再訪・政府核シェルター――緊急事態法の「現場」へ(その2)
2016年5月2日

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週はまともに晴れた日がなく、最高気温は一桁台だった。冬に戻ったようだとドイツ人も首をすくめる。4月26日は、突然音をたてて白いものが空から降ってきた。ボンの天気予報には「氷晶雨」とあった。その1週間前の暖かい日に満開となったRosenkirsch(日本の八重桜に近い)が寒さに震えている。17年前に生活した時の手帳をてがかりに用意した荷物のなかに冬物は少なく、冬服の着たきりすずめ状態である。27日の第2放送(ZDF)のニュースの冒頭は、「春通り」(Frühlingstraße)の標識に雪が積もっている象徴的構図だった(Süddeutsche Zeitung vom 27. 4. 2016, S. 30を使っていた)。もうしばらくはこの寒さが続くようである。

さて、先週に引き続き「政府核シェルター」再訪のレポートを続けよう。この政府核シェルターの正式名称は「連邦憲法諸機関退避所」(AdVB)で、「核戦争の要塞の残滓」であり、「ベルリンの壁と並ぶ冷戦の最も重要な建築物記録」とされている(後掲文献(1)7頁、以下同じ)。

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施設の入口は、入場料をとる受付や小さな展示室があって、観光施設の雰囲気である。だが、案内人とともに厚い鉄扉を入ると別世界となる。この扉が閉じられる時、外の世界はどのようになっているだろうか。おそらく見学者が共通に抱く感覚である。自家発電機、バッテリー室、放射能や化学兵器・生物兵器に対応できる空気清浄機…。使われている機器は、大きな真空管から電源コード、スイッチ、電球、ダイヤル式電話、事務所のタイプライターに至るまで、すべて60年代を感じさせる骨董品である(データは(1)50-57頁)。案内人がその一つひとつを、手慣れた口調で説明していく。17年前の訪問時にあった「核シェルターのママチャリ」もあるにはあったが、数は減り、タイヤをはさむ器具がなくなっていた(写真)。

放射能で汚染された外気と遮断する分厚い鉄扉の横の壁に、「注意!生命の危険!」とあって、警告灯が点滅し警報が鳴った時は指定の線より中に入るなという表示があるが、かつてはその意味をわからなかった。今回、案内人が各所に設置されているパソコン画面を起動させ、リアル映像で説明を補足するのだが、そこでは、「緊急事態」(核戦争)が起きたらこの扉がどう動くのかがしっかり映し出されて納得した。ものすごい勢いで扉が閉まるのである。つまり、駆け込もうとしたら挟まれて死ぬという速度である。「生命の危険」はそのことを警告したものだった。扉のこちらと向こうで世界が変わる。挟まれなくても放射能で死ぬのだから、扉のなかに早く入れた人たちだけが生き残る仕組みである。内部は完全密閉状態になるが、放射能に汚染された人がいた場合に備えて除染室が鉄扉のすぐ先にあった。驚いたのは、水の出るシャワーではなく、空気で放射能の塵などを吹き飛ばす仕組みだったことだ。水だと使用後に汚染水になり、処理に手間がかかるからだろう。3000人収容の施設にしては除染室が小さく、およそ核攻撃開始後に入ってくる人はいない(入れない)想定とみた。『テレビは原発事故をどう伝えたのか』(上丸洋一氏による書評)の著者である伊藤守教授がここで強く反応した。お互い多くは語らなかったが、私も同じ感想をもった。

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ここには3000人が収容可能で、897の事務室・会議室と986の宿泊室が備えられていた。連邦議会、連邦参議院、連邦政府、連邦憲法裁判所、そして州政府、各官庁の幹部、軍の高級幹部など、「選ばれし人々」が30日間生活できるものが用意されている。空気、水、温度、廃棄物など施設内を一元的にコントロールする管制室に入る。まるで60年代の戦争映画のセットのようなアナログ感満載である。

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3000人が30日間生きるための食料は、連邦軍の野戦用携帯糧秣(レーション)である。一箱3000キロカロリーで、1日のエネルギー必要量を満たすと案内人は述べていた。関係文献を見ると、巨大な料理用の釜や炊飯施設の写真が掲載されているが、見学コースにはそれらはなかった。案内人はこの軍用レーションの説明しかしなかったので、これで30日もつのかという声が、見学者の年輩の女性から出た。

前回の「直言」で写真を掲載した治療室の隣は歯科治療室である。案内人があごでしゃくって足元を見ろと私にいうので、私が気づいて思わず笑ったら、見学者からも笑いがもれた。虫歯をキュイーンと削るドリルは電動式ではなく、何と足踏み式だった。こんなドリルで削られたら、さぞかし痛かろう。ダスティ・ホフマン主演の映画『マラソンマン』(米国、1976年)のなかで、ナチス残党の歯科医がドリルで歯の神経をキュイーンと削って拷問する時、ていねいに手を洗ってからやるシーンがとても怖かった記憶があるが、なぜかここでそれを思い出し、身をよじった。どこでも歯医者はいやだが、核シェルターの歯医者なら尚更だ。

