わが歴史グッズの話(26) 焼夷弾  2008年8月11日

「今でも私の嫌いな音はサイレン、プロペラ機の爆音、鉄橋を渡る電車の音、強い風と大きな火の燃える音。嫌いな言葉は警報、発令、空襲、B29、艦載機、召集、東部軍管区情報、等々たくさんある。嫌いな臭いもある。人間が焼かれる臭い、腐る臭い、錆びた鉄の臭いだ。…これらの嫌いなものに出合うと瞬時に思い描くものがある。まっ黒い空に、よく研いだ刃物のように光りながら切れ目なくゆっくりと飛ぶB29。その下に銀の小粒がばら撒かれていて、それが空一面の爆弾と焼夷弾だったのだ。多分その夜が1945年3月10日で、東京大空襲の日であったのだろう」(詩人・秋葉泰則「私の嫌いなもの――東京大空襲の記憶」『東京新聞』2008年3月5日付文化欄)。

  体験者でなければわからない「音」と「臭い」がある。女学校の生徒だった私の母は、勤労動員先の東亜飛行機(東京・立川)で垂直尾翼を作っていたとき、P51ムスタング戦闘機の機銃掃射を受けた。母は級友と、防空壕に向かって走った。一番最後に壕に飛び込んだ母のすぐ後ろに、機銃弾が迫っていた。間一髪のところで助かり、戦闘機はキューンと急上昇していった。今でも母は、小型機の急上昇・急降下の音を嫌がる。父の叔父も庭にいてムスタングに襲われたので、私が子どもの頃から身近で聞いた戦争体験は、機銃掃射の話が多い。なお、最近、私の生活圏で1トン爆弾が発見されたことはすでに書いた(「『63年前の不発弾』の現場へ」)

  映画で機銃掃射の恐怖をリアルに描いたのは、名作「禁じられた遊び」(仏、1952年)である。少女(ポレット)をかばって伏せた両親の背中を、ドイツ空軍のフォッケウルフFw190の機銃掃射の弾列が走る(ただ、Fw190の実戦配備は、映画のなかの想定より1年4カ月後なのだが)。その場面の少し前に、ユンカースJu87急降下爆撃機(スツーカ)がキューンと舞い降りて民衆を爆撃するシーンもある。この名作は、民衆が「空から襲われる」(「空襲」)恐ろしさを描いた作品としてもすぐれていると思う。


  さて、「音」と違って、「臭い」を再現することはむずかしい。人間の腐敗臭(死臭)は「涙が出るほど強烈」といわれ、映画などでは、「思わず顔をしかめる」という形で、間接的にしか表現できない。子どもの頃は、ドライアイスが普及していなかったこともあり、真夏の葬式で、お棺を開けたとき、猛烈な死臭が立ちのぼり、思わず声をあげそうな体験をしたことがある。あの臭いは今も鮮明に覚えている。戦場や空襲後の「臭い」はあんなものではないだろう。近年の映画は、極端な効果音や震動で観客を驚かせるが、さすがに「臭い」の再現は憚られよう。

  空襲ものでは、2008年3月10日21時からTBS系列で放送されたドラマ「3月10日・東京大空襲――語られなかった33枚の真実」が印象に残る。仲村トオルが写真家・石川光陽を演じた。当時警視庁の写真係だった石川が、「記録として空襲直後の現場の写真を撮れ」と命じられて、空襲警報とともに現場に向かう。涙を流しながら、空襲犠牲者の写真を撮り続ける。戦後、GHQに呼ばれた石川は、それらの写真の提出を求められたが、これを拒否。ネガを自宅の庭に埋めて守り通した(その作品は、石川光陽『東京大空襲の全記録』岩波書店など、私の書庫にも何冊かある)。この番組では、「音」や「臭い」の表現にも工夫がされていた。しかし、黒こげの死体の山が発する「臭い」は想像するしかない。この番組で今までにない描き方がされたのは、焼夷弾が屋根を突き破り、畳に突き刺さって、一瞬の間をおいて火炎のゲルをまき散らし、家族がその前で恐怖におののくシーンである。焼夷弾の怖さのディテールをここまで描いたものは珍しい。
   なお、番組には、米空軍のカーチス・ルメイ少将も出てくる。彼が、紙と木から出来ている日本の家屋に対する、大規模な焼夷弾攻撃を発案し、実行した。東京大空襲で10万人を殺戮したこの人物は、戦後、航空自衛隊育成の「功」により、勲一等旭日大綬賞を授与されている


  ところで、私は焼夷弾の実物を3種類もっている。
   第1のタイプは、東京大空襲などで用いられ、たくさんの人々を焼き殺したE46集束焼夷弾の小爆弾M69である。親爆弾E46には、M69が48発入っており、空中で親爆弾が割れて、広範囲にばらまかれる。集束焼夷弾は、今風にいえば「クラスター弾」である
   第2のタイプは、M69よりひと回り小さいテルミット・マグネシウム焼夷弾である。これは、1945年7月に岐阜県大垣市に投下されたもので、地元の古道具屋から購入したものである。
   そして第3のタイプは、ヘルマン・ゲーリングのドイツ空軍がロンドン空襲のときに使用した焼夷弾である(なお、V-1リーフレットもある)。これに対する報復として、ドレスデン空襲をはじめ、英・米空軍による無差別爆撃はドイツの民間人に大きな被害を与えた。近年、「ドレスデンの悲劇」について、ようやくまともに語ることができるようになった
   焼夷弾を使って人口密集地域を無差別かつ系統的に炎上・破壊する行為は、「防守セサル都市、村落、住宅又ハ建物ハ、如何ナル手段ニ依ルモ、之ヲ攻撃又ハ砲撃スルコトヲ得ス」と定めたハーグ陸戦条約(1907年)25条に反する。住民に対して、事前に伝単(チラシ)をまいて空襲予告をしたとしても防空法により住民には自主的な退去が認められていなかった。日本側の法的仕組みなどを十分研究していた米軍は、そのことを熟知していたはずである。しかも、焼夷弾や爆弾の「在庫一掃セール」のように、8月に入ってからも空襲を続けている。秋田への空襲は8月15日の前日から始まった

    では、焼夷弾攻撃に対する日本側の対応はどうだったのか。これは「防空法制の研究」で詳細に述べているので省略したい灯火管制グッズについてもすでに紹介したが、その後、さまざまな種類の「防空カバー」を入手した。灯火管制グッズは、他にも「防空電球」も手に入った。巨大爆撃機により焼夷弾を大量投下する米軍に対して、日本側がこのような素朴な手段でしか対応できなかったことは、哀愁すらただよう。防空演習で使用した東京・小石川区婦人会のたすきやメガホンも「わが歴史グッズ」として研究室にある。研究室のドアをあけるたびに、このメガホンが軽い音をたてる。そのとき、早稲田に隣接した小石川町内を「空襲警報発令」と叫んでまわった人のことを思う。そして、早稲田大学も空襲を受け、大学の建物が被害を受けたことも。「グッズ」は現代に生きる私たちに、無言で問いかけてくる。

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