憲法研究者と安保関連法――元最高裁判事・藤田宙靖氏の議論に寄せて
2016年3月7日

写真@

3月5日、盛岡市で開かれた岩手弁護士会主催「東日本大震災5周年県民集会」で講演した。テーマは「憲法に緊急事態条項は必要か――立憲主義、新安保法制、大災害との関係で」である。在外研究でドイツに出発する直前だったのでお断りしようとも思ったが、震災5周年にズバリこのテーマということでお引き受けした。岩手弁護士会の講演は3回目になる。第1回は2012年11月に「大震災と憲法」、第2回は2014年10月に「集団的自衛権行使の何が問題か」だった。3回目の講演の3日前、安倍晋三首相が初めて、憲法改正を「私の在任中に成し遂げたい」と言い切った(3月2日参議院予算委員会)。党則改正で自民党総裁任期を延長しない限り(可能性はある)、2018年9月までに憲法改正を行うという決意表明である。9年前の2007年7月28日、新橋駅前で、「最後のお一人にいたるまで、責任をもって年金をお支払いすることをお約束します」と演説したその46日後に政権を投げ出した人物の言葉だから、参院選の結果次第では、「歴史は繰り返す」という言葉がリアリティをもってくるかもしれない。だが、楽観は禁物である。

今月29日に安保関連法が施行される。昨年9月19日、強行採決により成立したもので、この「直言」でも直ちに「安保関連法廃止法案」を出すことを呼びかけた。成立から5カ月、今年2月19日になって、ようやく野党は「廃止法案」を国会に提出した。だが、「統合運用」という錦の御旗を獲得した統幕を軸に、すでに「前倒し施行」ともいうべき状況が現出している。メディアには、政権の恫喝と懐柔にめげることのない、しっかりとした取材と報道による監視が求められる所以である。

さて、この安保関連法をめぐっては、昨年6月の衆院憲法審査会で3人の憲法研究者が「違憲」という見解を表明して以来、憲法研究者という存在が俄然注目されるに至った。メディアは個々の憲法研究者の意見だけでなく、違憲・合憲の見解分布を競って取材・報道するようになってきた。「国会で全憲法学者を調査せよ」などという主張も新聞に載った(『朝日新聞』2015年6月23日付オピニオン欄)。たまたま私は全国憲法研究会の代表を務めていたときだったので、学会としてアンケート調査に協力してほしいという依頼は断った。その時の対応については、下記の通り「直言」で書いておいた

…一人ひとりが自由に研究し、発表する学会においては、特定の政治課題において意見表明を個々の研究者に求めることは、自由な研究の雰囲気を損なうおそれがある。学会の運営に携わる立場からは、これは運営委員会に諮って決める事項だが、緊急を要するため、事務局長と相談して申し出をお断りした。海外のメディアからも、代表としての私に取材申し込みがあったが、これもお断りした。…

写真2

その後、NHK、テレビ朝日、TBS、東京新聞、朝日新聞が、個々の憲法研究者に対してアンケートなどの方法で取材してきた。圧倒的多数の研究者が違憲と回答したことが報じられるようになった。だが、最も母数の大きい調査をやったNHKの調査結果がいつまでたってもニュースの形で公表されず、唐突に「クローズアップ現代」でほんの一瞬、映像化された。私はそのアンケート調査の結果を円グラフにして「直言」で公表した。国会では、この円グラフをそのまま拡大コピーしたパネルで政府を追及する野党議員もあらわれた。この頃、私は各種メディアに出て、安倍政権の安保法案ごり押しを批判していたが、高村自民党副総裁から思わぬ「反撃」をくらうことになった。私を名指しで、「100の学説よりも一つの最高裁判決だ」というわけである。憲法研究者の多くは、それぞれの学問的方法論や見解の違いを超えて、安倍政権の、立憲主義を壊す乱暴な統治手法に対して、やむに已まれぬ思いで異を唱えたのである(写真は、2015年7月26日、弁護士会館での日弁連、全国52の弁護士会、立憲デモクラシーの会などの合同記者会見)。

安保関連法が成立してまもなく半年というタイミングで、法律学の研究者や法律実務家間で一つの論文が話題になっている。元最高裁判所判事の藤田宙靖氏(東北大学名誉教授、行政法学)が、『自治研究』2016年2月号に寄せた「覚え書き――集団的自衛権の行使容認を巡る違憲論議について」である。日本法律家協会の機関誌『法の支配』誌上に掲載を希望したにもかかわらず、編集委員会が掲載見合せを決めた「いわくつきの原稿」〔ご自身の言葉〕である。藤田氏は「元最高裁判事が新安保法制を素材にして書いた論稿を現職の裁判官・検察官に読ませることができない、と言うことであろうか?」と疑問を提示し、「「日本協会」〔傍点原文〕そして「法の支配」の名が泣く、真に情けない話であると言わざるを得ない」と論文公表に至る経過について書いている(藤田論文〔以下、論文という〕29頁注16)。

