理主義者」に対する「内部告発」にとどまらない根源的批判である。さらには、人間の内面を侵食する「現代」の普遍的兆候への警鐘ともなっている。風刺のきいた、奥の深い文体がまたいい。

  今回、この本と8年ぶりに「再会」し、空き時間に30分ほど頁をめくっていると、線を引かなかった別の箇所に関心が向かった。それは、音楽大学で教えたこともある著者の、指揮者と教師を対比した部分だった。
「音楽家はいかに目立ち、また自分でそう感じていようと、いずれの場合にも自分の能力、自分の技芸をもって共同体に奉仕するのであり、そのなかで各人が他者によって生かされ、かつ体験を得る。アンサンブルを完璧に保ちたければ、ひとりだけ共同体から突出したり離れたりすることはできない――個々の成長が全体の質を上げるのだ」。でも、指揮者が自分の個人的威信を前面に押し出すと、どんなにすばらしい指揮者でも、オーケストラが輝きを失い、「萎んで」しまう。「このような場合、指揮者があまりに高くオーケストラの上に屹立しているので、指揮者の業績は驚嘆の的になっても、オーケストラは彼の楽器に格下げされてしまう」と。
  興味深いのは、長年にわたり著者が接してきた「きわめて著名、かつきわめて珍奇な芸術家のキャラクター」について、おおむね四つのタイプに区分けしている点である。それは、「共感者」「作為者」「偽聖者」「貪婪者」である。「共感者」の対極にあって、最も質が悪いのが「貪婪者」である。その誇大妄想、欲求衝動、自制不能は、もはや音楽とは呼べない。「自分自身の響きを食いつぶし、その響きはもう新しくなることも発展することもない。強そうにかまえているが、じつはなにかに隷属しているにすぎない。その同じ隷属を『貪婪者』は自分のまわりのすべてのものに強制する。むしりとった権力をふるってみんなの生活圏を圧迫したり、ときには破壊することによって、物質的世界が貪婪者によって荒廃させられるように、彼らは精神と魂の果実をもむさぼり食う。そして感情がひからびれば、生命は危うくなる。もはや花は開かず、育たず、繁らず、収穫するものも、提供するものもない。こうして音楽も死ぬ」と。
  抽象的な言葉の向こうに「ベルリン・フィルの帝王」と称されたカラヤンの顔が浮かぶ。東アジアツアーで、二人の楽員がタラップの隙間から6メートル落下して負傷したときも、付き添い医師を自分用に身近に置いて、楽員の搬送が三日も遅れたという「告発」も行っている。日本公演の「第九」で、緊張に耐えられず昏倒した女性合唱団員を、すぐ後ろに立つ二人の合唱団員が速やかに後ろに下げて演奏を続けたときの描写も、「マエストロはこの出来事に――いつものように目を閉じていたにもかかわらず――気づいており、のちに女性歌手たちの行動についてお誉めの言葉があった」というもので、カラヤンが目を閉じて指揮することを知る者には、この叙述に毒がこもっていることがわかる。

  ティンパニー奏者は指揮者とオーケストラの双方を見渡せる位置に立っている。著者テーリヒェンの持ち前の観察眼だけでなく、その「立ち位置」からも、本書の指揮者・オーケストラ分析が鋭く、興味深い所以である。なお、著者は、現役時代につらかったこととして、指揮者の権力的姿勢のみならず、「われわれの無条件に屈伏する姿勢」を挙げている。「暴君指揮者」の非難に終わらないところに、著者の叙述の誠実さを感じる。また、著者はいう。「指揮者はいかにして棒を振って正確さを強要しようとするか、いかにしてピアニッシモを沈黙すれすれまで絞りこみ、フォルティッシモを熱狂的な噴出へと導くか、そもそも指揮者はなにを全員に信じこませなければならぬのか。…肝心なのはそんな能力や作為ではなく、まなざしに表れている内的な連帯感であり、信頼に満ちた献身であり、ごく個人的な感覚の表出であると悟った」と。「指揮者こそ最初に心を開いて、他者の情動を受け入れ、それを尊重し、自分の情動と調和させる心がまえがなければならない」。著者の理想的指揮者像は、「帝王」カラヤンを「反面教師」として考えればわかりやすい。

