外国人管理の現場へ――安倍首相の欧州「首脳外食」を横目に
2016年5月9日

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週までの冬にもどったような気候とはうってかわって、快晴の日が増え、マロニエの花が満開となる季節になった。拙宅前のベートーヴェンアレー(Beethovenallee)にある15メートルはあろうマロニエの街路樹。17年前の秋、降るように落ちてくるマロニエの実(日本でいえば栃の実か)の衝撃で、私の車のフロントガラスにヒビが入り、レバクーゼンの修理工場まで修理に出向いたことを思い出した。そのマロニエの花が、秋に発揮するパワーを秘めて、いま、5月の風に揺れている。

冒頭のボン大学の写真は4月12日に一瞬晴れた時に撮影したものである。すぐに「冬」にもどり、ようやく、この写真を撮った5月2日から、日差しがまぶしい日々が始まった。半裸で寝ころぶ学生もいる。

さて、前々回の「直言」で、「4月12日に住民登録が終わり、次は外国人局にいってビザをとることが課題である。ホームページで予約を入れると、5月6日10時5分に予約がとれた。これで9月までの滞在が可能になる。一安心である」と書いた。だが、これが甘かった。

ボン市のホームページで印刷した「面会予約」(Termin)を印刷して外国人局(Ausländeramt)に赴くと、世界各地のさまざまな国籍の人々が待合室で順番を待っていた。10時5分近くになって指定された11番の部屋に行くと、そこの男性職員から、「これはEinladung(招待状)の意味で、順番待ちカードをとって待て」といわれた。そんなことはホームページのどこにも書いていなかった。かなり時間が経過してから順番待ちカードを取得する方法を知ったので、すでに17人も私の前に入っていた。不親切きわまりない。あまりにたくさんの外国人が登録に来るので、ホームページ上で1日の処理人数の目安をつけ、総枠を限定した上で、来た人から順番に受け付けるという「仕組み」のようだ。今年3月からは週2日しか住民サービスをしないと宣言した区役所の「コンパクトの思想」(写真)に通ずるものがある。

1カ月も待たされたあげくがこれかという思いで周囲を見回すと、みな不安そうな顔をしている。アラブ系の人たちがけっこういて、事情通らしい男が一人ひとりにアドバイスしている。手続きが終わると、その男と抱き合うように握手して、笑顔で出て行く。男は4、5名引率してきていた。部屋からうなだれて出てくるアジア系の女性もいる。何ともいえない雰囲気である。ようやく私の番号が電光掲示番に出たので、指定された7番の部屋に入る。女性の職員に挨拶したが、ニコリともしない。準備した書類を机の上に並べていくと、職員はさえぎるように、「申請書類が違う。Verpflichtungserklärung für Ausländer (経費負担誓約書)をつくり、出直せ」という。さすがに驚いた。ボン市のホームページの申請書入力フォームがやりにくかったので、在日ドイツ大使館のサイトでビザ申請用紙を見つけ、そこに経費負担の関係事項も含めて4頁にわたって入力して、それをプリントアウトして持参したのだった。亡くなった父の生年月日まで書かなければならず、けっこう時間がかかった。招聘機関であるボン大学アジア研究センター長R.Zöllner教授のサイン入りの招聘状、早稲田大学の経費負担の英文証明書、保険会社の英文証明書など、そろえるべき書類はすべて揃えて並べたのだが、申請書類の書式が違うので受け付けないという姿勢を崩さす、「6月27日11時にまたこい」という。ヨーグルト(500g入り)の食べかけがすぐ横にある。私は「ここでビザがとれないと、90日(ビザなしで滞在できる期間)が経過してしまう。遅すぎる」といって動かなかった。すると、彼女は「あなたはドイツで何をしたいのか」と聞いてきた。さすがにこのドイツ語は妻にも理解できたらしく、あきれていた。私は持参した書類をとにかく見てほしいと、門前払いの構えでいた彼女に、再度、ボン大学からの招聘状を見せると、彼女の態度が突然変わった。書類を手に部屋を出て行き、しばらくしてもどってくるなり、2階の103号室にいってください、と妙に丁寧になった。ドアを開けて2階に向かう。1階の待合室はかなり人数が増えていた。ブルカをした女性が疲れたように体を横たえている。

2階のその部屋はInternationale Einrichtungen(国際施設)というセクションで、国際機関で働く人たちを扱っているようだった。順番を待つ人は皆無で、1階とは別世界。表情豊かな女性職員は最初から笑顔で、書式が違うからだめだといわれた書類をそのまま使って、招聘状などの必要書類を次々にコピーしてとじていき、ものの10分もかからずにビザが発給された。 17年前は何の苦労もなしに申請ができたのに。7番の部屋でねばらずに、次回の予約をとっていたらと思うとヒヤッとした。

