1年前、安倍晋三氏は何を語っていたか  2008年7月28日

本人は忘れっぽいといわれる。「日本人は…」という括り方は好まないが、あえて問いたい。この国の多くの人たちはもう忘れてしまったのだろうか、1年前の今日、7月28日のことを。

  公示日(7月12日)、秋葉原駅前での第一声で安倍首相は、「社会保険庁をぶっこわす」と、拳を振り上げて絶叫しながら、「宙に浮いた年金問題」の解決を約束した。「最後のお一人にいたるまで、責任をもって年金をお支払いすることをお約束します」(自民党・参院選ビラ「国民の皆さまへ」より)。ノーネクタイで、手をふりあげ、甲高い声で叫んでいた。はっきり耳に残っている。
   そして、この日、7月28日夜7時30分。最後の演説の場としてJR新橋駅前にあらわれた安倍晋三首相(当時、以下同じ)は叫んだ。「国民の皆さまの切実な声に、私たちはしっかりと耳を傾け…」と。
   その翌日(7月29日)の参議院選挙で自民党は大敗した。安倍氏は辞任するとみられていたが、続投を宣言。そして、9月12日、国会の代表質問で答弁をするという段になって、総理の職を投げ出したのである前代未聞の「敵前逃亡」であった

  代表質問で答弁もできずに辞任した首相は、表舞台に出てきてはいけない。安倍晋三氏の政治家としての再チャレンジはありえないと誰しも思った。私も、「安倍晋三氏は議員辞職すべし」という「直言」を出した。あまり反響はなかった。田中真紀子議員がそう主張した以外には、なぜかみんな妙にやさしいのである。
   調子にのった安倍氏は、政権投げ出しからわずか4カ月ほどで、テレビ画面に登場して、コメントを始めた。厚顔無恥の極みである。そして、8カ月後には、テレビインタビューにも登場したのである。

  それはNHKのお昼のニュースが終わり、民放にチャンネルを切り換えたときだった。安倍氏の顔が大写しになった。驚いた。あまりに笑顔だったから。山本晋也監督の質問に答えて、明るく応対している。そのまま最後までみてしまった。テレビ朝日のお昼のワイドショー「スクランブル」。5月28日12時20分過ぎのことである。
   山本監督が、コントグループ「ザ・ニュースペーパー」が安倍氏の真似をして笑いをとっているが、と質問すると、「実は家内がみているのです。今度ライブに行くといっています」と屈託がない。「あなたはKYといわれたが」と監督が問いかけると、「空気をつくる(KT)だ」などと答え、上機嫌だった。総理大臣の職を投げ出したことへの反省の姿勢は微塵も感じられなかった。スタジオにカメラが戻ると、いつもは厳しいコメントを発するコメンテーターの面々が、なぜか安倍晋三氏にやさしいのである。「9.12」の唐突な辞任表明から半年しかたっていないのに、この明るさは何だろう。
   6月には、対北朝鮮外交をめぐり、日朝国交正常化推進議員連盟会長の山崎拓氏を、「百害あって一利なし。百害あって利権あり」と厳しく批判した。これは山崎氏が、安倍氏に対して、「制裁一辺倒では前進がなかった。(安倍は)幼稚だ」と述べたことに反論したものである(『朝日新聞』2008年6月20日付)。それにしても、よくぞここまで強気になったものである。参議院選挙での敗北からまだ1年なのに、「忘れ去る力」が強すぎはしないか。

  「憲法というのは、誤りをおかす可能性があり、かつ『忘れる』という人間の本性を熟知した上で、さまざまな『過ち』や『誤り』を体系的に整理・分類して、権力担当者に対してそれらの『記憶』バックに『命令』として突きつけたもの」である(「『忘却力』と憲法」参照)。その憲法を、自分の「美しい国づくり」のために「改正」しようとしたのは安倍氏だった。人々の「忘却力」に依拠すべしといったのは、かのアドルフ・ヒトラーだった(『わが闘争』第6章)。とにかく忘れないこと。これが大切である。

