難民問題が与えるさまざまな影響――ドイツからの「直言」(3)
2016年4月18日

《付記》

本稿をほぼ書き終えた時、携帯の画面にYahoo のニュース速報が届いていた。「熊本で震度7」。一瞬青ざめた。日本が真夜中でないことを確認して、すぐに熊本出身の元院生に電話をかけた。15日夜のテレビニュースが比較的長く伝えていた(写真)。ネット上でも通信社(DPA、ロイターなど)の情報を軸に、日本の「南の島」での地震のニュースを伝え始めた。「熊本地震」と名付けられたようだが、一刻も早い、徹底した救援態勢の確立が望まれる。菅官房長官が早くも憲法改正(緊急事態条項の導入) をいい始めたという〔webronzaで批判した(PDFファイル)〕。「震災便乗型改憲論」が再び、鎌首をもたげてきたようである。日本が心配である。

写真1

ンで生活を始めて3週間になった。ライン川対岸にある山の緑も少しずつ濃くなっている。家の周辺を歩くと、街路樹のマロニエの若葉が鮮やかである。白樺の若芽が風に軽やかに揺れている。ヨーロッパではいま、コウノトリが煙突の上に巣をつくるというニュースを見た直後に、窓の向こうをゆったりと飛ぶコウノトリを見つけた。夜は9時頃まで明るい。うっかり開けていた窓からコウモリが侵入して、寝室を飛び回っていたのには驚いた(写真)。

17年前にはドイツ到着の翌日にできたことが、時間と気苦労と忍耐を必要とするものになっていた。前回の「直言」のラストで示唆した住民登録が、滞在17日目にしてやっとできた。今回はその顛末を書く。

持参した1999年の手帳を見ると、前回は3月23日にボンに到着するや、翌々日の25日朝8時前には、娘を連れて3人でバート・ゴーデスベルク区役所に行っていた。書類の不備を指摘されて、すぐに引き返して再チャレンジ。少し待ってその日の午前中には住民登録が終わった。なぜかくも急いだかというと、引っ越し荷物(段ボール31箱)を日通に頼んでいて、住民票をファックスしないと荷物を引き渡してもらえないことになっていたからである。区役所を出て、近くのホテルのフロントで金を払い、日通にファックス。翌日無事引っ越し荷物が届いた。当時はネットもNTTドイツに頼んでその日のうちに開通していた。17年前の手帳はいろいろなことを思い出させてくれた。

写真3

写真8

今回、ネットは地元プロバイダーと契約したので、前回「直言」でも書いたように、ネット上での契約日より1週間多く待たされ、電話もネットも使えない状態が続いていた。日通もクロネコも、6カ月滞在では引っ越し荷物扱いにはできないということなので、今回は郵便局からSAL便を若干送っただけだった。それで住民票が前回ほど切実ではなかったという事情もあって、ややのんびりと、最初の週明け(4月4日)早朝に区役所に行けば住民登録はできるだろうと思った。この認識が甘かった。

区役所受付の男性職員は、「Termin(アポ)のない者は立ち入りを認めない」と冷たく言い放った。せめて登録用紙でもくれないかというと、アゴをしゃくって、「外の掲示を見ろ」という。さらに質問しようとすると同じことを繰り返した。仕方なくドアの外に出て掲示をみて驚いた。「市民サービスがコンパクトに」というタイトルで、2016年3月10日から市民サービスの提供日が木曜8〜18時と金曜8時〜13時になり、ホームページか電話によって予約した人のみ受け付けるという趣旨のことが書いてあった。「週にたった2日?!!」。思わず写真を撮ってしまった。受付の職員に、「パンフか何かで自ら説明しないのか、これが市民サービスか」と抗議しようとしたら妻に止められた。そこで電話をしようと周囲を探したが、かつてはどこにでもあった公衆電話ボックスがない。ネットも電話も開通していない状況だったので、中心街をあちこち探してようやく電話を一台見つけた(前々回の「直言」参照)。

