大震災の現場を行く(2)――「避難所」になった女川原発 2011年5月16日

相馬市から国道6号を北上すると、まもなく海沿いの風景が一変した。日本百景の一つである松川浦(潟湖)が見えてきたが、一帯は土砂と瓦礫に覆われていた。大橋両側の道路も崩落している。ここは「白砂青松百選」にも選ばれた風光明媚なところで、「本当にきれいだったんですよ」と、28日のみ同行した藤野美都子さん(福島県立医大教授)がため息をつく。案内の白土正一さんは終始無言だった。

山元町を経て亘理町から仙台東部道路に入る。この道路の西と東(車からは左右)では風景がまったく違う。特に仙台市若林区の光景は、落差の大きさに驚いた。仙台東部道路は区内では5〜8メートルの高さがあるというから、実質的に津波を防ぐ役割を果たした。アンダーパスなどから津波が進入し、西側で被害を受けた地域も見えるが、この道路のおかげで被害がかなり減殺されたことは確かだろう。

実は、震災前、仙台東部道路を「津波の一時避難所」に指定するよう求める1万5000人分の署名が、区や「NEXCO東日本」に提出されていた。住民は、「避難所に指定されていたら助かった人がもっといた」と悔やむ(『毎日新聞』4月8日付)。道路管理者の立場からすれば、自動車専用道に住民が登るのは安全上問題があると考えるのが一般的だろう。もっと広い視野から、住民の要望を受けとめていたらと思うと残念でならない。

三陸自動車道を使って石巻市に入る。道路が片側交互通行のため、随所で渋滞に巻き込まれた。どこでも、津波による破壊のすさまじさに息をのむ。石巻市立門脇小学校。火災で黒く焼け焦げた校舎。焼け残った「すこやかに育て心と体」という看板が目に痛い。港に近づくと、何ともいえない異臭が鼻をつく。海鳥が群がり、旋回している

それにしても、各地で「道路一つで」という場面に何度も遭遇した。津波が到達したところと、しなかったところの落差があまりにも大きいのだ。石巻インター近くのファミレスが営業していた。昼食時のため満席に近い。サラリーマンやカップルが、ごく普通にランチを楽しんでいる。今まで見てきた光景との落差に戸惑う。その先の石巻日日新聞社を訪問したが、それについては次回に書くことにしよう。

石巻市から女川町に向かう国道398号は各所で寸断され、迂回を余儀なくされた。ここでも片側交互通行などで渋滞し、時間がかかる。国道や県道の番号も私が持参した地図と違っていて、かなり混乱した。この地図は出発の数日前に購入。表紙には「売り上げの一部を『東北関東大震災』の義援金として寄付させていただきます」というシールが貼ってあるのに、道路の番号が違うのだ。とはいえ、ここは被災地。白土さんの勘と運転の腕に頼るしかない。

一度、瓦礫の間を抜けて、まったく逆方向に行く道に入ってしまった。電気工事をしていた人たちに聞く。「原発?これをまっすぐ行ったところにあったけど…」と教えてくれた。だが、しばらく行ってもいっこうに着かない。白土さんは現役時代、女川原発に一度来たことがあり、海を左に見ながら走った記憶があるという。行く手から工事車両が来た。沖縄ナンバーだった。全国から応援隊が来ているようだ。U ターンして戻ると、さっき道を聞いた電気工事の人たちの車が見えてきた。改めて見ると、札幌ナンバーだった。

いったん女川港にもどり、「牡鹿コバルトライン」は通行止めのため、海岸沿いの県道41号に入る。道はかなり悪い。家が水没している箇所を通る。ここに生活があったとわかる品々が割れた窓の向こうに見える。何とも痛々しい。防災放送塔のかなり高いところに、漁具や浮き具が引っ掛かっている。周囲の木々は海水の塩分で枯れている。その場に実際に立ってみて、津波がどんなに巨大なものだったのかを実感する。背筋が寒くなった。途中、鹿と遭遇した。山に食べものがなくなって、人里に下りてきたのだろうか。

とにかく道路がひどいが、白土さんは落ちついたものだ。道路の陥没を巧みにかわし、瓦礫が積み重なる狭い道路でも、迷うことなく進む。暗くなる前に着くために、けっこう飛ばすときもある。「被災地では『夜間は走らない』が鉄則です」と話す。最近、知り合いの新聞記者が夜間走行して、レンタカーをだめにしてしまったという。

