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今週の「直言」

2025年12月6日


市政権は発足からまだ2カ月にもならないのに、“Japan Is Back — to the Past”とばかり、フルスピードで歴史を逆走中である。トランプに満面の笑みで迎合したかと思いきや、トランプにちょっとたしなめられただけで、その事実までも否定する。「存立危機事態」認定にあたって「戦艦」という言い間違いをしておきながら、広辞苑まで持ち出して閣議決定(答弁書) でそれを否定する。「厚顔無知」は、妻は私人であると閣議決定(答弁書) した「師匠」に勝るとも劣らない。等々、等々と、たくさん書きたいことがあるが、都合により雑談シリーズの第151回をアップする。前回は半年前で、「音楽よもやま話(36)」だった。今回は2019年から始めた「終活」の一環として、「山の仕事場の19年」を書き残しておきたいと思う。

2005年の偶然の連鎖

  2025年正月の「直言」で、「山の仕事場の方も近いうちに閉じようと考えている」と書いた。今月、これを手放した。19年前、八ヶ岳南麓に、中部ドイツの木組みの家(Fachwerkhaus)をモデルにした山荘を建てた。入口には“HUETTE ASAHO”というアイアンプレートを掲げた。“Ü”の文字がないと業者にいわれ、“UE”で我慢したのを覚えている。書斎から、四季の甲斐駒ヶ岳が一望できる。

  私自身、ある先生から「今度、蓼科の別荘においで」と誘われて、自分とは無縁の世界と思って聞き流していた。その私が仕事場を建てることになったのには、ネガティヴな事情を含めてたくさんの偶然が重なったことによる。2005年に起きた出来事で体調を崩して静養していたところ、たまたま早稲田大学フィルハーモニー管絃楽団会長のオファーが届き、練習合宿をやっていた河口湖まで行ったのがすべての始まりだった。帰りに立ち寄った小淵沢で、その日に売りに出されたばかりの別荘地を紹介された。眺望のすばらしさに感激して、ちょっと冒険だったがその場で購入を決めた。「出会いの瞬間風速」を感じたのだ。それもあって元気を回復し、ゼミ出身者が開いてくれたその年のゼミのOB/OG会で復活を宣言した(後に「水島会」という)。早大に着任して10年目の試練だったが、その後の18年間の教員生活は、この八ヶ岳南麓から再始動した。
   なお、定年退職後はここに住みながら、「八ヶ岳南麓からの直言」としてホームページを継続するつもりだったが、いろいろと事情が変わり手放すことにしたものである。

集中力回復の場として

  直言「雑談(58)「土」を考える」を書いたのは、ここを仕事場として活用し始めた頃のことである。当時は、金曜5限の講義を終えて帰宅するとすぐに、中央自動車道を使い143キロを走って八ヶ岳南麓に直行。火曜の夜に自宅にもどり、水曜2限の講義を行うという、政治家のような「金帰火来」に近い生活をしていた(『山梨日日新聞』2010年5月3日付参照)。

  授業や会議で満杯になった私の脳味噌が、高速を走りながらリセットされる。空気の肌感覚と匂いが東京とはまったく違う。夜遅く着いても、朝カーテンを開けると、冒頭の写真にあるように、甲斐駒ヶ岳がそれぞれの季節の顔を見せてくれて、疲労が吹き飛ぶ。いきおい、原稿書きもはかどるわけである。

 最初の頃は親指シフトキーボードのワープロ3台を自宅と研究室、そしてこの仕事場に置いて、3.5インチフロッピイディスク(80年代は5インチも使っていた)に保存して、それを富士通のパソコンでワードファイルに変換して、メール添付で送っていた。こういう手間隙かかるやり方をしていたが、親指シフトが流れるように文章を作っていく快感は捨てきれなかった(親指シフトの優位性はここをクリック)。親指シフトキーボード搭載のパソコンで原稿を書くようになったのは、ファイル変換にさらなる手間隙がかかるWindows 7を導入した2014年1月からだった。これに伴い、ワープロ専用機はすべて処分した。