写真4

硬貨を入れて区役所指定の番号にかける。機械的な音声回答で、「あなたのポジションは7番」という。意味がわからなかった。「7分待て」のことだと思ってしばらく待つと、「あなたのポジションは6番」ときた。すでに2ユーロ投じている。小雨が降ってきて屋根もないので、電話を切った。怒りと虚しさが込み上げてきた。たった半年の住民登録をするのに、何でこんな目に会うのか、と。それと、90日間はビザなしで滞在できるが、それを過ぎると外国人登録をして6カ月のビザをとらないといけない。それには住民登録確認証(Meldebestätigung)が必須である。きれいな花やライン川の風景の変化を日々感じながらも、頭には住民登録のことがひっかかっていた。

その3日後の7日、ようやく電話とインターネットが開通した。前回書いたように、書籍や必要な品々をネットで注文したりする快適な生活が始まった一方で、住民登録はまったく進展しなかった。まず、電話が開通したので区役所に電話をした。例によって「あなたのポジションは7番」ときた。書斎の電話なのでじっくり待つことにした。しかし5分たってようやく「あなたのポジションは6番」となった。これは待っている人数のことだとわかった。30分近くたって、「あなたのポジションは1番」となり、すぐ女性の声で「ハロー」ときた。「遅い! 」とどなりたい気持ちを抑えて、「ボン大学の客員教授で日本からきた。住民登録のために区役所を訪れる予約(Termin)をとりたい」というと、「14日と15日の8時以降に電話をしてください。わかりましたか」ときた。30分待って、あの区役所の掲示の内容を繰り返しただけだった。さすがに、「こんなに待たせてこれだけの情報(Auskunft)なのか」というと、「お気の毒です」(Tut mir leid)とすらいわずに電話は切られた。つまり、住民登録の予約を受け付ける担当者は木曜と金曜にしか来ない、自分は単なる電話番だということだろう。そこに多くの人々が電話をして、さんざん待って「木曜と金曜だけ」ということを知る現実。これが「市民サービスがコンパクトに」というコンセプトの実態だった。行政を「コンパクト」にして職員のリストラをはかる。だが、市民はこれだけの不便が強いられている。誰のための「コンパクト」なのか。言葉のもつ思想性を感じた。気を取り直して、これも開通したばかりのインターネットで、区役所のホームページにアクセスしてみた。今度は「びっくりボン」、だった。

写真9

2つの区役所は2017年1月まで見たが、住民登録の予約ができない状態になっていた。そこで、ボン市役所にアクセスしてみた。どこまでクリックしても予約がいっぱいである。試しに4月21日をクリックすると、予約済でどこもあいていない。一体、いつになったら予約できるのかとクリックを続けていくと、本稿を書いている時点で私が予約できる順番の最短は、7月25日10時45分から15時59分の間となった(写真)。これでは外国人登録ができないためにビザが出ないので、90日を過ぎた6月27日から私たちは不法滞在になってしまう。試しに、住民登録のところを確認して欲しい(サイトはこちら。Meldwesen→Anmeldung→窓の矢印を動かし2と入力、WEITERを順次クリック)。いま、これをお読みの方で、この操作をやって見たら、おそらくこの写真と異なり、8月の日付が並んでいると思う。たまに、少し前の日付に色が一箇所だけつくときがあるが、これがキャンセルのでた時である。

写真7

ボン大学でも、私が住民登録できないで困っていることを心配して、いろいろなアドバイスをくれた。ある人は、隣のボイル区役所は夜中0時を過ぎたところで予約ページにアクセスすると、キャンセルが出ていて住民登録ができると教えてくれた。また、別の人は早朝から並べばいいといってくれた。

