原発のない社会へ――チェルノブイリから25年 2011年4月25日

【「大震災と自衛隊(2) 」は、都合により5月9日にアップする予定です。ご了承ください。】

25年前の4月26日(土曜)。私は朝から、当時勤務していた北海道の大学の研究室で、憲法記念講演(釧路市)の準備をしていた。この日午前1時23分(現地時間)、旧ソ連のW.I.レーニン記念チェルノブイリ原子力発電所4 号炉がメルトダウン(炉心溶融)を起こし、爆発。大量の放射性物質が大気中に放出された。当時の手帳によると、私がこの事故のことを最初に知ったのは、3日後の『朝日新聞』(4月29日付)だった。見出しは「ソ連で原発事故か。北欧に強い放射能」。まだ断定はされていない。北欧3カ国で通常の6倍の放射能が観測されたという間接情報である。
   翌30日付は地元紙も含め、各紙は一面トップから社会面まで使い、大きくこれを取り上げた。『朝日新聞』同日付には、資源エネルギー庁原子力発電運転管理室長が、こうした事故は「日本ではありえないだろう」と語ったことが記録されている。

あれから4分の1世紀。「ありえないだろう」とされたことが、日本でも起きた。「想定外」という言葉が多く使われるが、本当に想定できなかったのだろうか。原発建設・推進の妨げになるから、危険や事故の可能性への言及をできるだけ控えてきたのではないか。その意味では、想定内でも、想定外でもなく、あえて想定をしない、つまり「想定無い」の姿勢が強かったのではないか。旧ソ連の事故だから、「日本ではありえない」と思考停止してしまう。この姿勢が、長年にわたる原発政策の根底にあったように思えてならない。

チェルノブイリ事故の場合、運転員の制御ミスという人為的な原因だった。その2カ月後の『朝日新聞』(1986年8月29日付)に、福島第1 原発で、原子炉の水位が異常に高まり、運転が自動停止する事故が起きたという記事を見つけた。原因は「作業員の初歩的な配線ミスだった」。4分の1世紀前、大事には至らなかったとはいえ、日本の福島第1原発でも「人為的ミス」は起きていたのである。

「チェルノブイリ」という言葉は世界共通語になったが、その25年後に「フクシマ」が同じ扱いを受けることになってしまった。本当に悲しいことである。「チェルノブイリ」では、旧ソ連の隠蔽体質が最高度に発揮され、世界が事故を認識するまでに時間を要した。しかし、その前年に党書記長になったゴルバチョフは、「暴走する原子力という巨大な力とわれわれは衝突してしまいました」と世界に向けて率直に語った。ここから流れは変わった。世界各国の支援が始まった。「暴走する原子力」とのたたかい。その過程で、隠蔽体質のソ連は崩壊した。
   大災害というのは、その国の「体質」を赤裸々に映し出す。福島第1 原発事故も、日本という国のありようを世界に晒してしまった。とりわけ、東京電力という世界有数の巨大企業の、あまりにお粗末な対応(国との癒着体質)は、世界に驚きをもって迎えられている。

「スキャンダル企業」。ドイツのn-tvというテレビ局のサイトには、「スキャンダル・コンツェルン――Tepcoはさまざまな事件に刻印されている」という非常に激しい見出しが載った(http://www.n-tv.de/の3月15日の記事)。Tepcoというのは東京電力の略称だが、3 月11日以降、この言葉はドイツのみならず、世界中で知られるようになった。記事では、原発事故やそのもみ消しの歴史が詳しく紹介されている。結びには、「Tepcoは、原発事故、もみ消し、スキャンダル、事件に持ちこたえてきたが、差し迫る核惨事は、このコンツェルンそのものを揺るがせている…」とある。Tepcoの原発は17基。ドイツが現在保有している原発と同数である。