  昨年の年末から今年2月まで、山梨県の山奥で安倍晋三ポスターを何度もみた。それが3月15日に付近を通ったときは、このような状態になっていた。 6月21日も同じ状態だった。なお、7月22日に近くを通ったところ、山梨県第3区の自民党候補者のポスターが貼られていた。

  さて、夏休みに入った。「忘却力」を悪用されないよう、「総理大臣の『職責』」について昨年9月に書いた連載原稿を転載する。すでに指摘したことばかりだが、まとめてお読みいただければ幸いである。

 

総理大臣の「職責」

 ◆「9.12」事件

  長い、暑い夏が終わった。この連載を1回お休みしている間に、永田町・霞が関村に激震が走り、国政の迷走が始まった。いうまでもなく、「9.12」事件である。

  9月 10日の所信表明演説を終え、「9.11」6周年の翌日。各党の代表質問を受ける当日の昼過ぎになって、安倍首相は、突然の辞意表明を行った。すぐにゼミの学生たちがターミナル駅や帰省先で三大紙や地方紙の号外を入手。研究室に届けてくれた。集まった6紙の号外を眺めながら、サブ見出しにある「政権維持困難」「求心力低下理由」といった言葉に目が行った。

  12日の記者会見でも、なぜ、このタイミングで辞めるのかについて、まともな説明はなかった。そのとき、頭に浮かんだのは、10日の所信表明演説である。演説は、新潟県中越沖地震と台風の被災者への「心からのお見舞い」の言葉で始まり、「復旧・復興に全力を尽くしてまいります」と決意を語り、「改革の影の部分に光を当てる、優しさと温もりを感じられる政策に、全力で取り組んでまいります」「年金記録問題を究明し、必ず解決いたします」「すべての拉致被害者が帰国を果たすまで、鉄の意志で取り組んでまいります」等々、各種課題について力強い言葉が続いた。最後に、「50年後、100年後のあるべき日本の姿を見据え、原点を決して忘れることなく、全身全霊をかけて、内閣総理大臣としての職責を果していくことをお誓い申し上げます」と結ぶ。「優しさと温もり」「鉄の意志」「全身全霊」。実に力強い、「美しい」言葉の数々。だが、2日後、野党からの質問には一切答えず、永田町から消えてしまった。年金問題について、「必ず解決いたします」という言葉を信じて見守っていた人々の期待は裏切られた。辞意を表明した理由は、テロ特措法に基づく給油活動の継続がむずかしくなった、ということ以外には述べられなかった。新潟の被災者や拉致被害者などを含めて、所信表明演説での「約束」を途中で放棄したことへのお詫びの言葉はなかった。何よりも、所信表明で派手なボールを投げておきながら、国会側からの返球(代表質問)を不可能にしたことへの謝罪はなかった。「敵前逃亡」という表現で書いたメディアもある。彼は首相である。戦前だと、単独の敵前逃亡罪(陸軍刑法75条)ではなく、司令官職役離脱罪(同42条)かもしれない。この場合の法定刑は死刑のみが規定されていた。それだけ、内閣の首長であり、自衛隊の最高指揮官などの地位にある人物が、任務を放棄して遁走したことの意味は大きかった(もちろん、軍法と死刑制度には別の問題がある)。

 ◆国政停滞を生んだ無責任

  職務を遂行中の首相が、突然、政権を投げ出すということはこれまでにもあった。だが、安倍首相の場合は特別である。そもそも、本年7月の参議院選挙で大敗した直後に「続投」を表明したからである。

  選挙の結果、参議院の構成が劇的に変わり、与党は過半数を失った。これは二院制の一つの院で信任を失ったに等しい効果を生む。首相は、参議院は政権選択とは関係ない、だから、総辞職しないという言い方をした。所信表明演説でも、参院選で「『ここまで厳しい民意が示されたのだから、退陣すべき』との意見もありますが、引き続き改革に取り組むことにより、国民の皆様に対する責任を果してまいりたいと思います」と語っていた。これはおかしい。

