日米安保改定から半世紀 2010年6月21日

曜日(23日)は日米安保条約改定50周年である。 50年前のこの日、「新安保条約」が発効した。鳩山内閣が総辞職しなければ、普天間問題が焦点となったまま、この日を迎えることになっただろう。 2日に鳩山由紀夫首相が辞意を表明し 、4日に菅直人新首相が誕生した。だが、菅内閣の発足は4日後の6月8日になった。新聞各紙は、在任262日で、細川内閣263日よりも1日短い、「史上5番目」の短命内閣と報道した。だが、なぜか内閣発足は4日後の8日となった。 その間、鳩山内閣は憲法71条の「職務執行内閣」として存在し、その結果、在任日数は266日となって、「史上6番目」の内閣になった。細川内閣も羽田内閣も、ともに多党連立政権で閣僚選びに時間がかかったが、それでも職務執行内閣の期間は3 日だった。天皇の静養日程との関係や、小沢一郎氏との関係などいろいろ言われているが、なぜ発足まで4日もかかったのか。 1日違いで細川内閣より短命になるのを避けるための、在任期間の辻褄合わせではあるまい。

先週の16日(水曜日)、第174国会が閉会した。法案の成立率は55.6%で、42年前の佐藤内閣時の55.8%よりも低い。 閣法(内閣提出法案)が成立しないというのも異常である。大学紛争などで混乱した42年前と異なり、いまは何もない「平時」である。にもかかわらず、この法案成立率の低さはどうしたことか。 メディアはその異常さをあまり報道してこなかったが、国会運営がいかにひどいことになっていたかの証左である。

ところで、いま、公約やマニフェストは破るためにあると言わんばかりに、総選挙前のマニフェストは換骨奪胎されている。「次の総選挙までは消費税は値上げしない」と言っていたのに、 参院選挙前の段階で、「10%」という数字まで具体的に挙げて消費税値上げが語られはじめた。 何でもあり、である。 普天間問題やいわゆる「日米同盟」についても、マニフェストは修正されている。まるで総選挙前のそれが別の政党のもののように感じられるほどに、その書き換えは劇的である。 とりわけ安全保障問題では、曖昧とはいえ「東アジア共同体」が語られ、「日米同盟」の微妙な相対化が感じられた鳩山内閣とは異なり、菅内閣と自民党政権との違いはほとんどなくなった。 菅首相の所信表明演説では、「日米同盟は、日本の防衛のみならず、アジア・太平洋の安定と繁栄を支える 国際的な共有財産 と言えます。今後も同盟関係を着実に深化させます」と述べられていて、「国際公共財」とまで言い切った防衛大臣政務官の某と大差はない。

 政権交代からわずか9カ月。腰が座らず迷走したとは言え、理想や理念に思いを寄せようとした鳩山首相に比べれば、菅首相の「現実主義」はより米国に密着する方向に舵を切ったと見ていいだろう。

 さて、安保改定50年について、ここで新たに書く時間的余裕はない。そこで、 『世界』(岩波書店) 6月号特集「日米安保を根底から考え直す」 の巻頭インタビューを、編集長の許可を得て転載することにしたい。

この論稿は、『毎日新聞』「論壇をよむ」(中西寛・京大教授)で紹介された(『毎日新聞』2010年5月27日付)。 見出しは「左右の同盟否定論を越え」。中西氏は「日本人の中には、日米同盟を日本の利益と見なす『政府の論理』と、日本の従属と見なす『民衆の論理』が分裂して存在している」と見立て、佐伯啓思・京大教授の『正論』6月号論文と『世界』6月号の拙稿とを、 「 一見 正反対の立場から、『民衆の論理』による日米同盟批判を展開する」と特徴づけている。 (太字部原文は傍点)

  中西氏はまず、佐伯氏の議論をこう要約する。 「日本の伝統的、歴史的価値を尊重するという『保守』の立場で、徹底した進歩主義、近代主義を標榜するアメリカ的価値と、日本の伝統的な自然観、歴史観は大きく相違すると説く。 日米同盟が日本の安全に役立っているのは確かだが、アメリカ的価値が無批判に受容されている現状は問題であり、いつか日本の価値に基づいた自主憲法を制定し、アメリカ的価値に反対せねばならないとする」と。  他方、拙稿については、「護憲論の立場から日米同盟の異常さを主張する。これまでの日本政府は対等の主権国家としてなすべき交渉をせず、アメリカの意向を過剰に忖度し、また迎合して不平等な同盟関係を続けてきた。憲法がかろうじて歯止めとなってきたが、今回の普天間問題は日米同盟を当然視して停止していた日本人の思考を揺さぶる効果をもった。これを機に日米同盟を解消する方向に向かい、敵をもたない地域的安全保障体制の構築に向かうべきだ、と主張する」とまとめる。