この論文は、安倍政権による「7.1閣議決定」と安保関連法案の国会提出について「「立憲主義」を前提とする憲法学者の想定を超える程に「非常識」な政治的行動であった」ことを認めつつ(論文4頁)、専門の憲法研究者からの疑問や批判を「一切取り上げようとせず、強引に法律の早期成立にまで持って行った安倍政権の政治姿勢に対する怒りの表現であるということが出来る。このような思いについては、私もまた、その殆どを共有するものである」(論文25頁)と述べて、安保関連法の強行成立に批判的な立場を隠さない。法案審議中に執筆されたが、政権の意向を忖度した編集委員会によって『法の支配』誌に掲載されることはなかった。もし、国会審議中に公表されていたら、メディアは「元最高裁判事が安保法案に疑義」という形で報道していたことだろう。しかしながら、2016年2月に『自治研究』公表されたとき、この論文が注目されたのは、安保関連法(案)に反対の論陣をはる憲法研究者に対する批判を含んでいることだった。

藤田氏はいう。「7.1閣議決定」と安保関連法(案)が、「如何なる理由により、如何なる意味において憲法に違反するかにつき、明確にして精緻な理論的説明がなされ」なければならないのに、「憲法学者を始めとする学識経験者(内閣法制局長官OBを含む)によるこれまでの説明に触れる限り、必ずしも、一貫した精緻な議論が展開されているようには感じられない」(論文5頁)と。「公法学の世界に身を置く者として、やむに已まれぬ思いで筆を執った」(論文25頁)という。

写真3

この論文で主に批判の対象となっているのは、憲法審査会で「違憲」と発言して以降、メディアに頻繁に登場するようになった長谷部恭男氏と石川健治氏、それに木村草太氏である。公法学の研究者であれば必ず目を通す『公法研究』の学界展望「憲法」の冒頭で渡辺康行氏に紹介されている拙著『ライブ講義 徹底分析! 集団的自衛権』(岩波書店、2015年)に対する言及はない。拙著はタイトルの「軽さ」もあってか、お目にとまらなかったようである。だが、藤田氏の提起した問題について、拙著と「直言」のなかで私なりに答えてきたつもりであるので、以下では拙著の該当頁を示しながら、藤田氏の提起した問題に回答していくことにしよう。

まず、「7・1閣議決定」は、集団的自衛権と個別的自衛権とが「重なり合う」なかで、個別的自衛権の範囲の一部を集団的自衛権と呼んでいるだけであると主張する木村草太氏の議論の問題性について、藤田氏の論文でも指摘されているので、先に言及しておきたい。

藤田氏が引用する木村氏の議論はこうだ。「14年7月1日の閣議決定は、集団的自衛権を行使できるとの解釈に変更されたと説明されることも多いが、それは憲法論的には取り得ない解釈だ。あくまで、ある武力行使が個別的自衛権としても集団的自衛権としても国際法上説明可能な場合に限り、集団的自衛権に含まれる武力行使が許されるに過ぎないと理解すべきであろう」。これに対し、藤田氏は次のように批判する。「問題を立法事実の上で見る限り、少なくとも今回の閣議決定そして法案自体が目的とするものは、木村教授が上記に言う範囲のものに止まるまい。安倍政権の言う「解釈の変更」は、従来の政府見解の下では「個別的自衛権」しか認められず、それ故に解釈を変更しようというものであるから、理論的に言えば、その目的は、上記のようなケースを越えて、更に自衛のための武力行使ができるようにしようというものであることとなる筈である。このことは、。」(論文29頁注15)と。

木村氏の特異な主張については、直言「「7.1閣議決定」をめぐる楽観論、過小評価論の危うさ」や拙著『ライブ講義』 の68、73、75、81-82頁、『沖縄タイムス』オピニオン欄の拙稿などで批判してきた通りである。また、木村氏の説が、10年以上前にすでに質問主意書で提起され、政府答弁書で否定されていた、およそ「新手」とは言えないものであることも「直言」で明らかにした。個別的自衛権か集団的自衛権かは二者択一の関係にあり、ある武力行使が個別的自衛権行使でも集団的自衛権行使でもあるということはあり得ず、両者が重なり合うことはない。「7・1閣議決定」は、端的に集団的自衛権行使を認めたのである。このことを藤田氏は、「木村教授自身も亦結果的に、認めるところとなっている」と的確に指摘している(上記注15)。木村氏の主張の破綻は明らかだろう。