白土さんは、私の性格と癖をつかんだようで、写真を撮りたいと思った場所に差しかかるや、何も言わないのにスピードを落とす。これは本当に見事だった。決して無理せず、しかし、ここぞという時は急転回してでも、私にシャッターチャンスを与えてくれる。「長らくリスク管理の仕事をしてきましたから、先生を危ない目にあわさずに、しっかり震災を書き残していただくことが私の仕事です」と。そのプロの姿勢に、ただただ感謝である。

予定より時間はかかったが、15時40分、東北電力女川原子力発電所正面ゲートに到着した。白土さんは、受付の警備担当者と盛んに交渉している。この連載(1)でも書いたように、福島第一原発立地町の富岡町の生活環境課長(原発も担当)で昨年定年を迎えた方だが、郡山市の「ビックパレットふくしま」(富岡町、川内村の避難所)が現住所である。福島県原子力発電所所在町情報会議事務局を8年もやっておられたので、福島第一・第二や女川の所長クラスとも顔見知りである。そのことを受付で説明し、東京から来た大学教授を案内したいと、懸命に交渉してくれている。所長は外出中というので、しばらく待たされたが、何とか話が通じたらしく扱いが変わった。

正面ゲート受付に迎えの車がやってきて、原発内の事務建屋に案内された。所長代理と副所長が玄関で出迎えてくれた。会議室に通されると、お茶や説明の文書が3人分用意され、プロジェクターもスタンバイされている。
   文書には、私たちが到着した4月28日の日付で、「『東日本大震災』による女川原子力発電所の状況」というタイトルがついている。報道でだいたいのことは知っていたが、所長代理の説明のなかで、女川と福島第一の違いがいろいろと見えてきた。

所長代理によると、女川は敷地の高さが14.8メートル。地震で約1メートル地面が陥没し、そこに13メートルの津波がやってきた。余裕は80センチしかなかったので、1号機の屋外重油タンクが津波に倒され、2号機の原子炉補機冷却水系のB 系に浸水したものの、福島第一のような被害には至らなかったという。
   私は、女川ではなぜ、高い津波を想定することができたのかと聞いてみた。所長代理によれば、女川原発の敷地の高さは、津波が多い三陸の歴史を踏まえたものだという。東京電力よりも東北電力の方が、過去の津波経験をより重視する姿勢をとっていたようである。

それにしても対照的なのは東電福島第一原発である。最近の新聞報道によると、15メートルの大津波に襲われた福島第一は、その立地場所が、40年以上前、実は海抜35メートルの台地だったことが明らかとなった。建設当時、東電が国に提出した資料にそれが書いてあるという(『東京新聞』5月5日付)。この記事は一面トップ扱いで、見出しは「福島第一35メートル高台に計画 津波軽視25メートル削り建設」とある。せっかく高さが確保できていたのに、あえて削り取ったのはなぜか。理由は2つ。まず、地震に対応するため、25メートル下にある比較的しっかりした泥岩層にまで掘り下げる必要があると判断したから。もう一つは、原子炉を冷却する海水の取り入れやすさだった。ここには、津波に対する配慮が著しく欠けていることがわかる。これが今回の悲劇につながったように思う。
   『東京新聞』によると、福島第一の計画段階から関わった元東電副社長(87歳)は効率優先を後悔して、「今、考えると、台地を削らず、建屋の基礎部分を泥炭層まで深く埋めれば、地震と津波の両方の対策になったかもしれない」と語ったという。

この判断の違いは、所長代理も言うように、過去の津波の歴史や経験をどこまで重視したかによるだろう。東北電力は、東電よりもさまざまな点で地元重視だった、と白土さんは後で感想をもらした。それがはっきりあらわれたのが、震災当日、3月11日夜の被災者への対応だろう。

地震と津波で道路が寸断された女川町飯子浜地区や小屋取・塚浜地区の住民は、町の中心部に行けないため、それとは逆の原発方面に移動していく。そして、原発まで1キロほど手前にある「女川原子力PRセンター」周辺に集まりはじめた。PRセンターは電源が落ち、照明も暖房もない。あたりは暗くなり、雪も降ってきた。PRセンター周辺の状況について報告を受けた渡部孝男所長は、その場で被災者の受け入れを決断したという。すぐに原発のバスがPRセンターに向かい、集まっていた人々を乗せ、発電所内の体育館に収容した。体育館には暖房も照明もあり、被災した住民は飲み物や非常食などを与えられた。
   私たちに配られた説明書の第6項目「発電所周辺からの避難状況」。そこには、「津波により孤立した周辺の被災者を人道上の措置として発電所内に受け入れた。現在の発電所内の避難者数:約150名(最大:約360名)」とある。