大学の同僚に聞いても、たいていはその国の大学関係者などのアドバイスで書類をつくり、申請しているようなので、私のようにあえて自力でやって、行政の対応を「体験取材」するというのはかなりリスクを伴うことを実感した。文化・芸術・研究などの目的で滞在する外国人のための配慮をしないと、グローバル化だ、国際化だといっても帰られてしまうだろう。

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それにしても、「ベルリン首都決定」から来月20日で25周年。この間、ボンの「凋落」(ほとんど省庁のベルリン移転、2万7000人雇用喪失など)が語られている(6日の州議会で与野党議員が激論とある[General-Anzeiger vom 7.5.2016, S.25])。外国人局の職員の定員も減らされ、私が申請にいった日は、11の部屋のうち4つしか機能していなかった(Raum5、6、7。11は料金支払いのKasse)。思えば、ベルリンに私が滞在した1991年もひどかった。ユーゴ難民の流入で、州住民局で私は長蛇の列のなかで2日かけて登録をしていた。私はいやなことはすぐ忘れる性格のようで、当時の手帳を見てみると苦難の文章が綴られている。連邦移民・難民局の統計資料を見ると(Frankfurter Rundschau紙のホームページより)、ユーゴ難民43万人が殺到した1991年と、シリア難民問題が激化した2015年〜という2回のピークに、私はドイツに滞在することになったわけである。

ちなみに、日本の法務省・入国管理局のサイトを見ると、「在留期間の更新許可」のところに、「英語版、中国語(簡体字)版、中国語(繁体字)版、韓国語版、ポルトガル語版、スペイン語版、タガログ語版については現在準備中です」とあった。独仏語はないようだ。申請人の資産状況や技能などを書かされる箇所があり(ガイドライン〔PDFファイル〕参照)、日本で日本人として生活している時はそこまで聞くかという世界が、外国で外国人として生活する時は露骨に調べられ、かつ質問される。どんなに国際化やグローバル化がいわれようとも、国民国家の最終的な一線は国境管理権として存在する。いま、EU諸国は難民問題をきっかけに、まさに「国家とは何か」の本質問題と向き合わされている。

先週公表された連邦統計局などの行った統計レポートによれば、ドイツに住む8108万人のうち、約5分の1にあたる1650万人が外国出自の移民だという。旧ガストアルバイターのトルコ系が600万人、そのあとから移住してきたのが420万人。さらに170万人が東欧のEU諸国から、90万人が他のEU諸国から、370万人がアフリカ、アジアなどそれ以外の地域からドイツにやってきている。そのなかでシリアとイラクの割合が急増している。平均年収を見ると、東欧のEU諸国からきた移民が一番貧しい。ドイツの国家給付や支援を受けている人の割合も高く、この記事の見出しは「移民は低く払い(税金のこと)、しかし満ち足りている」である(Frankfurter Allgemeine Zeitung vom 4.5.2016, S.15)。特に教育では、EUからの移民で大学入学資格をもつ者が55%なのに対して、ドイツ人は34%である。このあたりから、外国人排斥や極右運動の主張に一定のドイツ人が支持を表明する複雑な背景の一端が見えてくるだろう。

トルコに対してビザを免除して、シェンゲン協定の世界にトルコを含めるかどうかが先週大きな焦点となった。ドイツなどEU諸国は、トルコに対してジャーナリストへの弾圧や人権侵害をやめることをその条件として突き付けている。メルケル首相はいろいろな場面でむずかしい舵取りを求められているのだが、そんな矢先、何と安倍晋三首相が唐突にドイツにやってきた。ベルリン北方70キロのブランデンブルク州のMeseberg城(連邦政府迎賓館)で、超多忙なメルケル首相と「会談」「夕食会」を行ったというのである。

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ドイツのメディアはほとんど触れなかった。私は毎日のように新聞をとっているが、少なくともボンの新聞(General-Anzeiger)はコンサートの予定まで細密に読むので、見落としはない。一流紙のFrankfurter Allgemeine ZeitungもSüddeutsche Zeitungでも気づかなかった。日本の首相が訪独すれば、それなりに注目されるのだろうが、まったくもって反応なしだった。ベルリンの各紙を探したが、Berliner Morgenpost紙が5月6日に、ドイツでこれまた焦点となっている「TTIP」(日本のTTP)問題に触れた記事のなかで、安倍首相との会談のなかで、この協定を可能な限り早期に締結するという意向を示した、とあるだけである。かろうじて、ドイッチェ・ヴェレ(DW)というラジオ局のサイトに、安倍首相が拡張的財政政策を主張したが、これに対しメルケル首相は、構造改革、投資、金融政策のバランスのとれた「三和音」(Dreiklang)を主張したとある。安倍首相の強硬な「財政出動」は支持されなかった。

