大阪空襲訴訟地裁判決の意義 2011年12月19日

珠湾攻撃から70年がたった。「その時」は、日本時間では1941年12月8日(月)午前3時25分だが、日付変更線を超えたハワイでは、12月7日(日)午前7時55分であった。キリスト教国では安息日の朝だからこそ、奇襲になったわけである。その12月7日に、私が関わった大阪空襲訴訟の判決が言い渡された。地裁がこの日に判決を言い渡すと通告したのは7月11日だった。「真珠湾攻撃70周年」に絡む象徴的な日だけに、この約5カ月間、原告・弁護団だけでなく、私自身も、いくばくかの期待感をもって過ごしてきた。各地の講演でも判決に注目してほしいと語ってきた。だから、何とも残念な結果になった。

12月7日14時。大阪地裁202号法廷で言い渡された判決の主文は、「1.原告らの請求をいずれも棄却する。2.訴訟費用は原告らの負担とする」というものだった。原告にとっては敗訴である。弁護団が郵送してくれた判決は40頁。これに私の意見書を含む原告最終準備書面の要約が200頁にわたって添付されている。判決文は「大阪空襲訴訟弁護団のホームページ」から読むことができる。

判決は、空襲被害者に対して長期にわたって救済措置となる立法を怠ってきたことについて、憲法上の立法義務違反が認められるかという論点について、原告が主張した憲法上の複合的な権利の侵害の主張を退け、憲法14条(平等原則)を除いた各規定から、空襲被害の補償を求める憲法上の具体的権利を導くことは困難であるとした(29-31頁)。
   そして、憲法14条違反になるかどうかについて、判決は、戦争被害に対する補償を受けた人々(軍人・軍属、原爆被爆者など)と、補償を受けていない空襲被害者の原告との間に不平等が存在しており、それを是正する立法義務が国にあるという原告の主張を退けた(32-39頁)。

次の論点。憲法上の立法義務を根拠づける明確な規定を欠く場合に、国に条理上の作為義務が認められるかについても、判決は原告の主張を退けた。判決は、「条理」とは、成文法・慣習法・判例法などが欠けているときに裁判の基準となる事物の本性をいうが、本件のように憲法上の立法義務を根拠づける明確な規定を欠く場合に、条理により直ちに立法義務を認めることは困難であり、憲法上の立法義務と並立的に、条理上の作為義務に基づく立法義務を検討することには疑問があるとした。その上で、防空法に基づく退去禁止などについて言及しつつ、「条理上の作為義務として、被告に対して、原告ら空襲被害者を救済するための立法義務を根拠づけることはできない」と断じた(39-40頁)。

私の意見書と法廷証言の狙いは、もっぱら後者の条理上の作為義務を導くための「先行行為」をめぐる論点のうち、当時の防空法体制とその運用構造がいかなるものだったのかを明らかにすることだった。そこで以下、この判決全体の評釈ではなく、防空法体制について判決がどのように認定したかについて、若干コメントしておきたい。
   なお、この判決には他にもいろいろと論点がある。例えば、戦後補償裁判の判例のなかで形成されてきた、作為起因性の不作為責任の問題である。判決は結びの部分で、「原告らの条理上の立法義務違反の主張は、先行行為を原因とする、憲法上の立法義務違反の主張と解釈する余地もある」とした点などは、検討の「余地」がある。

判決は原告敗訴判決だが、上記の観点から「成果」を見て取るとすれば、まず第1に、被告・国の「防空法制が功を奏して被害は僅少で済んだ」という主張を排斥して、「認定事実」のところで、防空法体制が持っていた構造的問題性について、司法として初めて認定したことだろう。

裁判所は弁護団が提出した証拠に基づいて、戦時中の防空法体制について5頁を割いて詳細に認定している(11〜15頁)。防空法による退去禁止規定や、内務大臣の発した通牒「空襲時ニ於ケル退去及事前避難ニ関スル件」による退去させない指導についても、旧仮名づかいの条文をそのまま引用して認定している。この通牒は、「退去ハ一般ニ之ヲ行ハシメザルコト」を指導原則と定め、老幼病者についても退去を抑制し、これに反して退去する者には適宜「統制」を加えよというものである。防空法と同法施行令に続いてこの通牒を発することによって、国民を空襲の下に縛りつける法制度が確立された。通牒の発令日が「昭和16年12月7日」(真珠湾攻撃の前日)であることも、判決文は明記している。