しかし、この頃になると、私も地元紙でこの状況を把握していた。難民危機で市民サービスが影響を受けていることは昨年からのようで、その一端はこの新聞記事からもわかるだろう。見出しは「予約のための長蛇の列」である。難民問題への影響は、私がたまたま巻き込まれた住民登録の問題だけでなく、運転免許の更新やボン市民のパスポートなどにも及んでいるようである。地元紙には市民の投書が掲載されていて、その一つは、「私の娘はパリで働いているが、2月19日にスリにあってパスポートをとられた。緊急の状況ということで市役所の担当部署に電話したが、「緊急電話番号」(Notfallrufnummer)なのにずっと話し中でどうにもならない。この救いのない対応は、状況がいかに責任ある者にも手におえなくなっているかを示している」と結ぶ(General-Anzeiger vom 8.4, S.27)。年輩の女性で、いたって冷静な筆致である。しかし、私は冷静になっていられない。昨年11月1日から改正連邦登録法が施行され、家主のサインが必須になったことも知っていたので、事前に家主のサインをもらって周到に準備していた。滞在許可ではない。たかが住民登録である。なのに、予約がとれず住民登録ができない。

どうしようかと思い悩んでいたところに、ボン大学の外国人研究者対応のセクション(Welcome Center für Internationale Wissenschaftler) が援助してくれることになった。たまたま私と同じ時期に、早稲田大学の在外研究制度を使ってボン大学で研究を始めた教育・総合科学学術院(教育学部)の伊藤守教授も、ボン市の住民登録の手続で困っているということで、同じ日にこのセンターでお会いすることになった。伊藤教授とは早稲田の学内ではまったく面識がなかったが、著名なメディア研究、社会学の研究者で、その著作はすでに入手しているものもあって、こういう場面で知り合うことに不思議なご縁を感じた。伊藤氏の初就職が私と同じ札幌学院大学だったことも、ここで初めて知った(私の退職後で時期はずれているが)。

写真5

さて、ウェルカム・センターでは、担当のDress氏が、翌日早朝7時20分から一緒に並んでくれるという「アイデア」を出してきて、私は半信半疑だったが、とにかく朝早くから4人で並ぶことになった。だが、その夜のうちにDress氏の努力で事情が急展開。翌日昼過ぎには住民登録を無事終えることができた。市役所の待合室には、この写真にあるようなネットや電話でかなり前に予約ができた人々がじっと自分の番号が電光掲示板に出るのを待っている。外国人が圧倒的に多く、赤ちゃんを乳母車にいれた女性もいる。

早稲田大学はボン大学と大学間協力の協定を結んでいただけでなく、常勤の女性職員、A.-M.Springmannさんが勤務する早稲田大学ヨーロッパセンターがあって、長期にわたってボン大学やボン市、ノルトライン=ヴェストファーレン州とよい関係を築いてきた。残念なことに、早稲田大学はこのセンターを先月閉鎖し、Springmannさんも解雇された。私は閉鎖の噂は知っていたが、この時期、このタイミングで実施されることは知らなかったし、長年の彼女のご苦労を思うとき、申し訳ない気持ちでいっぱいである。お会いしたボン大学の教授たちも、お世話になったウェルカム・センター長も皆、残念がっていた。私はただお礼の言葉を述べるだけだった。

ベルギーのブリュッセルに早稲田は国際拠点を移すという「戦略」だそうだが、果たしてこの方針はどうなのか。信頼の蓄積で生まれた国際交流より、EU官僚により近いところに軸足を移すことにより大きな価値があるのか。「3.22」後のイメージダウンも大きい。

そういうわけで、4月12日に住民登録が終わり、次は外国人局にいってビザをとることが課題である。ホームページで予約を入れると、5月6日10時5分に予約がとれた。これで9月までの滞在が可能になる。一安心である。しかし、住民登録一つに、ここまで時間と気苦労と忍耐、そして多くの人々の努力と協力を必要とするのはなぜなのか。難民問題の複雑な影響だけでなく、ボン市固有の問題、すなわち1991年6月20日の首都決定(ライン川からシュプレー川へ)のあとに制定された「ボン・ベルリン首都移転法」の理念と現実の問題が背後にあるように思う。今年6月20日がベルリン首都決定の25周年なので、「直言」でも、おそらくベルリンまで取材に行って、詳しく書くことになるだろう。

(2016年4月15日稿)
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