私自身、安倍首相がドイツに来たことをまったく認識していなかったが、6日朝の「NHK WORLD」をたまたまつけたところ、安倍首相の顔がチラッと出たので気づいた次第である。なお、このNHK国際放送はきわめて怪しい。外務省の文化宣伝局の役割を果たしている。ニュースも薄っぺらで、とても「報道」とはいえない代物である。これはまたいつか取り上げよう。

早速、安倍首相の「欧州歴訪」をネットでチェックしてのけぞった。「首相動静欄」によれば、こちらの時間で5月1日にフィレンツェでイタリア首相と会談・夕食会、2日にパリでフランス首相と会談・夕食会、3日にベルギーのブリュッセルで欧州委員長と会談・夕食会、4日、前述のようにベルリンでメルケル首相と会談・夕食会(庭園散策)、5日にロンドンでイギリス首相と会談・夕食会(庭園散策)、6日にロシアのソチ(保養地)でプーチン大統領と会談・夕食会、7日に帰国。ローマとモスクワでなく、観光地のフィレンツェと保養地のソチ。連休期間を税金使って首脳外交ならぬ、「首脳外食」をして歩いただけではないか。ドイツのメディアは冷やかだったが、日本からは、同行した岩田明子NHK解説委員「地球儀を俯瞰する安倍外交」といったヨイショ解説しか聞こえてこない。

わずかに『毎日新聞』2016年5月7日付が、安倍首相が、世界経済の再活性化に向けて「機動的な財政出動」が求められているとして支持を求めたのに対して、メルケル首相に「私は財政出動のフロントランナーではない」とかわされたことを伝えている。伊勢志摩サミットを3週間後に控えて、一国の首相が「一緒に飯でも食べましょう」と押しかけてきて、メルケル首相もさぞ迷惑だったに違いない。もともとフクシマ後の原発再稼働もあって、安倍首相にはよい評価も印象ももっていない彼女のことだから、なおさらだろう。

とうの安倍首相は、ノーベル賞学者のクルーグマン・ニューヨーク市立大教授を官邸の会合に呼んで話を聞いたが、そこでのオフレコ発言まで、この教授にネットで暴露されてしまった。そのなかに、安倍首相が「ドイツは財政出動の余地が最も大きい」ので、「訪独の際に財政出動を説得したいが、いい知恵はないか?」と同教授に聞いたことも含まれていた。教授には「外交の専門家ではないので」とかわされたという(『日刊ゲンダイ』3月31日)。メルケル首相には、前述のように「財政出動のフロントランナーではない」と逃げられているから、まさに語るに落ちるである。ドイツではそうした安倍首相の発言を含めて、メディアにほとんど無視されていたのが印象的だった。

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ともあれ、6日に何とかビザが出ると、快晴の日が続き、ドイツもChristi Himmelfahrt(キリスト昇天の祝日)を軸に連休ムード一色に包まれるなか、私の気分も「連休」モードになっている。7日は午後からボンの火祭Rhein in Flammenである。昼から踊りと歌のオープニング。夜11時15分からライン川沿いの大きな公園Rheinaueで華麗な花火大会となる。ライン川沿いの各地で断続的に行われる。住民登録やビザ申請で何度も訪れたボン市のホームページも、この行事の記述だけは楽しそうである。

大晦日のケルンでの大規模な女性暴行事件があったばかりなので、警察は厳重な警備態勢をとると地元紙にあった(GA vom 30.4/1.5 2016, S.24)。警備状況の取材もかねて、私も深夜にRheinaueまで行ってみた。花火が打ち上げられる11時15分前には、30隻以上の観光船が、「トラック野郎」のような派手な照明と音楽を鳴らしながら集結してきた(写真)。すごい光景である。打ち上げの高さが日本に比べて低く、また時間も20分と短かったが、ライン川を背景にした花火は華麗だった。9万に近い人々が集まると報道にあったが、あまりに広い公園のためと、ライン川沿いを歩いたので、警備車両はみかけず、救急車と消防の救助工作車が飲み水などを用意して待機しているのに出会っただけだった。8日1時前に帰宅した。

8日はドイツの敗戦記念日(「解放の日」)なのに、メディアにまともな特集が出てこない。私ですら、この「直言」で当初、「戦後71年のドイツから」という予定稿を準備しかけたが、来週にのばすことにした。かろうじて、テレビでは、第1放送で7日深夜11時40分から8日2時にかけて、ブルーノ・ガンツ主演のDer Untergang(日本では「ヒトラー最後の12日間」〔2004年〕)が放映された。テレビ欄を眺めても、日本の8月15日とはかなり距離がある。そのことを含めて、来週書くことにしよう。

《付記》
最後の画面右の写真は、この行事を大きく伝える、翌々日の地元紙General-Anzeiger vom 9.5.2016,S.1の写真と記事。
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