しかし、他方で、藤田氏は、「重なり合っている」という木村氏の主張を「法律の条文の意味を解釈するに当たり、文言、立法者の意思・立法の背景等々、種々の立法事実の何を重視するかという、解釈方法論の問題」として、「こういった解釈の一例であろう」という(論文23-24頁)。裁判所が法律の合憲性を審査するに当たっては、法案の提案者の発言に縛られる必要はないのは当然である。だが、安保法制の法案については、内閣法制局を含めて官僚たちが総がかりで従来の法制執務を踏まえて厳密な分析の下に閣議決定と法案の文言を選択し、集団的自衛権行使ができるように憲法解釈を変えると断言した上で、そのつもりで閣議決定と法案の文言を書いてきたわけである。そのような閣議決定や法案を現在進行形で審議している最中に、それを「提案者の発言から独立して、法案の文言を厳密に分析することが必要であり、安保法案は個別的自衛権行使の範囲内だ」と主張したところで、そうではないとする政府と議論はかみ合わない。それどころか、木村氏の主張に応じて政府が「この法案は個別的自衛権行使を認めただけである」と見解を改めて採決に応じるはずもない。見解を改めるくらいなら、政府ははじめからこのような法案など提案していないだろう。従来の法制執務の積み重ねに則って起案され、内閣法制局が審査をした閣議決定や法案の文言を客観的に読むことと、客観的に読めば違憲になるので合憲となるように文言を読み替えるということは全く違う作業である。

善意に解釈すれば、木村氏は後者を戦略として採用したのかもしれないが、法案審議の段階では、違憲の法案は否決や修正により是正の可能性がある以上、端的にその違憲性を指摘すればよく、政府の行為をチェックする側がわざわざ「合憲限定解釈」的に当該法案を合憲となるように読み替えてやる必要はないのではないか。「合憲限定解釈」は、法律が制定された後に当該法律をなるべく違憲・無効としないために行う事後的救済の解釈技術であり、いくらでも是正が可能な法案審議の際にその発想を持ち込むのはいかがなものか。そうでなく、あくまでも文言上客観的に「重なり合っている」としか読めないというのであれば、木村氏の実定法の読み方の作法を疑わざるを得ない。

木村氏は、「重なり合っている」という特殊な自説を主張することによって、閣議決定の違憲性に対する、事実上、過小評価となる楽観論を広め、本来、端的に「閣議決定は違憲である」と正すべきところ、これを弱め、曖昧にする「効果」を発揮したのである。政府解釈が半世紀以上も違憲としてきたものを、一昨年の閣議決定により合憲なものにひっくり返した安倍政権の狼藉(藤田氏のいうところの「憲法学者の想定を超える程に「非常識」な政治的行動」〔論文4頁〕)を、解釈技術の提供で合理化した責任は免れない。半世紀以上昔の「法解釈論争」で来栖三郎が問うた「解釈者の責任」の問題にもつながることをここで改めて強調しておきたい。

写真5

その上で、藤田氏の論文の検討に戻ると、藤田氏は、「法規範論理上のルール」を「公理」として、「公理(1)」「公理(2)」「公理(3)」を挙げ、憲法研究者の側にそれを「明確に踏まえた上での理論的展開が、必ずしもなされていない」という(論文5頁)。

「公理(1)」は、憲法解釈も「法解釈である以上、仮に従来のそれが誤ったものであるとすれば、それを正しいものに改めるのは当然であって、それが許されないということは、法理論上本来あり得ない」ので、「このような変更が許されるかどうかは、本来全て「従前の解釈が誤ったものであったか否か」に掛る」とするものである(論文5頁、6頁)。

「公理(2)」は、「内閣法制局は、内閣の補助機関であり、内閣の法解釈を「助ける」に止まるのであって、内閣が法制局の見解に法的に拘束されるという法理は、我が国の現行法制上存在しない」(論文6頁)とする。「内閣がどのような法解釈を採るのかについての最終的な責任者は内閣総理大臣である私である」という趣旨の安倍首相の発言も、「(真に謙虚さと節度を欠いた発言ではあるが)法理論的に背理である訳ではない。」(同)という。「公理(3)」は、「憲法法規の内容について、国家としての最終的判断権を持つのは最高裁判所であって、他の国家機関による法解釈は、その意味において、国家の判断としては暫定的なものである。まして内閣法制局は、〔…〕単なる補助機関であるに過ぎず、決して「憲法の守護神」ではない。この意味において、巷でしばしば用いられる「解釈の変更による改憲(解釈改憲)という言葉は、甚だミスリーディングである。」(同)というものである。先に「公理(2)」と「公理(3)」についてコメントすると、いずれもそれ自体は藤田氏の指摘の通りであり、拙著『ライブ講義』では、「閣議決定は立憲主義の破壊」(拙著46頁以下)で同趣旨の指摘をしている。

「公理(1)」に関して、藤田氏は、「仮に「間違った解釈」を改めるものであったとしても、一度確立した解釈は許されない、ということが、果たしてまた如何なる理由においてあり得るか」(論文7頁)を問い、「憲法によって縛られる政府が、自らの手によって従来の憲法解釈を変更するのは、立憲主義に反する、という理屈」は、「それだけでは余りにも粗雑である。」という(同)。そして、憲法研究者や政府の9条解釈についての「これまでの積み重ね」を主張してきた内閣法制局を批判した上で、「問題は、結局、旧解釈は(少なくとも現時点において)誤った解釈であると言えるか、という〔…〕問題に帰することとなる」という(論文13頁)。

