再訪・政府核シェルター――緊急事態法の「現場」へ(その1)
2016年4月25日

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イツの新聞各紙を毎日数紙読んでいるが、エクアドル地震は死者の数が増えるたびに小さな記事になるのに、熊本地震の報道はほとんどない。久しぶりに日本の記事と思ったら、歴代切れ者の東京特派員を送っている『南ドイツ新聞』だった。国連の特別報告者(表現の自由担当)が「安倍政権のもとでメディアの自由が著しく脅かされている」状況を詳しく紹介していた。TBS「ニュース23」の岸井キャスターの名前も出てきて、この間のキャスター降板問題について掘り下げた記事だった。見出しは「日本の従順なテレビ経営者」となかなか厳しい(Süddeutsche Zeitung vom 20. 4. 2016, S. 6)。

熊本はどうなっているのか。友人の家族も住まいが断水し避難所生活をしていると聞き、とても心配していた。水洗トイレ用の水を確保するため、近くの中学校のプールまで何度も往復して水汲みをしたり、自転車で配給を取りに行き配ったり、偏った食事のために、口中に口内炎ができて難儀していると(22日からようやく住まいの方で水圧低めだが水が使えるようになり洗濯ができたが、ガスの復旧はまだで水シャワー)。娘の友人の妹は妊娠4カ月でつわりがひどく、駐車場にとめた車の中で寝泊まりを続けているという(4月19日現在)。

地震発生から14時間後の4月15日午前11時15分に、官邸はなぜか「全避難者の屋内避難」を打ち出し、熊本県の蒲島郁夫知事は「現場の気持ちが分かっていない」と反発したそうだ。16日未明にマグニチュード7.3の「余震」とはいえない地震(後に「本震」)がきた。崩れかかった家にもどって被害にあった人はいなかったのか。いろいろ探したが、「従順な」(fügsam)メディアのなかで、この問題について私が見つけたのは、『毎日新聞』西部本社16日付と『日刊ゲンダイ』の記事だけだった。

河野太郎防災担当大臣のブログ「ごまめの歯ぎしり」4月15日「熊本地震」にアクセスしてみると、政府や警察、自治体などの対応が時間刻みに並べられている。そのなかに、「午前11時15分、官邸の総理執務室でここまでの情報を集約して総理に報告し、総理からは屋外に避難している人を確実に今日中に屋内に収容せよという指示がありました」とある。当初、首相の現地視察が16日にも予定されていたというから、「確実に今日中に」という妙にせわしい「屋内避難指示」との関係もいろいろと推察されている。情報が少ないのでよくわからない。しっかりした報道がほしい。熊本城から直線で9209.31キロ(Google Mapによる)離れたドイツのボンで原稿を書いていて、それこそ「ごまめの歯ぎしり」をしている。

2013年10月の日本公法学会において、私は「緊急事態における権限分配と意思決定――大規模災害を中心に」という総会報告をして、それを早稲田大学編『震災後に考える――東日本大震災と向き合う92の分析と提言』(早稲田大学出版部、2015年)(PDFファイル)に加筆して掲載した。少々長いが、この機会にぜひお読みいただきたい。大規模災害が起きたとき、現行の災害対策法制をきちんと運用していけば十分に対応可能である。ところが、大災害が起こるたびに、政府・与党からは、憲法に緊急事態条項がないことの「不備」を指摘する声があがる。「…震災で人々の頭が真っ白になっているのを見計らって「改革」を行う。「惨事便乗型」手法(ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン――惨事便乗型資本主義の正体を暴く』〔上・下、岩波書店、2011年〕)の応用である。震災のどさくさ紛れで改憲を進めることは、ナオミ・クラインに倣って言えば、「震災便乗型改憲」だからである…」。いまは多くの人が使う言葉になったが、私は5年前にこの本が出版された直後にこのように指摘している

さて、先週末、朝日新聞の豊秀一編集委員がドイツ取材の途中に拙宅を訪れた。この機会に、「緊急事態法の現場」である、アール渓谷のBad Neuenahr-Ahrweilerにある「政府防空壕(核シェルター)」(Regierungsbunker)の見学をすすめてみた。拙宅から南西に28キロ、車で30分以内のところにある。近所に住む伊藤守早大教授と妻と3人で、豊さんに同行させていただいた。モーゼルやラインワインが白中心であるのに対して、アールワインは赤が主軸で、ワイン通にはたまらない場所である。周囲はのどかな丘陵地帯で、ぶどう畑がゆったりと広がる、その下にきな臭い施設はある。

1999年5月27日午後、当時の朝日新聞ボン支局長とともに、まだ一般公開されていなかった施設に特別に入ることができた。そのことを17年前の「直言」に書くとともに、『早稲田ウィークリー』874号(1999年7月1日)のミニコラムに、「核シェルターのママチャリ」として公表した。

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17年前と風景はまったく変わってしまった。広い駐車場と飲食のための屋台と机や椅子、清掃の女性が皿に0.5ユーロを置いていけと目で合図する仮設トイレ。完全な観光施設になっていた。何より、かつてあった監視塔の上層部がなくなり、冒頭の写真のような施設入口に変わっていた。入場料は大人9ユーロ、写真撮影希望者はプラス2.5ユーロである。『早稲田ウィークリー』の拙稿を見せて、この時記念撮影した職員は健在かと聞いてみたが、誰も知らなかった。確かコブレンツ財務局の職員で、ここの管理を29年やって当時すでに定年間近だったから当然だろう。

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ここは、1915年に鉄道のトンネルとして建設が始まったが、その後中止になり、V2号ロケットの秘密基地として使われ、米空軍の空襲から効果的に守られる軍事・軍需施設として活用された。戦後、ここが俄然注目されるようになったのは、冷戦の激化による核戦争の脅威である。1960年から1972年の間に、ここに正式名称「連邦憲法諸機関退避所」(AdVB: Ausweichsitz der Verfassungsorgane des Bundes)がつくられた。全長3キロ。全体が5つのブロックに分かれ、支道や排気道を含めると19キロにおよぶ。1997年12月に連邦政府はこの施設の閉鎖を決定し、1998年に売りに出されたが、買い手はつかなかった。2001年に埋め戻し工事が始まり、2006年にほぼ終了した。入口から200メートルまでの部分について、「記録の場所・政府防空壕」(Dokumentationsstätte Regierungsbunker)として公開が始まったものである。この写真は見学の「終点」で、この先は施設がすべて破壊され、もとのトンネルに戻されている。見学者は年間7万人という。週3日だけ開かれている(水、土、日の10〜18時。最終入場16時30分)。2009年度の「EU文化遺産賞」にも登録されている。

17年前は毒ガスマスクを貸与され、それを首から下げて入ったが、いまはない。冷戦記念館として空調を含めて完璧になったからだろう。黄色のヤッケを着た説明員の案内(Führung)を聞きながら見学する90分コース。パンフレットも解説も英語はない。年輩の説明員は私たちに、日本人向けに英語での説明はむずかしいと笑った。

緊急事態にどう対処するか。ドイツの憲法である基本法は、首相に緊急事態権限を直ちに与える仕組みを避けて、緊急事態においても徹底した議会関与を貫いた。その究極の場所がここである。いま、この施設はどのようになったか。そして、緊急事態における意思決定はここでどのように行われようとしていたか。冷戦時代、ここは12回にわたって、NATO軍の演習のために使われていた。それはどのようなものだったか。次回、詳しくレポートすることにしよう。

(この項続く)
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