 仕事場では、原稿を書くことに集中する。メールやネット情報で「思考の断続的な切り替え(スイッチング)」、原稿書き以外の情報の「ねじ込み効果」、その結果として「創造力の消耗」、さらには「記憶の減少効果」という、原稿書きに集中する上でのマイナス要因をすべて避けることができた(ヨハン・ハリ=福井昌子訳『奪われた集中力』(作品社、2025年)46-49頁)。私がSNSの「140字の世界」から距離をとる所以である。

  とりわけ、この仕事場がなければできなかったのが、共編著『長沼事件 平賀書簡―35年目の証言』(日本評論社、2008年) である。その第1部全6章は、この場所で、短期集中で書き上げた作品といっていい。主な資料は福島重雄・元札幌地裁裁判長への取材記録や裁判資料のほか、福島さんから提供された膨大な日記(訴訟開始から判決後まで)である。平賀健太札幌地裁所長といつ、どのように会ったのか。その後、所長を避けて会わないようにしていた結果として、平賀所長が裁判所の公用便箋で書いた手紙を福島さんに送り、それが「平賀書簡問題」として司法の大問題に発展したわけである。日記を読み込んで気づいた点を福島さんの確認を得ながら書き進めていった。

 とはいえ、日記は個人的な記録であり、他人が読むものではない。狸小路7丁目「富公」のラーメンが好きでしばしば通ったことなどが日記に出てくるが、こういう個人的な好みまで知ってしまった。しかし、長沼一審判決に向かう福島さんの心の変化を読み取っていくためには、日記を隅々まで読み込む必要があった(この点を評価してくれる感想はありがたい)。東京の自宅だったらいやになって、途中でやめていただろう。『戦争とたたかう―憲法学者 久田栄正のルソン戦体験』(岩波現代文庫、2013年) も、日本評論社版からの大幅削減、再構成の作業だったので、日常の生活のなかではなかなか進まなかった。院生の協力も得て、この仕事場で一気に仕上げた。

  「信玄棒道」は、私の思索を研ぎ澄ます散歩コースだった。歩きながら考えるというのは実に気持ちがいい。大きな声で「ひとり言」をいいながら歩く。自己対話や独白を超えて、思わぬアイデアを生む活力となる。歩くことは体の健康だけでなく、精神の健康にもよい。はじめの頃は腰に万歩計をつけていた(今はスマートウォッチ)。


「ながら音楽」の効用

    年末年始もずっと仕事場で原稿を書いていたから、元日は甲斐駒ヶ岳の黎明の紅を眺めつつ、富士山の横に登る初日の出をおがむ(直言「雑談(66)音楽よもやま話(10)元旦と「運命」」)。「魂の洗濯」をやってから、原稿にまた取り組む。「ながら音楽」流しながら。時には「朝比奈隆三昧」をやったり、ハイドン、モーツァルトからヒューゴ・アルヴェーン(スウェーデンの作曲家)まで16人の作曲家の「交響曲第1番」だけを聴いたりもした。自宅なら家族もいるし、こういう馬鹿馬鹿しいことはできない。

   「ながら音楽」についていうと、私が「冬の祭典」「夏の祭典」と称してきた定期試験の採点に、この仕事場は大いに役立った。1000枚を超える答案を、自宅で日常生活をしながら「しらふ」でつけることは困難である。政経学部の「法学A/B」の答案もここで採点していた(直言「雑談(118)今時の学生たち(3)―16021人の「法学」受講生」)。

  マーラーの交響曲第7番ホ短調の第5楽章などをガンガン鳴らしながら、一気に採点していく。法学部の教務課職員には、私が答案をこの仕事場でつけていることは知られていて、「水島先生はもうすぐ冬の祭典ですね」といわれたこともある。だが、採点をしながら、ストラビンスキーの「春の祭典」は流したことがない。また、ブルックナーの交響曲も採点には適さない。聴き込んでしまうと手が止まるからである。

   ところで、この「祭典」で役立った大量のレコードは、この夏、業者に二束三文で売った。カセットテープは、亡き父が録音したチェリビダッケ指揮のブルックナー交響曲第4番(1974年8月12日の演奏)を除いて、すべて不燃ゴミで処分した。

 