応急防火に関する防空法改正や防空法以外の防空体制なども認定されている。隣組の組織化、防空体制に関する意識付けの変化などにも言及している。1941年の防空法改正にともなって、「防空壕」の呼称は「待避所」に変更され、その設置場所は床下や軒下とされたことも認定された。判決は、「待避ノ必要性ヲ強調スル余リ逃避的観念ヲ生ゼシメザル様厳ニ留意シ、焼夷弾落下等ノ場合ハ直ニ(待避所から)出動シテ自衛防空ニ任ズル」と国民に指導せよという通牒を引用し、判決自身の言葉として、「このような状況の下で、簡易で安全性の低い待避施設が全国で設置されるようになった」と書いている。

「空襲に関する情報の統制」の項では、予想される空襲における空襲目標などについての軍の判断を一般国民に伝達しないものとされ、「現実に空襲が開始された後も、新聞等ではその被害の実態は正確に報道されず、空襲被害者が、報道等によって他の空襲被害の実態を正確に知ることはできない状態にあった」と認定された(15頁)。

隣組や情報統制それ自体は防空法に基づく制度ではないが、国民がおかれた危険な状況を説明するうえで不可欠な事実である。裁判官はそのことを理解して判決を書いている。
   かつて名古屋大空襲訴訟において、防空法に基づく消火義務が争点となった。名古屋高裁は、消火義務は「空襲という戦時危難に際し、自己又は他人の生命、身体、財産等に対する被害を最小限に食い止め、これにより、社会一般の被害の拡大を防止することを目的とする」ものであり、軍人のような危険な義務を課したものではないと認定した(1983年7月7日、判例時報1086号111頁)。しかし、消火義務は国民の生命を守るものではなく、むしろ国民は「生命を投げ出して御国を守れ」と指導されていたのである。こうした実情を理解しない名古屋高裁に比べれば、今回の大阪地裁判決は視野が広い。退去禁止と消火義務を柱に据えつつ、空襲下の国民がおかれた状況を理解しようという姿勢がみえる。問題は、そのことが現在において国が立法すべき作為義務に結びつくか否かである。

条理上の作為義務と防空法との関連について、今回の判決は次のように述べている(39頁)。「被告が、…防空法を改正して退去を禁止できる場合を定め、原則として退去をさせないようにする趣旨の指示を直接的又は間接的に行い、隣組として防火活動をすることを求めるなどして、事前退去をすることが事実上困難といい得る状況を作出したことなどは、前記認定事実から認められるが、開戦や防空体制そのものは、戦時体制として、原告らのみならず国民一般に対して及んでいたものである。そして、開戦や上記の防空体制と原告らの主張する被害との関連をみると、退避せずに被害を受けた者、退避をしたが直接の被害を受けた者、肉親が退避しなかった者など、その先行行為が与えた影響も様々なものがあるのであって、このような事情を考慮すると、これらの全体を含めて救済を図るべき立法措置を執る義務を認める条理があるともいえない。もちろん、そのうち一定の範囲の者についてのみ立法義務を認めるべき条理というものも観念し難い」。

判決は防空法が退去禁止を定めており、実際に退去させない指導もなされたこと、また、「安全性の低い待避施設」を作らされ、多くの空襲被害者が「実態を正確に知ることができない状態にあった」ことを、裁判所として認定している。防空法体制の問題性について、裁判所としても問題意識を抱いたということだろう。ただ、逃げずに被害を受けた人や、逃げたけれど被害を受けた人など「被害もいろいろ」だから、「先行行為が与えた影響も様々なものがある」として、被害者を全体としても、一定の範囲においても、救済する立法措置をとるべき義務は、条理上出てこない、と早々に結論づけてしまった(39-40頁)。被告・国の「防空法が被害を僅少にした」という主張を退け、防空法がむしろ被害を拡大した可能性があることに踏み込みながら、しかし、被害の態様も「いろいろ」、先行行為への影響も「いろいろ」というところで思考を止めてしまったのである。