拙著『ライブ講義』では、「閣議決定は立憲主義の破壊」の節の最後をこう締めくくった。「長年にわたる議論の積み重ねとその定着は、憲法解釈を変更する際の高いハードルとなり得ます。集団的自衛権の行使を合憲とすれば、1954年以来の「自衛力合憲論」が根拠になっている自衛隊の存立を覆してしまいます。言い換えれば、自衛隊は、皮肉にも集団的自衛権が行使できないことによって、政府の憲法解釈上その存在がギリギリ担保されているのです。」(拙著50頁)と。

藤田氏の指摘の通り、「今回の事態を巡る憲法問題は、結局のところ、集団的自衛権の行使を容認する閣議決定及び法案の内容自体が憲法の正しい解釈と言えるか否かという、実体法上の問題を抜きにしては、論じ得ないものと言わなければならない」(論文16頁)からこそ、『ライブ講義』では、政府による9条解釈の「長年にわたる議論の積み重ねとその定着」を紹介しつつ、最後は自衛隊合憲論と密接不可分である集団的自衛権行使違憲論という実体法上の問題を指摘して締めくくったのである。「これまでの解釈の積み重ね」という議論は、集団的自衛権行使は違憲であるという実体法の解釈を前提にして主張されてきた議論なのであって、「積み重ね」だけをもって安倍内閣の行為を批判しているわけではないことに注意を喚起したい。

藤田氏のいう「実体法上の問題」については、何度も指摘してきたこと(例えば、拙著57頁以下の「集団的自衛権行使容認は「自衛隊合憲」の存立根拠を崩す」参照)だが、1983年2月22日の衆議院予算委員会で角田内閣法制局長官が、集団的自衛権の行使を憲法上認めるには「憲法改正という手段を当然とらざるを得ない〔…〕そういう手段をとらない限りできない」と極めて明快に断言したのには理由がある。大森政輔内閣法制局長官の次の答弁は、事柄の核心を最も端的に表している。「自衛隊は合憲である、しかし必然的な結果といいますか、同じ理由によって集団的自衛権は認められない」(1999年5月20日参院日米防衛協力指針特別委)。

「7.1閣議決定」前の政府解釈によれば、憲法は、「我が国に対する武力攻撃が発生した場合にこれを排除するための必要最小限度の実力の行使」を除き、すべての武力の行使を禁じている。集団的自衛権行使は、「我が国に対する武力攻撃が発生していないにもかかわらず外国のために実力を行使するものであり〔…〕自衛権行使の第一要件、すなわち、我が国に対する武力攻撃が発生したことを満たしていない」(2004年1月26日衆院予算委 秋山收内閣法制局長官)ため、「自衛のため」に当たらない。「自衛のため」に当たらない武力行使ができるように解釈変更を行うのであれば、「自衛」隊の存立根拠の説明に連動し、1954年以来政府がとってきた「自衛のための必要最小限度の実力」という「自衛」隊合憲論の論拠を捨てることを意味する。つまり、「自衛」隊合憲論の論拠である「自衛のための必要最小限度の実力」という解釈を変える必要がある(拙稿「第9条 戦争の放棄」小林孝輔・芹沢斉編『基本法コンメンタール憲法』〔第5版〕日本評論社、2006年49頁参照)。

では、自衛隊を合憲とする論拠を変更できるか。政府は、「憲法第九条の文言は、我が国として国際関係において実力の行使を行うことを一切禁じているように見える」(2004年6月18日答弁114号 対島聡衆議院議員)ということを認めている。政府は、憲法にない概念である個別的自衛権を持ち出してきて、個別的自衛権を行使するため、「自衛のための必要最小限度の実力」であれば、憲法上ギリギリ認められるとしてきた。「一切禁じているように見える」なかで、仮に何とか自衛隊の存在の正当化の理屈をひねり出すとすれば、個別的自衛権がせいぜいであり、「自衛のための必要最小限度の実力」という解釈そのものを変更することは不可能である。政府解釈で、集団的自衛権の行使を違憲としていることが、自衛隊の存在を担保してきたが、自衛隊をギリギリ合憲としてきたこの「屁理屈」を、集団的自衛権行使容認により、安倍政権は壊したわけである。

藤田氏はまた、「実体法上の問題」について、「まず検討されなければならないのは、安倍政権が、従来の憲法解釈の「変更」をいう時、そこで意味されている「変更」とは、理論的に正確にはどのようなことを意味するか」(論文16-18頁)として、「三通りの考え方」を示す。まず、「変更(1)」は、「集団的自衛権の行使は認められないとする従来の解釈(以下「旧解釈」という。)は、憲法九条の解釈としてはそもそも間違っていたので、改めて正しい解釈を行う、というもの」である。「変更(2)」は、「旧解釈は、かつては正しいものであったが、現在では状況の変化により誤ったものとなったので、新しい状況に適合した解釈を新規に行う、というもの」。「変更(3)」は、「旧解釈は、現在でも基本的に誤ったものであるとは言えないが、現在の状況により即したように、その内容を一部解釈し直す必要がある、というもの」である。