私は23年前、チェルノブイリ事故からちょうど2年目の春、建設中の核再処理施設(WAA in Backersdorf)近くに滞在するなどして、「チェルノブイリ」後のドイツを取材したことがある。その報告を『信濃毎日新聞』に4回連載した。タイトルは「『核』と平和――今日の西独 『チェルノブイリ』から2年」。先日これを読み返してみて、放射能に敏感になったドイツ社会がどのような「空気」だったのかを思い出した。野菜やミルクについての不安、母親たちの不安、将来への不安など、いまの東京の雰囲気に近い。
   ここでそれを要約して紹介することはせずに、下記に、新聞の記事をコピーしたものをリンクした。見にくいが、パソコンの拡大機能(+)などを使ってお読みいただければ幸いである。なお、冒頭の写真は、23年前にバイエルンの核再処理施設反対運動の方々から頂戴したものを額に入れて、ずっと書斎に飾ってきたものである。

「核と平和――今日の西独 「チェルノブイリ」から2年」
1.不安感が日常性に転化――反原発意識、劇的な変化も
2.「孫の世代のために」――再処理施設に反対する人々
3.底流にゲルマンの伝統――自然を愛するが故の反核
4.兵器も平和利用もまた――世論、ゆっくり脱却へ歩む

このレポートは、35歳の私の認識に基づくものであり、現在から見ればちょっと違う評価の部分もないではない。なお、細かい話だが、この直言と信毎の記事と、爆発時間が1分ずれているのは、制御棒が破壊されたのが1時23分49秒というのを当時どこかで読んで、それを切り上げて24秒とした記憶がある。それと後日談だが、私が訪れたバイエルン州ヴァッカースドルフ核再処理施設(WAA) 計画は、1989年4月に中止が決まった。反対派の逮捕者3326人、関連判決1000件、死者3人、負傷者多数、伐採された樹木80万本。「エネルギー利用は自然を破壊する前に、社会に暴力を加える」(I.イリイチ)。その後、この跡地には自動車工場や台所用品工場などが建設された。この下りは、拙著『ベルリンヒロシマ通り――平和憲法を考える旅』(中国新聞社、1994、絶版)からの引用である。この4回連載も、同書に加筆・収録されている。

今後、「チェルノブイリ」がヨーロッパを変えていったように、「フクシマ」は日本を大きく変えていくだろう。その兆候の一つは、東京・品川の城南信用金庫(http://www.jsbank.co.jp/)の、「原発に頼らない安心できる社会へ」というメッセージにもあらわれている。地域金融機関として、危険な原子力エネルギーに依存しない社会をめざして、省電力、省エネ、代替エネルギーのための設備投資を積極的に支援、推進していくという。断熱工事、緑化工事、ソーラーパネル設置など、支援する11項目も具体的に列挙されている。信用金庫の「脱原発宣言」であり、注目される。

そこで思い出したのが、2001年10月のアフガン戦争開戦直後、カリフォルニア州バークレー市議会が出したアフガン空爆停止決議のことである空爆停止や、テロを共謀した人々を国際社会とともに裁判にかけることを呼びかけると同時に、「テロリズムの温床となる貧困や飢餓、疾病、圧政、隷属といった状況を克服するため」の努力を求めるなど、開戦直後の決議なのに、視野が非常に広い。特に注目されるのは、最終項である。「5年以内に、中東の石油への依存を減らし、太陽パワーや燃料電池などの持続可能なエネルギーへの転換をめざすキャンペーンに、国全体で取り組むことを提案する」とある。
   自らが中東の石油に依存する生活を続けることがテロの原因をつくり出しているとの認識に基づき、開戦直後なのに、代替エネルギーへの転換を呼びかけているところが新鮮である。「代替」のなかには原発は入っていない。

「原発のない社会」への道は大変な労力と時間がかかるだろう。まだ、福島第1原発の事故処理さえできていない段階である。今後、福島をはじめとする各地の原発で作られる電力で暮らしてきた私たち一人ひとりが、「原発のない社会」へ舵を切る覚悟ができるかどうか。それは、自分の生活の中身を振り返り、暮らし方を考えていくことを不可避的に要求する。

トップページへ。