そして中西氏は2つの議論をこう総括する。 「両者の主張は改憲と護憲や日本への脅威の存在に対する認識を除けば、かなり似通っている。しかし自主憲法を制定しないのも、アメリカの意向を『忖度』する政府を半世紀以上選び続けてきたのも日本人であり、今の日米同盟のあり方は日本人の主体的な選択の結果ではないだろうか。問題は、国家安全保障の問題を政府の仕事と見なし傍観者的態度をとり、基地や思いやり費用の負担といった問題には敏感に反応する日本人のありようではないだろうか。この点を改め、日本人自身が日米同盟のメリットとデメリットを直視することはできないか」と。

「左右の同盟否定論を越え」という見出しは、毎日の論壇担当記者か整理デスクのものだろう。 中西氏は、「日本人」という言葉を多用しながら、現在の「日米同盟」はその「主体的な選択の結果」であるという。だが、50年前、安保条約は衆議院で強行採決され、多数の「密約」によって国民の目から覆い隠され、嘘で塗り固められて維持されてきたのであって、どこに「主体的」な選択があっただろうか。 沖縄は言うまでもなく、横田や厚木など、米軍基地のある自治体で騒音訴訟が起こされたように、住民は静かに夜を過ごす権利を侵され続けてきた。 「日本人」という抽象的な言葉を使って、安全保障の基本問題を議論するのはいかがなものだろうか。 メリットとデメリットという二分法ではなく、安保条約のもつ構造的な問題性を、より実態に即して検証することが求められているのである。

なお、拙稿は、研究室での1時間ほどのインタビューを、編集部がまとめたものである。インタビューは4月21日であり、鳩山内閣の辺野古決定の2週間前であることも申し添えておきたい。





 迎合、忖度、思考停止の「同盟」

 



旧安保条約・出自の問題性

日米関係、日米安保の現在についての議論に入る前に、安保の「前提」を確認しておきたいと思います。1951年9月8日、当時の首相・吉田茂は閣僚とともに講和条約に調印し、同じ日に彼一人で日米安保条約に署名しました(旧安保条約)。つまり片面(単独)講和と同時に安保条約に調印したわけです。その結果、旧安保条約は非常に無理をした形となってしまった。吉田が一人で結んだという手続きにも問題がありました。中身にも、タイミングにも問題がありました。講和の締結は、「日本は戦争をしない国です」ということを全世界に示す機会であったのに、同時に軍事同盟を結んでいるわけですから。「全面講和を選ばない」という結論がまずあって、日本が朝鮮半島の情勢をにらんで共産主義圏を敵視する枠組みに入っていくことになった。ゆえに当時、『世界』が全面講和論の論陣を張ったことは、後にいろいろな批判を受けましたが、私は、当時の時代状況に誠実に向き合ったものとして評価しています。

アメリカの占領的性格を強く残す方向で選びとられたものであった結果、旧安保条約はきわめて不自然な部分を引きずっていました。豊下楢彦氏は安保条約の「4つの論理」として、「占領の論理」、「片務性の論理」、アメリカとの同盟という手段を自己目的にして行動の硬直化を招いた「自己目的化の論理」、にもかかわらず「自立」や「独立」をめざした「自立幻想の論理」の4点を鋭く指摘されていますが(『安保条約の論理』柏書房、1999年)、もし5点目を挙げるとするならば、「日本の国内手続き軽視」があると思います。

国際的な条約は、基本的には各国の憲法上の手続きに従って承認され、対等な主権国家間の合意という形式は確保されています。しかし、安保条約に関しては、旧安保締結から1960年の新安保条約をふくむ全てのプロセスに日本側の過剰なまでの迎合、忖度とアメリカの占領意識とがあいまって、本来議論し、条件をつけるべき米軍の駐留の条件、期間、中身の交渉をやっていない。「全土基地方式」という、普通の国ならばあり得ない方式がとられたのもそのためです。