この点は原告側にも悔いが残る。防空法の構造的問題と「先行行為」との関係を、より緻密に論証できなかったことは率直に認めざるを得ない。その際、法廷での証言直前に気づいた青森空襲(1945年7月28日)のケースは重要である。これをもっと早い時期に主張にきちんと組み込んでいればよかった。青森県の金井知事が、防空法の退去禁止規定を根拠として、米軍の空襲予告を知って近隣に避難した青森市民に対して、市内に戻らなければ町会台帳より削除し、配給物資を停止すると通告したのだが、市民が戻る期限とされた7月28日の夜にB29が来襲。一晩で約730名もの市民が死亡したケースである。このケースは、逃げたけれど、権力者(県知事)に無理やり引き戻されて被害を受けた例である。配給物資を停止するという「脅し」が死につながった。これは、先行行為を構成する際に考慮すべき事実ではないだろうか。

第2にこの判決の「成果」として指摘できるのは、戦争損害受忍論をとらなかったことである。国民全体があまねく戦争に関わったのだから、全員が共通して受けた被害を甘受すべしというものである。かつて最高裁は、この考えに基づいて名古屋大空襲訴訟の上告を棄却した(第二小法廷1987年6月26日判決、判例時報1262号100頁)。
   今回の大阪地裁判決はこの議論をとらず、戦後補償と平等原則(憲法14条)との関係で次のように指摘した。「…戦争被害を受けた者のうち、戦後補償という形式で補償を受けることができた者と、必ずしも戦後補償という形式での補償を受けることができない者が存在する状態が相当期間継続するに至っており、上記の差異が、憲法上の平等原則違反の問題を全く生じさせないと即断することはできない」(31-32頁)と。これは完全な自由裁量論を採用したわけではなく、平等原則違反を導出する余地を残していると言えよう。

判決は、原告らが受けた多大な労苦や苦痛を考えれば「政策的観点において、他の戦後補償を受けた者と同様に、原告らに対する救済措置を講じるべきという意見もあり得るところではある」(38頁)とも指摘した。だが、そこまでである。結局、戦争被害は多様だから「多分に政治的判断に委ねざるを得ない」(35頁)というところで立ち止まってしまった。

戦闘で右腕を失った軍人と、空襲で右腕を失った民間人との間に、腕がないという点では差異はない。それを別異に取り扱わねばならない合理的理由が果してあるだろうか。
   「国会の立法裁量に逸脱があるといわざるを得ないような、明らかに不合理な差異」をこれまで続けてきたのではないだろうか。軍人・軍属と一般戦争被害者とを区別せず、例えば、右腕を失ったら同じ金額が出るという仕組みこそが合理的ではないか。

なお、この判決について、東京メディアの扱いはすこぶる鈍かった。全国紙・東京本社版の全紙にはベタ記事にすらしなかった。『東京新聞』だけが、社会面下3段見出しで報じた程度である。なお、『毎日新聞』大阪本社版は12月8日付社会面で、判決が、「原告が多大な苦痛を受けたことが認められる。政策的観点において、戦後補償を受けた者と同様に救済を講ずべきという意見もあり得る」と述べた点を紹介するとともに、防空法により消火義務を課して退避を禁じ、被害を拡大させたという論点についても言及している。『朝日新聞』大阪本社版は、「国の存亡にかかる戦争の損害は国民が等しく我慢しなければならない」という国の「受忍論」について判決が言及しなかったことに触れている。『神戸新聞』も4段見出しで紹介している。

社説ではどうか。『中国新聞』8日付社説が「被爆者援護法に『国家補償』が盛り込まれないことと根は同じだろう」と指摘している。『琉球新報』9日付社説は、防空法による防空義務の強化に言及し、「国民は空襲から逃げることが許されないという危険な状態に置かれていた。まさに国策による犠牲だ」と書いて、沖縄戦における「軍官民共生共死の一体化」方針と通底すると指摘する。他に、『神戸新聞』と『南日本新聞』の8日付社説、『西日本新聞』10日付社説などがこの判決を取り上げていた。

今年2月28日、大阪地裁の法廷で原告の証言を直接聞いた。皆さん高齢化しており、それぞれが66年以上にわたり、空襲の恐怖と痛みに耐えてきた。今後、国会において、すみやかに一般戦災被害者、あるいは空襲被害者等援護法を制定して、高齢化した被害者を救済すべきだろう。

《付記》写真は、集束焼夷弾とテルミット焼夷弾、銀色のものはドイツ空軍がロンドンに投下したもの。その下は、灯火管制用の「愛国防空カバー」赤玉ポートワインの防空キャンペーンである。

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