「変更(1)」に関して、藤田氏も、自民党および政権(特に高村自民党副総裁)の理屈として、恐らく「(1)憲法九条の下でも、自衛権に基づく武力行使は許される。(2)自衛権に基づく武力行使は、国家の存立を守るために必要最小限度のものでなければならない。(3)上記の範囲内にある限りにおいて、個別的自衛権のみならず集団的自衛権の行使も憲法上許される」(論文18頁)とするものだろうという。おそらくそうだろう。だが、自民党および政権の理屈には論理のすり替えが含まれている。『沖縄タイムス』の拙稿では、次のように書いている。

「従来の政府解釈は、(1)「我が国に対する武力攻撃の発生」という外形的事実があれば、(2)「自衛のため」、(3)さすがの憲法も個別的自衛権だけは認めているという論理だったのに対し、かの閣議決定は「我が国の存立」とか「国民の幸福追求の権利」といった主観的要素を絡めてこの論理をすり替え、(1)「我が国に対する武力攻撃の発生」がなくても、(2)「自衛のため」であれば、(3)集団的自衛権が認められるとした」。

微妙に論理がすり替えられていることにお気づきだろうか。この問題は、自衛隊の合憲性の議論に帰着する。従来の政府解釈では、「憲法第九条の文言は、我が国として国際関係において実力の行使を行うことを一切禁じているように見える」(内閣法制局)が、「我が国に対する武力攻撃の発生」という外形的事実があればさすがに反撃してもいいだろうということで、国際法上の個別的自衛権よりも狭い個別的自衛権の概念を採用し(1981年6月3日衆法務委員会 角田礼次郎内閣法制局長官)、極めて例外的な要件のもとに自衛隊の存在が正当化されていたのである。単に「我が国を防衛するため」個別的自衛権を認めるという粗雑な論理ではない。「我が国に対する武力攻撃の発生」という論拠からスタートして、反撃を正当化する論理として個別的自衛権だけは認めるという論理であったのである。だが、安倍内閣は突然「固有の自衛権」から論理をスタートさせ、集団的自衛権行使を認める結論を引き出してしまっている。明らかな論理のすり替えである。そして、論理を「自衛のため」からスタートさせるため、「固有の自衛 権」について触れた砂川事件最高裁判決を無理やり引っ張ってきたのだろう。だが、砂川判決の引用は、藤田氏の指摘する通り、「全く的外れの議論」(論文18頁)である。

「変更(2)」に関して、藤田氏は、「何よりもまず、旧解釈が、政権が主張する国際的安保環境の変化により、憲法九条について「誤った解釈」であるというほど現状不適格のものとなったか否かが問題とされなければならない」、「現状の下でも個別的自衛権の行使によって十分対処できるという反対論からの批判に対し、政府が十分説得的な反論をなし得ていないのは、国会審議等から明らかなところである。」という(論文19頁)。ここはまったく同感である。だが他方で、藤田氏は、「この辺りの判断は、基本的に、国際政治論の分野の問題であり、安全保障政策の在り方に関わる問題であって、そのような判断の適否を法律学の分野で、果たしてまたどのような形で取り上げるかということは、それ自体、十分な検討を要する困難な問題であると言わなければならない」という(同)。だが、安倍内閣による閣議決定・安保法制という個別具体のケースについて、この指摘は適当ではない。

法律学の分野で政策や事実を法律論として取り上げるとすれば、当該法律の合理性を支える立法事実が存在するかどうかを審査することであろう。「法律をもって解決すべき何らかの社会的課題〔…〕の基礎となっている社会的事実」(山本庸幸『実務立法演習』商事法務、2007年4頁)を立法事実という。特に憲法訴訟論の文脈では、立法事実とは、「法律の基礎にあって、それを支えている――法律の背景となる社会的・経済的――事実」であり、このような立法を支える事実、すなわち「立法目的の合理性ないしそれと密接に関連する立法の必要性を裏付ける事実」および「立法目的を達成するための手段が合理的であることを基礎づける事実」に合理性がなければ、当該法律は違憲となる(芦部信喜『憲法訴訟の理論』有斐閣、1973年182-183頁)とされている。このような立法事実は「法律を制定する場合の基礎を形成し、かつその合理性を支える」事実であるだけに、その厳密な検討は極めて重要である。この点、大森政輔法制局長官自身は次のように述べている。「内閣法制局の法案審査に当たりましては、政策そのものの合理性、妥当性を審査の対象とする任務は直接には与えられていないということが言えようかと思いますが、政策遂行のための法制度としての合理性、妥当性を確保することを目的としながらも、御指摘のとおり、政策の合理性あるいは妥当性と法制度の合理性、妥当性というものは実際上は切り離せないものでございます。したがいまして、法案の審査に当たりましては、政策の合理性、妥当性につきましても十分に議論を重ねた上、審査を了しているということでございます。」(参議院予算委員会1997年3月10日)と。