  確かに、内閣の存続は衆議院の信任に依存する(憲法69条)。衆院で与党が過半数を失えば政権交代に連動するが、参院ではそうではない。しかし、憲法は、内閣総理大臣の指名については、両院で異なる指名が行われることを想定している。その場合の解決策は二つ。一つは、両院協議会(必要的)を開いて調整したが、それでも意見が一致しない場合、もう一つは衆院が指名議決をしたのに、参院が10日以内に指名しなかった場合、である。いずれも、衆院の議決が国会の議決となる(67条2項)。

  このように、総理大臣の指名、信任・不信任について「衆院の優越」が定められてはいるものの、「ねじれ」が想定されていること自体、内閣総理大臣が、衆院だけで決められるものでないことを示している。だから、参院での信任を失った時点で、総辞職しておくべきだったのである。

  「安倍内閣メールマガジン」46号(2007年9月13日7時受信)には、「無責任と言われるかもしれません。しかし、国家のため、国民のみなさんのためには、私は、今、身を引くことが最善だと判断しました」とあった。自ら「無責任」という言葉を使っている。参院選大敗の責任をとって身を引くべきときに引かず、国民生活にとって緊急の課題が山積みの大切なときに、突然の辞意表明で国会を機能不全に追い込み、国政を停滞させた。これは究極の無責任というべきだろう。

 ◆総理大臣の「職責」

  シドニーで開かれたアジア太平洋首脳会議(APEC)の際の記者会見で、テロ特措法に基づく給油活動について安倍氏は、「私の責任、職責において、あらゆるすべての力を振り絞っての職責を果していかなければならない。…当然、私は職責にしがみつくということはない」と答えた。この「職責」という言葉の使い方に猛烈な違和感をおぼえた。「職責」とは、その地位と職務に随伴する政治的、道徳的な責務を意味する。「職責をまっとうする」と使う。だが、安倍氏の場合、「しがみつく」実体的存在であるようで、漢字で表現すれば、「職席」ということになろうか。安倍氏は、歴代首相のなかでも、とりわけ日本語の乱れが激しかったことで記憶に残る。私のホームページのバックナンバー (http://www.asaho.com)をみれば、この1年間の安倍氏の言動が詳しく残されている。それにしても、「消えた年金記録5000万件は必ず解決します」といい、「私の内閣で私の任期中に憲法改正を実現する」といってきた安倍という人物によって、この国はかき乱されてしまった。この内閣成立以降、かつてない強引で恣意的な国会運営が行われた。先例や慣行は破り放題、「不正常な採決」が続出した。十分な議論もないまま、「改正」教育基本法、防衛庁「省」移行関連法、国民投票法など、戦後憲法体制の変更につながる重要法律が次々に成立していった。だが、「美しい国」(うつくしいくに)を連発しながら、その逆さの「憎いし苦痛(にくいしくつう)」な状況をむしろ拡大していったのではないか。

  私は、安倍内閣が発足した直後、ホームページで、次のように書いた(2006年9月25日付直言)。

  「安倍は、『政治的ロマン主義』の香りを漂わせている。饒舌で軽薄な言葉の上に、冷徹で厳格な施策が次々と実施されていくだろう。ただ、ドイツの国法学者カール・シュミットは、ロマン主義的思考の基本性格を偶因論=機会原因論(Okkasionalismus)と捉え、政治的ロマン主義の浮動性を指摘する(大久保和郎訳『政治的ロマン主義』みすず書房)。これは、便宜主義(Opportunismus)に近い。安倍の言説に『政治的ロマン主義』に通ずるものがあるとすれば、それはオポチュニストとしてのそれと重なる面があるかもしれない」と。

  ロマンと便宜で「美しい国」を語った首相の、ちっとも「美しくない」幕切れであった。

(2007年9月20日脱稿)

〔『国公労調査時報』2007年11月号「同時代を診る」連載第34回より転載〕

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