ふたつの第9条(その1)  2006年7月24日

文数の少ない法律、例えば国旗・国歌法(2カ条)や請願法(6カ条)などは別として、たいていの法律には「第9条」がある。ベートーヴェンの交響曲と並んで、この国で「第9」に特別の響きが与えられるのは、言うまでもなく憲法第9条だろう。戦争、武力行使・威嚇をトータルに否定し、戦力不保持と交戦権の否認を明確化したもので、対外的な国家権力発動に重大な制約を課したものである。そもそも「敵基地攻撃」などが成り立たないこの憲法9条のもとで、総裁選向けパフォーマンスを競い合って、有力候補(現職の官房長官や外相)が浅慮で軽い言葉を次々に繰り出している。この種の人々が政治の中枢にいて、メディアに大きく取り上げられることの危なさ。「テポドン」問題を「奇貨」として、政治家、軍需産業、高級将校などが暴走を始めた。それが、市民にとっての「奇禍」につながりかねないことは、歴史の先例が教えるところである。

  今週と来週の「直言」は、その「憲法第9条」のことではなく、「もう一つの第9条」の話をしよう。
  国家権力が対内的に作動する際の柱をなすのは国家刑罰権である。それを体系化したのが刑法典であり、刑罰の種類を定めたのが刑法第9条である。「死刑、懲役、禁錮、罰金、拘留及び科料を主刑とし、没収を付加刑とする」。主刑は、生命刑(死刑)、自由刑(懲役、禁錮、拘留)、財産刑(罰金、科料)の三つのカテゴリーに区分することができる。没収は、主刑と同時に科すことのできる付加刑である。「罰金50万円、手鏡1枚没収」というのがその例である。

  日本は、「生命刑」が存在する国の一つである。1989年12月に国連総会で「死刑廃止条約」(市民的及び政治的権利に関する国際規約の、死刑の廃止を目標とする第二選択議定書)が採択され、刑罰から生命刑を漸次的になくすことが世界の潮流となった。死刑廃止は「人間の尊厳の高揚及び人権の漸進的な発展に寄与」し、「生きる権利の享受における進歩」であるとの認識が基礎にある(条約前文)。「死刑はなくなるべきもの」となったわけである。ヨーロッパ・スタンダードでは、生命刑(死刑)を認める国はEU(欧州連合)に加盟できない。「目には目を、歯には歯を」の伝統と文化をもったトルコでさえ、EUに加盟したい一心で、死刑を廃止した。それぞれの国の事情はありながらも、世界の主潮ということから、死刑を廃止する国は着実に増えている。
  今年6月の数字では、死刑廃止国87カ国、通常犯罪廃止国11カ国、事実上の死刑廃止国25カ国と、計123カ国が死刑廃止国にカウントされている(フィリピンが今年6月に廃止)。62.7パーセント、3分の2に近づいている。これに対して、死刑存置国は73カ国。その内訳は、米国、日本、中国のほか、「イラン、北朝鮮、ミャンマー、キューバ、ジンバブエ、ベラルーシ」などである。括弧内の6カ国は、ライス米国務長官が「圧制の拠点」ないし「専制の前哨」 (outpost of tyranny) と呼び、体制転換(レジームチェンジ)を狙う国々である。なお、米国は、ミシガン州ほか13州で死刑を廃止している。だから、国全体として死刑を実施している「先進国」は日本だけということになる。なぜ日本政府は死刑廃止条約に反対したか。それは、国民が死刑存置を支持しており、廃止は時期尚早というものである。他方、死刑に関して、国会の法務委員会で議員が質問しても、法務省はまともな情報を提供していない。この国では、国民は死刑の実態を知らずに、過度な応報感情から死刑存続を支持するという状況が続いている。
  なお、90年代はじめ、数年間死刑執行なしのレコードが続き、「事実上の死刑廃止国」への仲間入りかと見られた時期もあったが、後藤田正晴法務大臣のときに執行が行われ、記録は途切れた。2000年以降も死刑を選択する判決は少なく、一桁台が続く。死刑に対する抑制的傾向が確認できる。死刑執行数も一桁台の前半が続いた。しかし、2004年に死刑確定数が15と、飛び抜けて増えたのが特筆される。

  この「直言」では、死刑について9年前に書いたことがある。ブッシュ大統領がテキサス州知事時代に死刑を大量執行したことにも触れた。他方、日本の保守政治家のなかにも死刑廃止論があることを紹介した。今回、死刑について書くのは4回目だが、今年、2006年は、死刑をめぐる状況が様変わりした年と言えるだろう。世界のなかで日本だけが一種異様な雰囲気のなかにある。死刑をできるだけ回避する判例の蓄積、代替刑をめぐる議論など、「死刑はなくなるべきもの」という方向にどう近づけていくかが課題となっていたのが、この数年、そうした地道な議論を吹き飛ばす動きが急激に広がっていった。それを象徴するのが、6月20日の最高裁第3小法廷判決だろう。