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この施設のなかで比較的大きな個室が連邦大統領の部屋である。ベッドのほかにロッカーと粗末な机が置いてある。ピンク色の応接セットが妙にリアルだ(写真)。オリジナルなので保存のためか、プラスチック製のカバーがつけられている。核シェルターのなかの国家元首の部屋がこれ(左写真)である。

案内人のあとに続いて階段をのぼっていく。このトンネルは2層になっていて、上階は居住スペースになっている。階段の途中には「喫煙禁止」の表示。放射能に汚染された外気と遮断された場所での喫煙は論外だろう。居住区の最初の部屋は連邦首相の部屋である(右写真)。だが、案内人はまったく解説しないで先へ進んでしまった。見学者のほとんどが気づかない。17年前に案内してくれたコブレンツ財務局職員はこの部屋の前で立ち止まり、小さなベッドを指さし、「ここが首相の部屋です」といって笑った。私を含めその場にいた人は、太ったコール元首相のことを想像して、彼がここで寝られるのかと笑ったのを覚えている。だが、今回はここをまったく無視。私一人が騒いでコール首相の部屋であることを知らせるが、気づいた人は少なかった。施設全体にいろいろな絵が掲げてあるが、ここにはコール元首相その人の絵が掲げられていた。それにもかかわらず案内人はスルーした。この施設があるラインラント=プファルツ州はコール元首相が小選挙区から出ていたので、もしかしたら案内人はコール支持者だったのかもしれないなどと勝手に想像していた。他のどうでもいい(と私が思う)ところでは雄弁に、延々と語って疲れさせた案内人が、この施設の見せ場の一つ(と私が思っている)をまったく解説せずに無視したのには驚いた。質問してやろうと思ったが、閣僚や高級公務員が相部屋の二段ベッドであまりに貧弱なので、こちらの撮影に気がまわってしまった。連邦議会議長や連邦憲法裁判所長官の部屋はどこかと聞くのも忘れてしまっていた。ただ、前回もそうだが、施設全体を埋め戻しているので、おそらく見学できるものとしては大統領と首相と、閣僚たちの部屋のごく一部しか残さなかったのかもしれない。

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軍事情報分析室に入る。作戦領域となる地形図が壁に貼られ、ワルシャワ条約機構軍やNVA(旧東ドイツ国家人民軍)の軍隊符号、自動車化狙撃師団や空挺部隊などを示す符合、部隊の運動や方向などを示す記号などが無造作に貼られている(写真)。これを地図上に並べて、図上演習(兵棋演習)を行ったものとみられる。17年前に入ったときは机などもそのまま置かれていたが、いまは展示室として使われている(写真)。入口近くにあった、施設内を移動するときに使う連結式電気自動車もここに置かれていた。

私が時の経過を感じたのは、施設全体が「記念館」となってしまったため、壁や部屋のなかにカリカチュア化された絵が多く掲げられていることだ。前衛画家がベルリンの壁に描くような絵が随所にあって、それがこの施設のリアリティを損ねている。施設を撤去して元のトンネルに戻した「最終地点」にも、鉄柵に黄色いアドラーのジョーク絵が掲げられ、その下に、旧東ドイツの国家保安省(シュタージ)が監視対象者の臭い(ハンカチ、靴下など)をびんにいれて保存し、それを犬にかがせて居場所突き止めるという原始的な方法が展示されていた。核シェルターになぜ、旧東のシュタージの資料なのかが理解できなかった。

合同委員会の写真

この施設で最も残念だったのは、かつて見学できた合同委員会が開かれる「本会議場」(Plenarsaal)が、見学場所から落ちたことである。これは5つある施設のうちのBauwerk6にあり、場合によっては博物館化するときに壊された可能性もある。

この「合同委員会」が開かれる「場所」の問題は、私がここを訪ねる最大の関心事である。ドイツ基本法は、対外的緊急事態(外部からの武力攻撃)の認定権をギリギリまで議会に与えた。緊急事態かどうか、どんな緊急事態かを認定する主体と、緊急事態において例外的権限を行使する主体を分離するというアイデアである。ヴァイマル憲法48条では、何が緊急事態かは大統領の裁量的判断に委ねられ、それに基づき大統領は7つの基本権の停止を含む強力な緊急事態権限を行使できた。これが濫用・誤用・悪用・逆用され、ナチスの登場を許したという反省から、現在のドイツ基本法は、その草案段階で存在した緊急事態条項(111条)を削除して成立した。そして、1968年に初めて包括的な緊急事態条項を導入した。その際、緊急事態の立憲統制は徹底したもので、この両院選出の48人の合同委員会〔非常議会〕(基本法53a条)がその3分の2の多数をもって緊急事態を認定し、かかる後に連邦首相が軍の指揮権を行使して緊急事態に対応するという仕組みが象徴的である(115a条1項、3項、5項、115a条e項)。この48人は、ボンが首都だった時代、ソ連がドイツに向けて核ミサイルを発射することが差し迫ると、ヘリコプターや車でこの施設に向かい、そこで会議を開くことになっていた(写真)。