根底から問うことなく「自然承認」と「自動延長」で

1960年の日米安保改定について年表を見ると、必ず「自然承認」と書いてあります。憲法73条第3号は、条約締結を内閣の事務としながら、但し書きとして、事前もしくは事後に国会の承認を必要とすると定めています。国会承認について憲法は、予算と条約に関しては30日以内に参院が議決しなければ参院否決とみなすとしていますが、衆参で議決が異なった際には衆議院の優越が定められています。

新安保条約は清瀬一郎衆議院議長のもと、強行採決で可決されたあと、国会は完全にストップ、参議院は審議ひとつしていない。その後、首相の岸信介は30日が過ぎるのをじっと待って、国会を包囲するデモ隊の声を聞きながら承認の日を迎えた。安全保障上の根幹にかかわる条約を、国会の半分しか承認していない。いわば片肺承認です。その手続きは合法ではありますが、レジティマシー(正当性)を著しく欠き、本来は、遅くない時期に両院で承認できるようなものにリセットすべきものでした。

安保条約10条を見ると、とにかく10年はこの条約でやってくれ、ただし10年たった後は、どちらか一方の国の通告で1 年以内に条約が終了するという廃棄通告条項があります。安保改定から10年を迎えるころ、この10条が焦点になって安保条約を廃棄するか、それとも自動延長するかという真剣かつ活発な議論がありました。

たとえば、毎日新聞紙上における国会・安保政策の総討論をおさめた『自民党政権の安全保障』『社会党政権下の安全保障』『公明党政権下の安全保障』『民社党政権下の安全保障』『共産党政権下の安全保障』という5巻本のシリーズが当時出ています(毎日新聞社、1969年)。これは自民、社会、公明、民社、共産の全政党が、安保条約の問題を様々な角度で質問し合ったもので、自民党からは田中角栄や中曽根康弘、西村直己などが参加しています。共産党の宮本顕治は、「われわれは社会党と違う。万一攻められることがあれば竹やりでなく軍事力を持って守る」「自衛権は民族固有の権利である、徴兵制でなく志願兵制の軍隊にする」などと語り、丁々発止の際どい議論のやりとりのなかとはいえ、いまの同党の方針からすれば、議論の歴史性を感じます。自民党は改定安保の自動延長、社会党は廃棄、共産党は破棄、公明党は段階的解消、民社党は「駐留なき安保」。すべての政党がそれぞれに方向性を打ち出している。安保破棄、廃棄はナンセンスだ、とは当時から言われていたけれども、安保なしでも経済的にやっていくことができるなど、それぞれ対案も出して真剣に議論していました。

結局、改定交渉の提案も一切せずに、自民党政権は自動延長という一番安易な決断を下します。1970年は大阪万博を迎える高度成長の真只中で、オリンピック以前の1960年とは状況は全く違っていたのですから、政府が再交渉を試みて、少なくとも「全土基地方式」に条件をつけたり、地位協定のあまりに不平等な条項などを改善するようなこともできたのではないか。しかし、政権が目指したのは沖縄返還でした。1969年のニクソン−佐藤による日米共同声明が発表されましたが、返還交渉の過程では、周知のとおり安保にかんする密約が生まれていた。自動延長によって、ついに「全土基地方式」は修正されなかった。沖縄にはその適用以前に、暫定統治で巨大な米軍基地がおかれていた。革新勢力は当時「本土の沖縄化」という言い方をしましたが、まさしくその後、全土が沖縄化していったのです。

じつは、私は鳩山首相が普天間基地の移設先にかんする結論を先延ばしにしたことを評価しているんです。アメリカが予め用意していた結論に、イエスと言わなかった初めての総理大臣ですから。もし、わざと閣僚にバラバラのことを言わせて、最終的に「あちこち検討しましたが、基地を受け入れられるところはどこにもない」と言ったら、これはアメリカにカードを切ることになります。また、宜野湾の伊波洋一市長らは、沖縄海兵隊の「定数」には根拠がなく、グアムに全軍移転する計画があったと指摘していて、アメリカの手の内も見えてきている。もちろん、首相が戦略や自覚もなく決断できないだけなら論外ですが……。