  山口県光市で、殺人・強姦致死罪などに問われた当時18歳の元少年に対して、下級審は無期懲役を言い渡した。だがこの日、最高裁は高裁判決を破棄して、審理を高裁に差し戻した。メディア、特にテレビは、破棄差し戻しよりも、破棄自判(最高裁が自ら死刑判決を出すこと)を求め、それに期待すらかけた。最高裁はさすがに自判せずに差し戻すというギリギリの見識を示した。この事件には、次週述べるように重大な疑問がある。その点が差し戻し審で慎重に審理され、自明のように死刑が出ないことを望みたい。
  それにしても、判決翌日の新聞各紙はひどかった。特に私の目をひいたのは、「無期は著しく不正義」(『毎日新聞』6月21日付〔東京本社14版〕)という大見出しである。「人の命を奪う刑罰は正義に反する」という世界の流れを逆転させるもので、「死刑を選択しないことが不正義」という「逆転の発想」を強く印象づけた。この最高裁判決は、死刑をめぐる世界の主潮に対する「復古」 (Restauration, restoration) と評し得よう。

  メディアの取り上げ方の問題もある。とりわけワイドショーの影響は無視できない。 秋田県藤里町の事件(小学生2人殺害)での女性に対する報道も、テレビ露出度の激しい「被害者」が被疑者・被告人へと転換?したこともあって、テレビの突出ぶりは凄まじかった。朝から晩まで、女性被告の顔が最も醜いアングルで執拗に流される。どの局でも、ほとんど同じような論点をめぐり、いつものコメンテーターの、同じようなコメントが朝と昼、夜と長時間流される。
  なかでも朝から元気がいいのが、「みのもんた朝ズバッ!」(キー局TBS)である。この間、みのもんたが、司会の一線を超えた仕切りを行ったのが、私が観ただけでも二回あった。一つは、「テポドン」発射の翌週の7月10日、「敵基地攻撃は当然」というトーンでコメントしていた。異様な雰囲気だった。さすがにコメンテーターの一人が抑えに入り、みのの兄が戦争で死んだ話をふると、とたんにおとなしくなったが。
  二つ目は、司法に対する不信を煽る物言いである。法を少しでも学んだものならば自明の法的手続について、やたらと攻撃する。広島地裁が7月5日、小学一年生に対する殺人、強制わいせつ致死などで起訴されたペルー人被告に無期懲役判決を言い渡したが、その翌日の7月6日、みのもんたは口をきわめて広島地裁の裁判官を非難していた。社会保険庁の不祥事や、公共事業の無駄などを追及する舌鋒は鋭い。しかし、ことが刑事事件の判決の当否をめぐる問題となると、そのスタンスは「被害者」の目線に過剰に寄り添って、 被告人や弁護人の正当な権利までも否定しかねない発言を行った。視聴者の厳罰感情に乗ればうけると知っているから、多少の「逸脱」は安全圏と思っているのだろうか。

  ワイドショーのなかでは、弁護士のコメンテーター(特に検察官出身がひどい)までが、被告側の弁護士の記者会見を「追及」していた。一体、この国はいつからこんなに野蛮な国になったのか。原因の一つは、「体感治安の悪化」や「幼児誘拐殺人」などが続いている一般的背景に加えて、やはり集中豪雨的に垂れ流すワイドショーやニュースショーの「話の作り方」にあるように思う。犯罪被害者へのテレビカメラの過剰な寄り添いが、世論の厳罰感情を煽るという側面だけでなく、被害者の声そのものがステレオタイプ的に「編集」され、「被害者はみな極刑を求めている」という方向に誘導される。「無期ならば数年で出てきて、そこらを歩き回るんだから。奥さーん。そんなこと許せますぅ?」というトーンである。しかし、いい加減なことを言ってもらっては困る。無期懲役は決して数年で出られるものではない。福島瑞穂参院議員の質問主意書に対して、1999年5月25日、法務省矯正局が提出した答弁書にこうある。無期刑の受刑者は98年末で、全国968人いる。25年以上服役しているのは計67人。98年に仮釈放された無期受刑者の平均服役期間は20年10カ月である。仮釈放の申請自体が慎重になっているようで、昭和期は半数以上が在所16年以内だったのが、最近では90%が20年を超えているという。無期刑の長期化が進んでいるという(後掲『終身刑を生きる』監訳者解説より引用)。これ自体に、私は問題を感じているが、ここは触れないでおく。

  7月4日付『朝日新聞』の第一社会面には「死刑」をめぐって象徴的な記事が並んだ。先のペルー人被告に対する無期懲役判決の一面記事を受けた社面記事は、遺族が死刑を求めて記者会見を行ったという記事である。そのすぐ下に、松山事件の斉藤幸夫さんが75歳で亡くなったというベタ記事。29年間、無実を訴え続け、死刑判決確定後も頑張りつづけ、ついに再審無罪判決をかちとった。この人の人生の4割近くは被疑者、被告人、死刑囚である。さぞかし無念だったことだろう。ワイドショーでこれに触れた局が一つでもあっただろうか。死刑という制度がもつさまざまな問題の側面を多面的に報道する必要があるのだが、バランスの悪いことおびただしい。

   次週は、 死刑は憲法36条にいう「残虐な刑罰」にあたるかという根本問題、次々週は、山口県光市 の事件の最高裁判決について書くことにしよう。 (この項続く)

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