私は、この受け入れ決断の過程について質問した。所長代理は、「地域の人々の顔はよく知っていますので、本人確認などはせずに原発内に受け入れ、あとで行政区長に名簿を出してもらうことにしました」と。これを聞いた白土さんが驚きの表情を見せた。原発に入るには、まず申請書に記入して、身分証明をきちんとするのが大前提。そうしたチェックをしないで原発内に入れたことについて、白土さんが「これは大英断でしたね」と言うと、所長代理は「日頃から地域の方々の顔はみんなよく知っていましたから(本人確認は)必要なかったのです」と答えた。

私はこの決断にあたって、事前に本社に許可を得なかったのかと質問しようとしたが、所長代理も副所長も「ずぶ濡れの住民の方々を追い返すことはできません。妊婦もおられた。人道的観点からその場で所長が決断しました」と、きわめて自然に語ったので答えがわかり、その質問はしなかった。後に白土さんに聞くと、同じ意見だった。「東電ではまず考えられないことです。東北電力はそれだけ地域に根ざしているということでしょう」。現場の決断を、本社も「人道的観点から」追認したのだろう。

さて、話は前後するが、私たちが女川原発に着いて受付で手続きをしているとき、ちょうど被災者の方々が手に袋を下げてゲートを入ってきた。5、6歳の幼児もいる。家族で買い物にいって、帰宅したような雰囲気だ。受付横に赤と白の塗装のバスが停まっている。何人かまとまると、体育館まで運ぶ。

この間気になっていたのが、『週刊金曜日』4月22日号の特集「命よりも電力なのか」の冒頭にあった、「まさか! 原発で暮らす避難者たち」という一文である。「1カ月以上経ったのに、子どもたちを含む多くの人々がなぜ今もいるのか」「被曝の影響を受けやすい幼児もいる」と書いていた。今回、実際に原発内で見たり聞いたりした結果、私はこれとは少し違う印象をもった。
   まず「被曝の影響」という点では、所長代理は説明のなかで、女川原発自体の放射線量は低く、また、福島第一原発事故の影響も少ないと語った。説明の文書には、福島第一原発事故の前後の観測数値が掲げられていた(ちなみに、私たちの訪問直前の4月26日は0.26マイクロシーベルト)。

白土さんによれば、3、4年前、福島県原子力発電所所在町情報会議の関係者らと女川原発を視察した際に、世界と日本の原発の放射線量を比較したランキング表を見せられたという。それによると、女川原発は世界でも3番目くらいに放射線量が低いとされていたそうだ。白土さんは、福島県と原子力安全・保安院、女川原発を所管する労働基準監督署もこのランキング表をもっているはずだというが、私自身その表を見ていないので断言はできない。ただ、女川原発を「避難所」としている被災者について、被曝の危険性をことさら指摘することは妥当ではないように思われる。

次に、地震からかなりたっているのに、なぜ原発から出ていかない人々がいるのかという点について。実は原発受付での手続きの待ち時間に、付近にいた1組の家族に質問しようとしたのだが、手続前で、警備担当者の心証を悪くしてはまずいと、あえてしなかった。少し前の新聞記事に、原発内に避難した被災者の声として、「行くところもない」「頑丈に作られているから安全と聞いていた」「家にも近いので、しばらくここで過ごしたい」などが紹介されていた(『産経新聞』3月27日付)。女川原発周辺の地区は道路事情が悪く、町の中心部への距離もある。このあたりが原発内にとどまっている理由ではないかと思う。

帰り際、事務建屋の玄関のところで、ちょうど仕事からもどった渡部所長とバッタリ。所長は白土さんを目ざとく見つけ、「お久しぶりです」と2人で話しはじめた。所長は南相馬市出身といい、福島弁である。
   所長らの見送りを受けて原発を後にした。車内で白土さんは、「私の経験では、東電は東京の電気を福島で作っているから、町長や商工会長らとは交流するけど、住民にまで広がっていない。そこへいくと、東北電力は地域に根ざしているなという印象です。こういう背景があってこそ、震災という非常時に、あのような英断ができたのだと思います」と語った。

私自身は女川を含めて脱原発の立場なので、原発の今後については白土さんと微妙に意見が異なる。女川原発でも、紙一重で重大事故に至らなかっただけで、決して楽観視できないだろう。ただ、東北電力女川原発がとった「人道的措置」の評価や、東電とは異なる「地元の原発」という意識と住民への日頃の姿勢が、究極の場面で活きたという点については、原発そのものの評価は別にして、白土さんの意見に私も同意できると思った。

次回は、石巻と大船渡の地方新聞について書こう。

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