研究室合宿とゼミ「おでん会」

 2007年3月から、ここで研究室合宿を毎年行ってきた。ゲストルームは女性が使い、男性はリビングや書斎でざこ寝してもらった。研究合宿なので、参加者全員に研究報告をしっかりやってもらった。空気のよい非日常的な環境のもとで、教室や研究室での報告・討論よりも思わぬ方向に話が展開して、研究上とてもよい影響を与えたようである。それは参加した院生(大学教員になった人も参加した)がそれぞれ思い出として大切にしてくれていると思う。院生たちと夕食を一緒に作り、夜は近くの温泉に行った。私が院生時代にいわれたことを、自分で実践していたわけである。

   学部ゼミの「おでん会」は、2007年から毎年1月5日前後に、ここにゼミ生(卒業をまじかに控えた期)を呼んで実施した。2020年1月まで、ゼミ9期生から22期生まで、14回におよんだ。前日から妻と一緒にきて、富士見町のJAのスーパーなどでおでん種や大根などを大量に買い込んで準備する。ほとんど妻にやってもらった。食べ終わると、「信玄棒道」の散策に向かう。歩きながら、一人ひとりの進路や人生の相談をやっていく。研究室などでは聞けない悩みも聞いた。

   母が高齢になって、妻が家を何日もあけるのが大変になってきたところでコロナ禍になってしまった。2020年1月が最後になった。妻が事情でこれなかったので、私一人で学生たちを迎え、おでんではなく、焼き肉パーティにした。23期と24期の「おでん会」は残念ながら中止にした。コロナがあけたあと、25期は2023年3月の卒業式の前々日に、この仕事場で簡単な食事と「信玄棒道」散策だけを実施した(直言「雑談(136)水島ゼミ25年間の最終回」参照)。 
 なお、ゼミの「おでん会」は妻の協力なしにはできなかった。2007年から毎年の正月、妻には大変苦労をかけたと思っている。ありがとう。

 

いろいろなトラブルのこと―地震、台風、熊…

  この19年間に、八ヶ岳南麓の仕事場でも、さまざまな災害やトラブルを体験した。最大の思い出は、2011年の東日本大震災である。3月11日、一人で仕事場で原稿を書いていたところ、グラッ,と揺れて、いろいろなものが床に落ちてきた。震度5弱。停電になった。中央道とJR中央線が不通になった。アップする予定の「直言」の冒頭に、フォントと色を変えた一文を入れた。次の週の直言「これは真正の非常事態だ―地震、津波、火事、原発」では、グッズや本が散乱する研究室の写真をトップに使ったが、仕事場での私の「3.11」当日のことも書いた。

   一番ショックだったのは、2012年12月2日の笹子トンネル天井板崩落事故である。午前8時3分にそこを通過した車3台が、突然落ちてきた天井板に押しつぶされ、9人が死亡した。私は翌々日の立命館大学法学部での講演が控えていたので、中央道の渋滞が始まる前に帰宅しようと、午前7時に仕事場を出る予定にしていた。ただ、妻もやることがあるというし、次週の「直言」原稿をもう少し書いてからにしようと思い、少し出発を遅らせた。予定通り出ていたら、事故に巻き込まれていた可能性が高い。還暦を迎える年の「新年の直言」でそのことに書いている。事故後8年の「直言」でも、10年の「直言」でも触れている。私の体験した交通事故のなかで、最も背筋が凍った事故だった。なお、下り線の初狩SAを使うときは、犠牲者の碑に手を合わせている(写真は事故の慰霊碑)。

    大雪や豪雨災害もあった。「平成26年2月雪害」と呼ばれ、1度目は2月8日から9日にかけて関東地方が大雪になった。中央道が完全に閉鎖された。その時、携帯のカメラで撮影した写真が上記である。高井戸から諏訪まで185キロが雪で全面通行止めという表示は超レアではないか。この日は仕事場まで行かねばならない用事があったので、関越道から上信越道に入って小諸方面から小淵沢に向かった。仕事場の近くも雪で、スコップで雪をかき分けてやっと入ることができた。翌週の2月14日から15日にかけて、さらに降雪が激しく、甲府市は観測史上最多の114cmの積雪を記録した。この19年で最初で最後の大雪体験となった。