議論を避けてつくられていった「第三次安保」

自動延長による思考停止の始まった70年以降の手法は、沖縄返還協定の中身を日本側にシフトするものでした。条約や協定よりも下のレベルで手直しを積み重ねていった。78年は日米防衛協力のハイレベルな転換期で、ガイドライン(日米防衛協力の指針)という単なる実務的合意レベルの、国会承認も内閣の批准行為も必要ないところで、実質的には「第三次安保」がつくられていった。

このガイドラインの条文には、「主として」という言葉が何度か出てきます。日本周辺の対潜水艦作戦だけは海上自衛隊が「主体となって」行うとあるのです。1980年に鈴木善幸政権が成立しましたが、当時の朝日新聞は「防衛予算は海空重視」と書いています。P3Cや対潜型護衛艦を次々と購入し、海上自衛隊護衛艦の9割近くは対潜水艦〔仕様〕だった。これは一体何を意味していたのか。

レーガン時代、ソ連との激しい軍拡競争のなかで、アメリカはトライデント戦略核ミサイルを搭載した潜水艦を北西太平洋に配備していた。この構想はじつは、鈴木首相が表明したシーレーン1000海里防衛と一致します。つまり、日本の海上自衛隊が「主体となって」守ったのはシーレーンや日本本土の安全ではなくて、アメリカ核ミサイルだったのです。税金を使って、汚職までして100機ものP3Cをロッキード社から買いましたが、アメリカは日本の「自立心」をくすぐりながら、全体の枠組みをしっかり押さえていた。

冷戦後も続く「解釈改安保」

1989年に冷戦が終わって、ソ連の脅威が存在しなくなる。その後日本の安全保障政策の大規模な仕切り直しを方向付けたのが湾岸戦争でした。日本は自衛隊の海外派遣を検討し、ジョージ.H.W.ブッシュ大統領による「新世界秩序」は世界をNATOと日本にそれぞれ分割管理させる方向にシフトしていった。J・ガルトゥングの指摘にあやかれば、NATOの東方拡大とAMPO(安保)の西方拡大です。日本の位置づけも高まり、憲法の縛りは依然としてあったけれども、湾岸への掃海艇派遣からカンボジアのPKO 派遣等、徐々に実績を作っていく。

クリントン政権時の「日米安保再定義」は、第四次改定安保といえるかもしれません。とくに、1976年のクリントン−橋本の日米安保共同声明で、「アジア太平洋地域」の安全を担うと宣言したことは重要です。さかのぼると、岸信介首相は「極東の範囲」を問われた際、「フィリピン以北、グアム以西」だと答え、この範囲で活動する米軍に日本は基地を提供するというのが建前だった。ところが69年の日米共同声明では、台湾海峡の安全は日本の安全と一体といい、範囲が拡大します。そして、78年ガイドラインを経て、96年についにアジア太平洋にまで範囲が広がった。このときの新ガイドラインでは自衛隊の活動分野はかなり広がり、これにつづく99年の周辺事態法では朝鮮半島周辺で日本のコミットメント拡大が求められた。

内閣法制局は、必要最小限度の自衛力である自衛隊は合憲だけれども、集団的自衛権の行使は違憲であると答弁してきました。個別的自衛権の共同行使は許されても、日本が直接攻められていないのにアメリカが攻められたら反撃するのは違憲であるということです。これに関しNATO条約5 条は非常にわかりやすく、「一以上の締約国に対する武力攻撃を全締約国に対する攻撃とみなす」とあります。ドイツが攻められたら、イタリアもオランダも反撃するという意味です。日米安保の場合は二国間条約なので、NATOのような多国間条約と違って、とても密度の濃い「同盟」になってしまう。集団的自衛権を個別的自衛権のように「運用」してきたわけです。安保条約5 条には、「日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃」とあり、アメリカ本土は含まず、日本国内の米軍基地が攻撃されたときだけ。集団的手法が個別のそれと重なれる仕掛けです。安保条約はこのような矛盾を抱えたまま50年やってきた。この間の運用というのは、解釈改憲と同時に、解釈改安保の50年です。「極東」はグローバルに拡大したのに、「全土基地方式」は全く変わっていない。