今回の安倍政権による安保法制について決定的なことは、藤田氏のいう安全保障政策のあり方としていずれが適当かという議論をする以前に、そもそも安倍内閣が安保法制を必要であるとする立法事実が虚偽であり、立法事実が存在しないため、藤田氏の提起する国際政治論や安全保障政策の在り方といった政策的選択の問題にすらならないということである。今回の安保法制は、まさに藤田氏のいう「ある政治的判断を行うために欠くことのできない事項についての検討・説明を全く行わないまま(あるいは極めて不十分なまま)に立案されている」(論文19頁)と認められる場合である。

写真6

この点は、拙著『ライブ講義』で徹底的に指摘してきた。一例を挙げれば、「邦人輸送中の米輸送艦の防護」については、米軍は民間人の退避に軍艦・軍用機を用いないことを在韓米軍の資料を用いて示し、米国は非米国市民の退避の協定を結ばない方針であることを米国務省と米国防総省の資料を用いて示した(拙著90頁以下)。弾道ミサイル発射警戒時の米艦防護については、米国ミサイル防衛庁の資料等を用いて、自衛隊による米艦防護の必要性の論拠である、「弾道ミサイルにレーダーを集中しているとイージス艦の防護能力が低下する」という主張を崩した(拙著120頁以下)。ホルムズ海峡における自衛隊の機雷除去では、ホルムズ海峡の最狭部には公海がなく、国際通航路が全てオマーン領海内に設置されているため、イランがオマーン領海に機雷をしかけるという戦闘行為に及ばない限り、ホルムズ海峡の封鎖はイランが単独でできるものではなく、あたかもイラン単独でホルムズ海峡を封鎖することができるようなイメージを振りまいているのは極めて問題であることを示した(拙著139頁)。立法事実がそもそも 存在するのかという問題は、薬事法の距離制限を違憲とした最高裁大法廷判決(1975年4月30日民集29巻4号572頁)を引用するまでもなく、まさに法律論が取り上げるにふさわしい問題である。

「変更(3)」について、藤田氏は、「究極的に重要な問題」とし、「問題は、新解釈を「旧解釈の(許される)修正」の範囲内に止まると考えるか否かの判断に当たって、「量的な連続性」(安倍政権)があれば良いと考えるか、それとも「質的連続性」がなければならないと考えるか、という点に帰するということになりそうである。」(論文21頁)という。この点も、自衛隊の合憲性の問題に帰着する。「自衛隊は合憲である、しかし必然的な結果といいますか、同じ理由によって集団的自衛権は認められない」(内閣法制局)のであり、「自衛のため」に当たらない武力行使ができるように解釈変更を行うのであれば、「我が国に対する武力攻撃が発生した場合」だけは武力行使を認めるという「自衛」隊の存立根拠の説明に連動せざるを得ない。したがって、自衛隊の合憲性の根拠という問題を離れて、「量的な連続性」か「質的連続性」か、というフラットな法解釈の一般論を論じても何の意味もない。

藤田氏はまた、「自国に対する直接の武力攻撃は無いが、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃がなされていて、それが実質自国に対する武力攻撃と同じ意味を持つような場合(「将を射るには先ず馬を射よ」)であるとか、或いは、「自国に対する武力攻撃が引き続き起こることが確実であるような場合に行われる武力行使」については、どう考えれば良いのか、という点は、非常に微妙な問題となることを否定できない。「集団的自衛権行使違憲説」に立つ場合、それを徹底して貫くならば、上記のように、このようなケースにおいても先制攻撃に当たる武力行使は絶対に許されない、という考え方になろう〔…〕。ただ、その場合にも、「先制攻撃」とは何か、という言葉の解釈問題はなお残る」(論文22頁)という。

藤田氏は「非常に微妙な問題」というが、従来の政府解釈からは、「我が国に対する武力攻撃の発生」がない以上は武力行使は許されず、いわゆる「敵基地攻撃」の範囲を超えた「先に攻撃」は違憲なので、「微妙」ではなく、明瞭である。これを否定すれば、自衛隊の合憲性の論拠が崩れる。結局、藤田氏が「微妙」と考える前提には、「そうした危ない事態のときには、日本は何らかの武力行使をしてもいいのではないか」という、法の外にしか存在しない、藤田氏個人の主観的な価値判断、政治的な価値判断があるのではないか。

なお、私は、集団的自衛権行使は国際法上の「先制攻撃」ではないため、『ライブ講義』でも、「先制攻撃」という言葉を意識的に避け、実態面から、集団的自衛権の行使は、「先に攻撃」であるとしてきた。「先制攻撃」という言葉を安易に使うと、国際法における厳密な用語との混同が生じるので、不用意にこの言葉を使ってはならないのである。安保関連法案の審議中も、直言「「先制攻撃」と「先に攻撃」を区別せよ―参議院でのかみ合った審議のために」を出して、国会議員向けにアドバイスをした通りである。