ここは12回のNATO軍事演習で実際に使われた((6)105頁)。最初が1962年の「FALLEX 1962」でキューバ危機の1カ月前に14日間行われた。参加者の人数は第4回(1968年)までは不明だが、1971年793人、1973年1350人と増えていく。施設内に1987年の「Wintex/Cimex 87」演習の参加者の構成図が掲げられていた。

当初はNATO軍の純軍事的な性格のものだったが、60年代末頃から、軍民共同のとりくみになっていく。多いときは1500人の政府関係者、自治体関係者が参加した。「総合防衛」(Gesamtverteidigung)の構想の反映である((5)105頁)。内務省で民間防衛を担当していたK. Styzinskiは、NATO演習での民間防衛担当としてコメントを書いている。「基本法115a条の防衛事態の宣言にまでエスカレートする政治的緊迫が通常始まったとき、演習の予選が我々の仕事場で行われる」(文献(2)59頁)。

ところで、この施設における、最後の、12回目の演習になった1989年の「WINTEX/CIMEX 1989」。参加者は最大で2620人に達した。この演習は2月25日から3月9日までの13日間行われたが、その8カ月後に「ベルリンの壁」が崩れるとは、誰が予想できただろうか。

「壁」崩壊からまもなく27年。「前線国家」(Frontstaat)ではなくなったドイツにおいて、この施設は冷戦の遺物として「歴史遺産」的なものになっただけではない。その位置づけも微妙に変わっていた。

「2つのドイツ国家はいかに戦争を準備していたか」という問題意識から、東西ドイツの政府核シェルターの建設に関わった人物に、この施設について語らせる本を入手した。タイトルは『プランB――ボンとベルリンとその政府防空壕:冷戦についての東西対話』である(文献(6)参照)。東側にも、ホーネッカー旧東独国家評議会議長の核シェルターが存在していて、その実態についての研究も進んだ(文献(3)(4)参照)。これらは、東西ともに最高の国家機密になっていたのだが、実はお互いに手の内がわかっていたということもわかった。北朝鮮が核開発やミサイル発射で日本やアメリカを挑発するが、もしも核戦争になったら、国民の大半は死に絶える。三代目は核シェルターにひきこもるのか。その覚悟と準備がなくして、ミサイル発射でいきがる一方で、日本の三代目も「北朝鮮の脅威」を叫んで軍備強化に走る。日本もドイツの60年代のように政府核シェルターをつくるのか。

政府関係者がボンからこの核シェルターにやってくるとき、一人でくるのか。家族を連れてくるのか。これはタブーだった。思えば、2011年「3.11」で、原発事故対応にあたっていた経済産業省のキャリアが、会議の途中に抜け出し、家族に電話して、いますぐ羽田か成田に向かい国外に出ろと指示する。高級幹部用の公務員宿舎の車が一台もなくなった、という記述を含む若杉冽『東京ブラックアウト』(講談社、2014年)はリアルである。妻に読むようにすすめていたが、ボンに持ってきて「積ん読」状態になっている。この施設をまわりながら、私も再読したくなってきた。

先週の26日は「チェルノブイリ原発事故30周年」である。ドイツでは主要なテレビ局で比較的長い時間をさいて特派員レポートなどを伝えていたが、どこも必ず「フクシマ」のいまを同時に扱っていたのが特徴的だった。例えば、ニュース専門チャンネルn−TVは、マスクに線量計といういでたちの記者が、福島第一原発から1.5キロの地点に立って、興奮した口調で伝えていた。原発事故に対処するため核シェルターをつくれとは誰もいわない。原発事故で避難訓練をするが、どこへ逃げたら安全なのか。昨今の災害の実状では、鉄道・車・船で逃げる計画は難しいのではないか。チェルノブイリ30周年と、フクシマ5周年の年に「冷戦の遺跡」をまわりながら、いろいろなことに頭をめぐらせていた。


《現地で入手した参考文献》
(1)Bundesamt für Bauwesen und Raumordnung und Stiftung Haus der Geschichte der Bundesrepublik Deutschland(Hrsg.), Der Regierungsbunker, 2007.
(2)W. Gückelhorn, Die Geschichte des Bonner Regierungsbunkers im Ahrtal: Bau - Nutzung - Rückbau 1915-2007, 2. Aufl., 2009.
(3)J. Diester, Geöfnet: Geheimakte Regierungsbunker, 2009.
(4)J. Freitag/H.Hensel, Honeckers geheimer Bunker 5001, 2010.
(5)H. Hollunder(Hrsg.), Der Regierungsbunker, 2011.
(6)J. Diester/M. Karle, Plan B: Bonn, Berlin und ihre Regierungsbunker:Ein Ost-West-Dialog zum Kalten Krieg, 2013.
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