リアリティのある安保論を

矛盾を抱える安保の論理として、「国内手続きの軽視」という観点を挙げましたが、砂川事件はその最たる例です。地位協定に基づく刑事特別法第2条は米軍基地の侵犯にかんするものですが、これにより、基地に立ち入った立川基地拡張に反対するデモ隊の一部が起訴された。1959年3月、東京地裁の伊達秋雄裁判長は、旧安保条約に基づく米軍駐留を憲法9 条2 項の戦力不保持に違反するという判決を出しました。今年の4月に入って外務省は、この判決をめぐる日米密談の文書を開示しましたが、マッカーサー駐日大使は、判決の直後に藤山愛一郎外相や田中耕太郎最高裁長官に面会して、この一審判決を早く取り除こうとした。大使は藤山に跳躍上告を示唆しました。高裁を飛ばして最高裁にジャンプさせる。刑事裁判では慎重な審理が必要なのに、結論を性急に求める異様さです。田中長官は「数カ月で結果を出す」と答えた。つまり、この時点で12月の砂川最高裁判決は約束されたようなものだったわけです。改定安保条約の調印は、その1カ月後、1960年1月19日です。司法までも取り込み、安保条約の論理が保たれたといえます。

こうした歴史を学びなおすことがとても大切だと思います。99年の時点で、岡本行夫氏は「残念ながら、圧力をかけさえすれば屈すると、日本ぐらい世界から思われている国は無い」(前掲書『安保条約の論理』)と語っていますが、こうした姿勢はDNA のように50年間にわたって日本社会に浸透していった。

かつて、いろいろな論客が安保絡みで発言しています。たとえば、80年代、江藤淳の『1946年憲法−その拘束』(文藝春秋)も今から読むと興味深い。憲法9条2項の抗戦権否認にこだわり、交戦権を持たない国は国家じゃないといいながら、アメリカによる検閲の分析を行って、ある種の占領思考の批判を展開しています。その時私たちは、憲法改正論ばかりに気をとられて反発を覚えたけれども、江藤淳は日本よ独立すべし、と言いたかったのだと思います。

そう考えてみると、かつての知識人たちは、日本という国のあり方について、安全保障について少なくとも正面から議論していた。今は、政治家も官僚も経済界も、安全保障条約を棚に置いて、目先の状況をひたすら案じているだけです。 裏返してみれば、安保の正当性の弱さは、逆に憲法の強さ、あるいは国民の反核感情の強さを意味しています。政権はだましだまし、正当性に欠ける選択をせざるを得なかった。

「ただ乗り論」と「ビンのふた」論

安保肯定派の人たちからは、「憲法によって武装できない日本を米国の軍隊が守ってくれているんだ。日本がもしも単独で自前の武装をしていたら、ものすごくお金がかかる」という「安保ただ乗り論」があるけれども、それは「アメリカみたいにやっていればお金がかかる」ということであって、軍事費がどれだけかかるのかは周辺諸国との関係で決まることです。また、安保条約をやめたら、日本に自立の軍隊が出来てかえって危険という、「ビンのふた論」もありますが、これも、あまりに主体性のない情けない話です。いかなる安全保障の方式を選びとるかは、その国の国民の判断であって、「ただ乗り」も「ビンのふた」も、いずれも日本を常にアメリカの下にみる受け身の議論です。「思いやり」という言葉を思いつくのも、そうした姿勢がしみついていたからでしょう。

1978年に金丸信氏が62億円で始めた思いやり予算は、95年の2714億円がいままでのピーク、今年の予算では1881億円。合計すると、一般国際法上、軍隊駐留国が負担しなくていい経費をこれほど国民の税金から出している国は世界史上にないと思います。高速道路から固定資産税、電気、ガス、水道まで全部ただ。5万人の実働部隊に家族4万4000人、合計9万4000人の軍人と家族が快適に暮らせる安保。フリーライダーどころか、これほど高くついた安全保障はない。しかも、米兵犯罪、騒音被害等々、むしろ安全を侵されているのではないか。これを安全保障のコストなどというのは、あまりに基地周辺住民を馬鹿にしています。

チャルマーズ・ジョンソンは、紛争があるから米軍基地があるのではなく、その逆であると指摘しています(『帝国アメリカと日本』集英社新書)。米軍基地を置くことが自己目的化し、基地を置くことで巨大な利権が発生し、紛争がなくなっては困るという倒錯した状況が生まれているわけです。基地政治(Base policy)という研究がアメリカにもあり、米軍基地の本質と実態をもっとリアルに診ていく必要があります。