さらに、藤田氏は、「一般に法解釈論上、ある原則について、およそ例外は何時如何なる場合においても一切認められないという硬直性を欠いた議論がされるのは、むしろ稀有なことであることにも、留意しなければならない。」(論文22頁)とする。一般論としてはその通りだろう。では、藤田氏は、「安全保障環境の変化」なり「将を射るには先ず馬を射よ」(同)なる軍事的な必要性のみではなく、法理論上の許容性の観点から、内閣法制局をして「憲法第九条の文言は、我が国として国際関係において実力の行使を行うことを一切禁じているように見える」と言わしめる厳格な9条の文言を前にして、法律の原則論に穴をあけられる理論的根拠を果たして提示できるだろうか。

上述したように、従来の政府解釈は、国際法上の個別的自衛権よりも狭い個別的自衛権の概念を採用し、極めて例外的な要件のもとに自衛隊の存在が正当化されていた。角田内閣法制局長官はいう。「個別的自衛権についても、その行使の態様については、わが国におきましては、たとえば海外派兵はできないとか、それからその行使に当たっても必要最小限度というように、一般的に世界で認められているような、ほかの国が認めているような個別的自衛権の行使の態様よりもずっと狭い範囲に限られておるわけです。そういう意味では、個別的自衛権は持っているけれども、しかし、実際にそれを行使するに当たっては、非常に幅が狭いということを御了解願えると思います。」(1981年6月3日 衆議院法務委員会)と。9条の文言がある限り、「我が国に対する武力攻撃の発生」がある場合に限ってその範囲内で個別的自衛権行使が認められると言わざるを得ず、国際法上の個別的自衛権行使すらそのまま認めるわけにはいかないというのが従来の政府解釈である。従来の内閣法制局は、9条の文言上自衛隊の合憲性を認めることが法解釈上容易ではないことを十分に認識していたため、「我が国に対する武力攻撃の発生」を武力行使禁止の唯一の例外としてきたのだろう。従来の政府解釈が自衛隊の合憲性について、「個別的自衛権」から論理をスタートさせるのではなく、「我が国に対する武力攻撃の発生」から論理をスタートさせているのは、9条の文言の厳格さゆえである。「自衛権」から論理をスタートさせると歯止めがきかなくなることは、戦前の自衛権行使の要件を解説した海軍大臣官房編『軍艦外務令解説』を読めば明らかだろう(拙著80頁以下)。藤田氏のいう法解釈論の一般論はここでは理由にならないのである。藤田氏は、「厳しく絞った筈の要件が、実はその実質において底抜けなのではないか、というところに問題が残る」(論文23頁)という。だが、まともな例外の要件が立てられないということは、例外がそもそも立てられないということだろう。繰り返すが、例外が立てられるはずがない。「自衛のため」に当たらない武力行使ができるように解釈変更を行うのであれば、「我が国に対する武力攻撃が発生した場合」だけは武力行使を認めるという「自衛」隊の存立根拠の説明に連動せざるを得ないからである。

最後に、藤田氏は、次のように木村氏を評価している。「仮に法案が成立してしまった場合に、その後始末をどうするのかということまでを視野に入れた場合には、問題は一層複雑となる。この点において、先にも取り上げた木村教授の「憲法の枠内での法整備を実現させるためには、提案者の発言から独立して、法案の文言を緻密に分析することが必要だ。そうでなければ、実際に自衛隊が活動する段階で、政府による勝手な法解釈を許し、「法治主義」による権力統制を不可能にしてしまうだろう」という指摘〔…〕は、その意味において、極めて重要であるように思われる」(論文24、25頁)。

だが、「後始末」の仕方としても、集団的自衛権を規定した存立危機事態の文言を「これは個別的自衛権を規定したものだ」と「合憲限定解釈」的に読み替える木村氏の主張が有効とは到底思えない。仮に、自衛官が集団的自衛権行使に関連して懲戒処分を受けて集団的自衛権違憲訴訟が最高裁に上がったとしよう。存立危機事態の文言について、最高裁が木村氏の「重なり合い」の主張を採用するとすれば、「9条の下でも自衛隊による個別的自衛権行使だけは認められている(=自衛隊は合憲である)ので、存立危機事態の文言は、提案者の意図はともかく、集団的自衛権を規定したものと解すべきではなく、憲法上認められる個別的自衛行使を規定したものと解すべきである」というような判断になるはずであるが、あまりにも非現実的である。最高裁はこれまで自衛隊の合憲性についての判断を避けてきたにもかかわらず、集団的自衛権行使が違憲であると判示するために、その前提としてわざわざ、個別的自衛権の行使は合憲=自衛隊は合憲であると判断するとはとても思えない。木村氏の主張は、自衛隊合憲論を前提にしており、自衛隊の合憲性判断を最高裁がいかに慎重に避けたかということに対する緊張感が欠けているので、法理論としてのみならず、訴訟戦略としても有効とは思えない。