  2018年9月30日の台風24号の被害も忘れられない。私の仕事場近くにある白樺平分譲地に向かう道路が損害を受け、当該地域が孤立したのである。近くまで歩いていって写真に撮ったのが直言「災害における新聞の役割―衝撃的な記憶を記録」のトップに掲げてある。線状降水帯のような豪雨の破壊力のすさまじさを知った。

   仕事場にいると、主として日曜の朝、「有害鳥獣駆除」のアナウンスが近くの防災無線塔lから流れてくる。鹿や猿と出会うこともあった。庭に鹿の足跡が残っていたこともある。大群の移動と出くわしたのは、この写真にある2014年が最初で最後である。

 最近、全国的にクマの出没が深刻になっている。14年前に書いた直言「雑談(85)クマとの接近遭遇」 を書いた頃は、まだ「平和」だった。今は、クマの駆除に自衛隊の派遣が行われるほどに深刻な状況である。直言「星野道夫・最後の写真集のこと」では、クマと自然に付き合ってきた写真家が襲われたのは、テレビ局側の無理な取材方法があったのではないかと指摘した。直言「日本にも銃社会がくるのか?」を書いた17年前は、クマが人里に当たり前のようにあらわれることはなかった。「人を恐れない熊」が生まれる背景には、ハンターの不足や高齢化もあると指摘されている。クマ出没の増大は、「犯罪防止の観点から進められた銃刀法改正の思わぬ副次的効果」(『朝日新聞』2010年10月20日付(矢島大輔記者執筆))という面もあり、15年後の現在のクマ被害増大の背景は複雑である。

 

観光の拠点、さまざまな交流

  この仕事場を拠点として、長野や新潟方面などへの観光の拠点として活かしてきた。この夏、最後に向かったのは、松代大本営だった(直言「昭和天皇の「無駄な穴」―「松代大本営」を歩きながら考える」)。

  この周辺に別荘をもっている方たちとの交流もあった。非日常での語りは楽しかった。心残りは、同僚だった早川弘道さんの山荘を訪れることができなかったことである。高校の先輩でもあった早川さんは、2010年に63歳で急逝している。直言「早川弘道さんのこと」で、「山梨県北杜市武川にログハウスをもっていた。私の仕事場から車で15分くらいのところなので、一度、甲斐駒ヶ岳を眺めながらじっくり語り合おうと言っていたが、ついに果たせなかった」と書いている。  

  心残りのもう一人は、俳優の菅原文太さんである。2013年9月、レギュラーをもっておられたラジオ番組に呼ばれた際、雑談で八ヶ岳南麓に仕事場があるとお話すると、「近いうちに、是非農園にお越しください」と誘われた。その翌年の12月、菅原さんは亡くなられた。それから6年たって、菅原さんの奥様の文子さんからのお誘いで、菅原農場を訪れた。詳しいことは、直言「菅原文太さんのこと(その2)―八ヶ岳の農園にて」を参照されたい。

 この19年の八ヶ岳南麓の仕事場での「時間」は、私の人生のなかで、とても重要な位置を占めている。この仕事場は妻とともに建てたが、その維持、管理、生活面で妻には大変世話になった。改めて感謝したいと思う。

   2019年に始めた「終活」も、この「山の仕事場」の処分が終わり、「歴史グッズ」の行き先もほぼ決まって、最終コーナーに入っている。これからは、限られた「資源」を活かしながら、健康維持(栄養+運動)と認知機能の改善をはかりつつ、残りの人生の「充活」を進めていきたいと思う。今後とも、どうぞよろしくお願いします。

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「アシアナから」:カブールの職業訓練施設の一少年

Dieses Spielzeug wurde aus der Aschiana-Schule,
Kabul geschickt.

――「アシアナから」――

2002年のカブールの職業訓練施設で一少年が作った木製玩具。
肉挽器の上から兵器を入れると鉛筆やシャベルなどに変わる。
「武具を文具へ」。
平和的転換への思いは、いつの時代も同じです。
詳しくは、直言「わが歴史グッズのはなし(6)アフガニスタン」参照

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