大震災の現場を行く(5)――陸前高田の人々 2011年6月13日

年は東北地方で4回講演した。その時知り合った方々が被災した。今回の東北行きでは、そうした人々とお会いしたいと思った。

そのうち、10月に盛岡市で行った岩手県中小企業家同友会の講演では、懇親会で、「これから陸前高田まで帰ります」「私は大船渡まで…」と挨拶された方たちがいた。私の頭には岩手県内の道路事情や距離感覚がなかったので、それら地名はそのまま聞き流した。だが、「3月11日」後、その方たちのことが気になっていた。東北各地の知人・友人にお見舞いのメールを送ったが、岩手からは返事がなかった。4月になり、岩手同友会事務局に電話すると、昨年の講演会に参加された方々はみな無事であることがわかった。

4月10日の日本テレビ「真相報道バンキシャ!」で、「再建への執念−老舗醤油店の1カ月」という現地ルポをやっていた。地元で創業200年の八木澤商店は津波で工場も店舗もすべて破壊された。しかし、この4月から2人の若い新入社員を迎えた。何気なく見ていると、入社式の会場として、陸前高田自動車学校が出てきた。背後には、「岩手県中小企業家同友会」の旗が。目を凝らすと、10月の講演で出会った方々がそこにいる。皆さん笑顔でがんばっている。この人たちに会いたい。そう思って陸前高田に向かったわけである。

宮城県松島町から、気仙沼市経由で陸前高田市に向かう。国道45号線(東浜街道)には、「津波想定」の標識があるが、それを超えて津波が到達したことがわかる
    気仙沼市に入ると、津波の破壊力に愕然とする。トラックが土手にのりあげ船が建物にぶつかり、車を潰している。ここでは火災の被害もひどい。たくさんの漁船が炎上した

車のなかから、昨年10月の講演で知り合った方たちに片端から電話を入れた。陸前高田自動車学校社長の田村満さんや大船渡の木材加工業熊谷秀明さんたちと電話がつながった。近くまで行ったら電話をすることになっていた。だが、気仙沼から陸前高田への国道45号線は各所で不通になっている。道路標識も臨時のため、いま一つわかりにくい。気仙沼市内で迷ってしまい、同じ渋滞に何度も巻き込まれた。人に道を聞くも、何度もまた同じ道に戻ってしまう。高台にあがると行き止まり。そこは市民会館だった。公園に桜が咲いており、鯉のぼりが泳いでいる。気を取り直して、再び破壊された市内をぬうように走ると、ようやく陸前高田に向かう道を見つけた。

陸前高田市内に入ると、ここでも津波のすさまじさに言葉が出ない。広大な地域が完全に破壊されている。最後まで避難を呼びかけたであろう消防車の無残な姿に、思わず手を合わせた。同市では、49人の消防団員が死亡・行方不明になっている。沿岸では海保の巡視船や海自の護衛艦、救難ヘリが遺体捜索活動をしている。そんなとき、がれきのなかに鯉のぼりを見つけた。何か心のなかをスーッと風が通ったような気分になった。

車を走らせるも、なかなか目的地に着かない。大阪府警広域緊急援助隊(交通部隊)の警察官が交通整理をやっているが、どこも大渋滞である。携帯電話で何度も田村社長に道を聞く。「がれきがずっと続き、それがちょうど途切れたところにコンビニ・ローソンの残骸があるので、その手前を左に入ってください」。これが非常に難しかった。がれきだらけで、「途切れる」という意味がわからない。間違った左折を繰り返し、そのたびにまたもとの道に戻る。建物を失うということはランドマークを失うことになるのだと実感する。

1時間ほどかかり、ようやく自動車学校に着いた。機動隊の人員輸送車や陸上自衛隊73式トラック、ボランティア活動の「緊急支援物資搬送中」のワンボックスカーなどが並んでいる。この地域の支援センターになっているという。被災者の車に自衛隊員が直接ガソリンを給油している

大船渡の熊谷さんはわざわざ陸前高田まできてくれていた。まもなく、私を探しに出ていた田村社長も戻ってきた。半年ぶりの再会である。そこに、10月講演ではお会いできなかった河野通平さん(八木澤商店社長)もきておられた。皆さん笑顔で迎えてくれた。陸前高田の状況について話をうかがう。大変厳しいなか、皆さん、それぞれの仕方で復興への道を目指しておられた。

田村社長さんは、陸前高田と平泉、遠野で3 校のドライビングスクールを経営している。自動車学校の性格上、18歳人口が重要である。だが、周辺地域の0 歳人口が毎年減少し、地域がなくなることに危機感を抱き、全国初のグリーンツーリズム融合型自動車学校を立ち上げた。日本農業の現状は危機的だが、田村社長は18歳人口問題と農業とを結びつけ、週末や連休に、無農薬野菜の栽培体験と教習ができるタイムスケジュールを組むなどして、自然豊かな地域で教習をしながら、「“安全”の小さな種を蒔く」という試みを続けている。

八木澤商店は津波で、江戸時代からのなまこ壁の蔵も、醤油製造に不可欠の杉の樽もすべて流された。しかし、河野さんは39人の従業員を一人も解雇しなかった。そして、新入社員2人を採用した。『朝日新聞』4月7日付は、「たると希望、見つけた」という見出しで入社式の場面の写真を入れて4段記事で伝えた。

創業1807年のこの会社は、岩手県産の大豆と小麦で熟成させた無添加の「生揚(きあげ)醤油」(ヤマセン醤油のブランド))で知られる。前述の日本テレビ「真相報道バンキシャ!」では、がれきのなかから古い金庫が見つかり、その前で河野さんが大喜びしているシーンがあった。私は、会社再建に必要な実印や貯金通帳などが出てきてよかったのだと勝手に思っていたが、今回、河野さんに直接話を聞くと、別の事情であることがわかった。実はあの金庫には、江戸時代からの醤油作りの古文書が入っていて、それが無事見つかり、大喜びしたのだという。別のテレビ番組では、震災から2週間後に、市内の山際で杉の樽が見つかり、河野さんが樽にこびりついている「もろみ」を削るシーンが放映された。それを大学の研究室に送って培養すれば、再び伝統の味を出せるかもしれない。テレビはそれを「希望」として伝えていた。その後、壊れた圧搾期からも「もろみ」が採取でき、大学の研究室で培養に成功したのだという。創業200年の伝統の味が復活する。

この日、わざわざ私に会いに陸前高田まで来てくれていた大船渡の熊谷さん。昨年の講演の際も懇親会でお話をして、自然や山に対するこだわりを強く印象づけられた。海から豊かな海産物がとれるためには、山を育てる必要がある。海に注ぐ川の上流に地道に植林する話は、かつてこの直言で紹介したことがあるが、熊谷さんも同様の問題意識である。「海と山をつなぐ―岩手の第6次産業を展望する」という講演もしており、「安全というキーワードで海、山、川、そして食が全てつながっている」と語る

昨年の岩手講演で知り合った方々は、すばらしい方たちだった。こういう人々がいる限り、地域は必ず復興するだろう、と思った。

次回の「大震災の現場を行く(6)――大槌町吉里吉里」で一応のまとめをして、この連載を終了する予定である。

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