最高裁が、憲法上個別的自衛権が認められているかどうかの論点を避けつつ、集団的自衛権を違憲と判示するためには、「憲法上個別的自衛権を行使できるかどうかはともかく、少なくとも憲法は、集団的自衛権を認めていない」という判示にならざるを得ないだろう。なお、「砂川事件最高裁判決は個別的自衛権行使を認めているので、最高裁も個別的自衛権の合憲性を前提とした判断を出せるから、木村氏の主張は正しい」という反論も出そうであるが、これは違う。砂川判決は、憲法9条により「わが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく」と判示したが、「我が国」による「武力行使」としての個別的自衛権については判示していない。当時、政府は、武力によらざる「自衛権発動の結果として安全保障條約を結ぶ」(1951年10月16日衆院本会議 吉田茂大臣)という論理を採用していたため、安保条約の締結が自衛権の発動であると観念されていただけであり、砂川判決のいう「固有の自衛権」は、自衛隊による「武力行使」である個別的自衛権とは全く関係がない。政府も、判決は、旧安保条約の合憲性についての判断に当たって「固有の自衛権」に触れたにすぎず、それ以上に「自衛のための措置をとること、この中身は言っておりません」(1968年3月16日衆院予算委 高辻内閣法制局長官)としている。一方で、政府は、自衛隊法は砂川判決に「合わせていえば」「これは見るほうの立場でございますが」自衛のための一つの措置である(同上 高辻内閣法制局長官)としており、「固有の自衛権」は個別的自衛権を含むというのは政府の理解にすぎないのである。

「最高裁の判決文なるものは、当該の具体的事案を離れて、学説のように一般的に妥当する理論ないし命題を定立すること自体を目的として述べられるものではないこと(参照、藤田『最高裁回顧録』)」(論文19頁)は判例の読み方のイロハである。砂川判決では旧安保条約の合憲性が問題となったのに、判決が「我が国」による「武力行使」である個別的自衛権行使を認めたものと考えることも、藤田氏の言葉を借りれば、「最高裁判例の解釈についての初歩的な誤りを犯すものであると言わなければならない」(同)だろう。誤解をしている論者が多いので、この点について詳しく論じた『集団的自衛権の何が問題か』(岩波書店、2014年)所収の拙稿「集団的自衛権行使が憲法上認められない理由」をご覧いただきたい。

藤田氏は、「憲法学は、その何に答え何に答えていないのかについて整理する作業だけは、少なくとも法律学者の誰かがしておかなければならない」という。以上述べてきた通り、藤田氏の提起した問題について私なりの回答を用意しているので、拙著『ライブ講義』を参照いただければ幸いである(一般の読者は、この「直言」の一部だけをつまみ読みして判断しないでほしい)。

昨年来、「7.1閣議決定」と安保関連法を批判する憲法研究者に対して、「学問的な批判ではなく、政治的な主張だ」といった非難が寄せられている。憲法学の内部でも、より学問的な9条論を展開すべきだという主張があらわれている(その一人、山元一氏の議論については「直言」参照)。そうしたタイミングで公表された藤田氏の論文については、若手研究者や大学院生などのツイッターに、「政治的ジャーナリズムではなく法律学的憲法学の議論として必読」とか、「集団的自衛権行使容認のような事態を阻止する憲法理論が前もってなかったこと、その点について実定法学としての憲法学によって法律学のルールとマナーとを正確に踏まえて詳細に詰められなければならないことを指摘〔している〕」、「行政法学のアナロジーを用いながら論点を分析するもの。政府・学者の意見を整理し、その根拠と限界を明らかにしていく。隅々まで目配りが行き届いた議論の運びに、最高裁裁判官は伊達じゃないと実感する」といった高評価が並ぶ。

最高裁「ピアノ伴奏拒否訴訟判決」(2007年2月27日第3小法廷)における藤田裁判官のすぐれた反対意見(これは「君が代訴訟」判決との関連でも重要な意味をもつ)や、2009年4月14日の痴漢事件無罪判決(あえて意見を付さずに無罪に賛成)について、この「直言」でも紹介してきた。裁量処分の司法審査に関連して「判断過程統制」という手法を開拓したことなど、学者としても最高裁判事としても、きわめて重要な足跡を残されたことへの敬意の念は当然ありつつも、この『自治研究』2月号の論文に関しては率直な意見を言わせていただいた。そこで指摘されていた「明確にして精緻な理論的説明」は、すべての憲法研究者にとって課題と任務であり続けている。ただ、安倍政権があまりに筋悪で、そうした論理を受け付けない憲法蔑視の政権であることから、そこに危機感を抱いて、多くの憲法研究者が理論的・実践的に声をあげ続けていることに対してご理解をいただけたら幸いである。

この政権が「7.1閣議決定」で行ったことは、立憲主義の根底を壊すものである。憲法研究者である以上、そこに特別の関心と学問的緊張感が求められる。「あれはなぁ、法律学やなくて政治をやっとるんやで」と冷笑するような憲法研究者は、81年前の天皇機関説事件後に、「『機関』という言葉を将来ともに使いません」と文部省に上申書を出した大学教授と同類になっていくのだろうか(直言「憲法研究者の「一分」とは(その1)」)。

トップページへ