日米に「共通の敵はいるのか」

安保肯定派は、70年代以降一貫して「安保のおかげで日本が経済発展を遂げ、大国の仲間入りをした」「安保の中身に手をつけると大変なことになる」という安保繁栄論を唱えてきましたが、思いやり予算の中身をちょっと見れば、怒りを覚えない日本人はいないでしょう。これこそ「事業仕分け」の対象にすべきです。同じ敗戦国でもドイツは、基地の環境保護規制を行うなど、主権国家として、アメリカに対して負担を要求してきましたが、日本は一切しない。

ビアスの『悪魔の辞典』(西川正身編訳、岩波書店)によれば、「同盟」(alliance)とは、「国際政治において、お互いに自分の手を相手のポケットに深く差し入れているため、単独では第三者のものを盗むことができないようになっている二人の盗人の結びつき」とあります。これは「日米同盟」にはそのまま妥当しません。「米国が日本のポケット、カバン、財布、手帳、パソコンの中まで手を深く差し入れているため、単独では日本が何もできないようになっている結びつき」です。同盟関係といいながら、一方的片思いの忖度構造。条件も期間も場所も限定されない不平等性を引きずっている安保条約に対して、江藤淳が日本は主権国家なのかと疑念を示したように、これは左派だけでなく右派も感じてきました。

それに対して、敵がいたからこそ、矛盾が覆い隠されてきたという面があります。北朝鮮の現在の体制を見れば明らかなように、敵をつくれば国民に文句を言わせないような、統合力が発生する。そういう矛盾を覆い隠して、冷戦時代に世論をつくってきたのは「ソ連の脅威論」でした。

私が北海道の大学に勤務していた80年代は、ソ連脅威論全盛期でした。ハルペリンというアメリカの国防省高官が、「北海道にはソ連軍は来ない」という趣旨の発言をして物議をかもしたことがある。当時すでにアメリカは海空重視でソ連の潜水艦やバックファイアー(ソ連の戦略爆撃機)の対処に重点があった。でも、陸上自衛隊は北海道上陸がなければ、機甲師団も戦車もいらなくなる。あわてて「ソ連軍、北海道上陸」が盛んにメディアに出てきました。統幕議長までやった人をヘリに乗せて、石狩浜や釧路あたりを飛ばして、「このあたりに上陸するでしょう」なんてテレビ番組があった時代です。つまり、戦車の生産を続けるという防衛利権が重要で、「敵」や「脅威」は後からつくられたのです。

基本的に「敵」というものは内にある。ミサイル防衛だってアメリカでもこれが外れることがあることは常識なのに、ひたすらアメリカ軍事産業とその政府を「敵」に回さないために、日本は導入に努めているわけです。

「国際テロリスト」というのも、チャルマーズ・ジョンソンがいみじくも言っているように、軍隊拡張のための方便です。相手が国家であれば、装備や兵員の数も割り出せる。手が見えず、どこに来るかわからないテロリストであれば、いくらでも装備を増やすことができます。不確実性や不安定性こそ、軍事産業の最高のモチベーションなのです。いまや、日本だけでなく、各国とも軍隊を維持する正当性の機軸も失い、本来的な防衛政策の根幹を失っているなかで、安全保障問題は、経済問題となってきた。「敵」が不断に存在してくれなければ経済的に困るわけです。

私は、「平和憲法の貯金」といっているのですが、日本はイラクで死者を出さないで撤退できた。実は、自衛隊がイラクで治安出動的な対応をしていた内部マニュアルを入手しました(拙稿「陸上自衛隊はイラクで何をやっていたか」『週刊金曜日』2009年10月30日号)。これを見ると、「復興支援」といいながら、日本はイラクで武器を使う寸前までいっていた。しかし、幸いにして死者を出さないで済んだ。これはやはり日本人を撃つところまで、イラク人は日本人に対する怒りがないからです。それだけ、現行憲法のもとで日本が対外的な武力行使を行ってことなかったことは大きい。この「敵のいない」日本はまだアメリカにとっては利用価値がある。同盟関係というのは、共通の仮想敵に対して結ぶものです。日本が本来仲良くできた相手まで、アメリカにむりやり敵に見させられているかもしれないのです。