  ところで、指揮者や教師は似たところがある。さしずめ、講義は教師一人が行うピアノ演奏会のようなものだろう。教室という空間はコンサートホールである。講義は正味90分。これだけの時間、教師一人でもたせなければならない。授業の出だし(Einsatz) からフィナーレまでの90分間を濃密に組み立て、毎週定時の時間に「演奏」する。私は前期、8種類9コマの授業をやった。ゼミや大学院の授業を除き、導入科目などの集合講義を入れれば、90分間「演奏」を続ける講義は4コマ+αである。後期はICU非常勤を頼まれたので、今年だけ1コマ(ICUでは秋学期は140分、冬学期は210分!)多くやっている。こういう仕事を22年やってきて思うことは、教壇に立って学生たちを見まわし、そのテーマについて満足のいく「コンサート」にすることのむずかしさと面白さである。私も人間だから、体調や気分やその時のたてこんだ日程などにより、授業がノルときと、そうでないとき、よく準備できたときと、歩きながら資料を読みつつ教室に駆け込むときなど、さまざまである。それでも毎回、学生たちの心と頭に何かが残るよう、とにかく全力をあげる。でも、講義の出来は、学生の反応を見ればわかる。「面白くないことを面白くなく」講義すれば、学生の居眠りが増える。こちらがノッても、学生との間にズレが生ずれば、しっくりしない空気が流れる。いい聴衆がいると、演奏者はノッてくる。同じように、学生たちの問題意識や熱い反応などで、講義をする教師の側の士気も変わってくる。だから、双方の「やる気」の交流が大切なのである。その点で、今年後期やっているICUの講義は「超時間」だが全然疲れない。それは私の話に対する学生たちのやや派手なリアクションが講義に活力を与えてくれるからだろう。「気」の交流が大切な所以である。

  そこへいくと、ゼミナールはオーケストラにあたるだろう。私のゼミは、とりわけ個性的なメンバーが多いので、みんなで一つの学問的交響曲を演奏してきた。ゼミは「苗床」であると同時に、多彩な個性が一つの曲を演奏するオーケストラであるということを、最近とくに実感するようになった。教師にとって、教室は勝負の場であり、とりわけゼミは顔の見える距離での真剣勝負の場である。ごまかしはきかない。当然、学生は指導教授に対して信頼を寄せてくるが、しかし、べったりせず、適度な距離感を楽しむ。だから、教祖と教師の違いは何かと問われれば、信者は教祖のいうことを信じるのに対して、学生は教師のいうことを参考にし、ときに批判して育っていく。もう一つ。教祖は弟子に乗り越えることを許さないが、教師は弟子に乗り越えられることを喜びとする。これも大きな違いである。どんなに年をとっても、30代前半の助教授時代のゼミ合宿で、学生たちと氷点下の支笏湖丸駒温泉の露天風呂に飛び込んだときのような「元気」を失いたくないものである。
  「言って聞かせ、やってみせ、やらせてみせねば、人は来ぬ」というように、教師は「やりなさい」というだけでなく、自らやってみせ、彼らにやらせてみせて、できればほめてあげる。これが基本である。どんな学生のなかにもある「キラリと光るもの」をみつけてほめること。これも教師の大切な仕事である。一人ひとりの個性を活かしながら、ゼミという共同体を発展させていく。その際の教師の役割は、オーケストラにおける指揮者のそれに似ている。大指揮者・朝比奈隆は、「指揮者の仕事はほめること」といった。深い言葉である。これは甘やかす、媚びるとは無縁である。大勢の「この世にたった一つのオンリーワン」をまとめて、その可能性を引き出していく。自分を信頼する全員の熱い眼差しを受けて、彼らの力に「賭け」る。そのとき、すばらしい演奏になる。ゼミのメンバーが星(スター)ならば、私は「真昼の星」でいたい
  もし、教師が、テーリヒェンが批判する「帝王」指揮者のようなタイプだったら、ゼミはどうなるか。どんなに優秀なメンバーが揃っていても、そのゼミは萎縮し、歪み、「偽聖者」や「貪婪者」のミニチュアを生み出すことになるだろう。「偽聖者」や「貪婪者」にならぬよう常に自制し、「偽聖者」や「貪婪者」を育てぬよう注意しながら、地道に、謙虚に、知的誠実性を忘れずに努力していくしかない。

  たくさんのレコードを出し、自ら出演・演出したDVDまで作らせ、超一流オーケストラを使って自己実現をした「帝王」は、いま、どれだけ愛されているか。そこそこの演奏や、ものによっては「名演奏」もないではない。だが、カラヤンの残した膨大な演奏のうちで、いまも愛されているのがどれだけあるだろうか。カラヤンの演奏は、父の代からのレコードを入れれば20枚以上になるが、CDで買い換えたものは一枚もない。レコードをたまに聴くときにも、カラヤンの演奏に手がのびることは、ここ十数年で一度もない。クラシック音楽の市場原理主義的な拡張をはかり、クラシックをポピュラーにした「功績」を除けば、次世代まで引き継がれていくカラヤンの演奏はどれだけあるだろうか。

付記:一部読者に配信している「直言ニュース」は、都合により今週はお休みします。