「米国を忖度する日本」から離脱を

フィリピンでは、1991年に上院が在比米軍基地存続のための新条約の批准を承認しなかった。決断した上院議員たちは、フィリピンの将来を考えながら、米軍基地の存続を拒否した。その結果、クラーク空軍基地とスービック海軍基地が、工業特区になって経済的には発展していきました。そういう面を見ないで、「米軍が撤退してしまったので、南沙列島などに中国が進出してきたのに何も出来なくなった。米軍がいないとなめられる」というのは、すごく景気のよくなった居酒屋に対して、ヤクザのみかじめ料を拒否したことにいちゃもんをつけているみたいなものです。あの91年のフィリピンの上院の決断は間違っていなかったと思います。その後、2000年以降、再びもとにもどるような動きもありますが、1991年に一度米軍基地を拒否した事実は重く残ります。

NATO協定、日米地位協定、米韓地位協定を比べると、ドイツは90年代に改善をはかりました。韓国も交渉しています。日本だけが交渉せず、運用で乗り切ってきました。日本はアメリカを忖度しすぎるわけです。ドイツも韓国も交渉して、改善してきた。地位協定の点では、日本は表面上韓国よりも遅れてきたのではないか。

こうしてみると、むしろ米軍を撤退させたり、条件をつけたりする国があるなかで、日本はアメリカの「臣下」のような不自然な姿勢を続けてきた。これを「日米同盟の深化」と言い換えようとしている。そして、沖縄への異様な負担を今度は徳之島にまで広げようとして、全住民の過半数の反対にあった。沖縄も県民大会を成功させました。地方が発言を始めています。いちばんものを言わないで自発的服従の国だった日本がここで条件をつけたりする議論を始めれば、他の同盟国もアメリカも変わると私は思います。

各論に踏み込んだ議論を

ヨーロッパは、もう軍事同盟のNATOの出番はあまりありません。SEATO(東南アジア条約機構)、CENTO(バクダッド条約機構)、かつての軍事同盟は全部なくなってしまい、かろうじて残っているのが、ANZUS と日米安保です。日本だけが安定していたのが、今度の鳩山政権で不安定性と不確実性が日米関係に生まれたということは画期的なことです。

ヨーロッパでは地域的な集団安全保障の枠組みとして、OSCE(欧州安全保障協力機構)という56カ国による、仮想敵国をつくらない安全保障枠組みが存在します。そのために、NATOが必死に出番をつくったのがコソボ紛争(NATO空爆)です。敵をつくらない安全保障こそ最高の安全保障なわけで、そういう安全保障をアジアにどうやってつくるかという観点から、日米二国間の「濃すぎる」軍事同盟を薄めていき、地域的集団安全保障の枠組みにアメリカも取り込むことを考えるべきです。

安保条約のどの部分にどういうふうに問題を感じているかと各論部分にまで踏み込んだら、問題を感じていない人はいない。だから、そろそろリセットするなり、再交渉するなり、条件をつけるなり、新しい日米の条約関係をつくる。それは、私にいわせると、日米安全保障条約という軍事同盟である必要はない。日米友好条約などでもいい。少なくとも、日米新・新安保条約を再締結する必要はないと思います。もはや冷戦も終わった、アジアの環境も変わった、中国との関係も変わってきたなかで、新しい日米関係の再構築はまさに沖縄の普天間がいま火をつけているわけです。だから、普天間の解決の仕方次第では、その方向へ進むだろうし、失敗すればまた再定義、運用、3つ目のガイドラインでアフガンまで引っ張られていくことになるでしょう。いまはちょうど、その最大のチャンスではないかと思います。改定50年の今こそ、安保条約とその全運用をめぐる総合的な議論が行われるべきだと思います。

(インタビュー、2010年4月21日)

付記:水島「迎合、忖度、思考停止の『同盟』」『世界』(岩波書店)2010年6月号「特集・日米安保を根底から考え直す」巻頭インタビュー(88〜96頁)を転載。  なお、冒頭の写真は、 2004年8月の水島ゼミ沖縄合宿の際、米軍ヘリが墜落した沖縄国際大学 のロビーにあった写真パネルを撮影したものである。この写真は、同大構内に米軍が無断で進入し、学長はもとより、警察や消防の立ち入りまでも禁止して、事故現場の処理を行っている場面である。

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