過去といかに向き合うか、その「光」と「影」(その1)――アルメニア人集団殺害決議
2016年6月6日

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ワーあふれる孫たちが帰国し、ボンの自宅に静けさがもどったと思ったら、今度は本物の嵐に見舞われた。先週から局地的豪・雷雨(Gewitter)で、拙宅前のバッハ=小川(Godesbergerbach)の水量が増し、大きな音をたて怖いほどである。ライン川も増水し、渡し船に乗るための階段まで冠水した(写真)。人々の会話でも“Unwetter”(悪天候)という言葉が飛びかうようになったが、毎朝新聞を買いにいく店の女主人は、“Sauwetter”(荒天?)といっていた。

30日から南のバイエルン地方などで被害が出て、6月1日にはノルトライン=ヴェストファーレン州にも被害が広がった。大衆紙Bildは「天候ホラー」(Wetter-Horror)という派手な見出しを掲げた。消防車まで濁流で押し流されるシーンは、「3.11」の津波を思い起こさせる。ドイツの住宅は頑丈なので、土石流に家財道具や車は流されても、家そのものは残る(写真)。日本なら寝ていた家族が家ごと流されて亡くなるというケースが多いが、死者は少ない(3日現在で7人)。フランスでも、35年ぶりにパリのセーヌ川があふれている。天気予報をみていると、大雨を集中的に降らす雨雲(画面では紫色)が突然あらわれて、その地域に停滞して被害を広げている。一昨年9月の広島市安佐南区の集中豪雨、昨年9月の鬼怒川大水害の際の「線上降水帯」という言葉を思い出した。これも気候変動のせいなのだろうか。

思えば、1997年7月、オーデル川の大水害があって、消防や連邦技術支援隊(THW)などの支援という形でドイツ連邦軍が出動して注目されたことがある。統一後、東ドイツ国家人民軍(NVA)を吸収合併して、ドイツ連邦軍として縮小再編していく過程での初の大出動が、「堤防を守る出動」だった。冷戦下で「米ソの先兵」として対峙していた二つの軍隊が一つになり、ひたすら土嚢リレーで積んでいく。ほんの数年前まで東ドイツ駐留ソ連軍の主力が展開していたブランデンブルク州の部隊が中心だった。ソ連崩壊で主要敵を失い、「守るべきものは何か」をめぐって動揺が生まれていた時期である。住民と故郷を守ったという実績を、統一後のドイツ連邦軍の士気向上につなげるとともに、海外派遣が本格化しつつあった時期だったこともあり、軍の活動の多様化という面でも実験例にされた。

いま書斎にしている部屋の窓下ほんの5〜6m先を流れる小川が「せせらぎ」からすさまじい轟音に変わったことに驚きながら、この原稿を書いている(注)。

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さて、先週はドイツで「過去との向き合い方」を問われる出来事が相次いだ。日本は6月1日に国会が会期末を迎え、7月10日投票の参議院選挙に向けて動き出しているが、5月27日の「合衆国大統領のヒロシマ訪問」をどう評価するかをめぐってさまざまな議論があることは承知している。ドイツのメディアでも、伊勢志摩サミット(G7)と重ねて比較的大きく扱われた。ドイツの「過去との向き合い方」の問題では、5月29日、第1次世界大戦を象徴する激戦「ヴェルダンの戦い」100周年の行事があり、独仏の首脳が墓碑に花を捧げた。6月2日には、ドイツ連邦議会が、1915〜16年のアルメニア人集団殺害をめぐる歴史的な決議を挙げた。いずれも「過去との向き合い方」という点で重要な意味をもつ。たくさん書きたいことがあるので、連載の形をとることにしたい。その第1回は「アルメニア人集団殺害決議」をめぐる問題である。

1915年4月、オスマン帝国によるアルメニア人(アルメニア正教会系キリスト教徒)に対する強制移住と集団殺害が始まる。強制移住の場所は、いまイスラム国(IS)が支配するシリア北部のアレッポである。「アレッポへの死の行進」で「100万人以上」ないし150万人のアルメニア人が死んだため、これを「20世紀最初のジェノサイド」として11年前に「直言」でも詳しく紹介した(直言「トルコの『90年前の現在』」 )。死者の数をめぐって、アルメニア側は100万以上あるいは150万人、当時のトルコ政府は約80万人、現在のトルコの公的歴史記述では30万人とされている。「わずか」30万人なのか、150万人なのか。南京虐殺をめぐる日本の議論と同様、「何人殺されたのか」という数の論争はむなしい。いずこでも、途方もない数の人々の命が失われたことだけは確かである。

これは100年前の「歴史」の問題だが、実は「現在」の問題でもある。11年前の「直言」で私は、「「過去」が未だに疼いており、「現在」進行形で問題化していること、それがヨーロッパの「未来」に関わる問題にも発展している」と書いた。11年たって、先週、連邦議会の決議という形で、この問題に一つの決着がついた。なぜ、連邦議会はこの時期、このタイミングで「歴史決議」を行ったのか。

決議案(Antrag)は、キリスト教民主・社会同盟(CDU/CSU)、社会民主党(SPD)の大連立政権与党に加え、野党の「緑の党」も加わった共同提案となっている。タイトルは「1915年と1916年におけるアルメニア人および他のキリスト教少数者に対する集団殺害を想起しかつ忘れないこと」(Erinnerung und Gedenken an den Völkermord an den Armeniern und anderen christlichen Minderheiten in den Jahren 1915 und 1916)。11年もかかったのは、「集団殺害」(Völkermord)=ジェノサイドという言葉を入れるかどうかで意見の違いがあったことと、何より当時のドイツ帝国の関与をどう評価するかという問題が大きい。6月2日、すべての会派が賛成し、ほぼ全員一致に近い形の決議となった。

決議は、「ドイツ連邦議会は確認する」という文言で始まる歴史的事実の確認の部分と、連邦政府に対する9項目の具体的要求、さらに背景説明を含む理由からなる。決議はまず、「オスマン帝国内におけるアルメニア人のほとんど完全な抹殺(Vernichtung)に通ずる、当時の青年トルコ政権の行為」を認定する。同時に、アルメニア人以外のキリスト教少数派の民族集団に対する国外追放と虐殺(Deportationen und Massakern)の事実も指摘する。次に決議は、「当時の青年トルコ政権の指図で、コンスタンティノープルにおいて、1915年4月24日に、100万人を超えるアルメニア人の計画的な追放と抹殺が開始された」として、それが20世紀の「大量抹殺、民族浄化、国外追放、まさに集団殺害(Völkermord)の歴史の手本となるもの」と書いている。ただ、決議はただちに、「ドイツの罪と責任に帰するホロコースト〔ユダヤ人大虐殺〕の唯一性(Einzigartigkeit des Holocaust)を自覚している」とつけ加えることを忘れていない。

決議はさらに、ドイツ帝国の恥ずべき役割について遺憾の意を表明する。「ドイツ帝国は、オスマン帝国の主要な軍事的同盟者として、アルメニア人の組織化された追放や抹殺について、ドイツ外交官や宣教師の側からも明確な情報を得ていたにもかかわらず、この人類に対する犯罪を阻止しようとしなかった」と。そして、「ドイツ帝国は、この一連の事件について共同の責任〔罪〕(Mitschuld)がある」と断定している(「理由」の方では、ドイツのいわば積極・消極、直接・間接の関わりについても言及されている)。

その上で決議は、「ドイツの特別の歴史的責任」の自覚の上に、トルコとアルメニアの歴史的和解と理解のために両国に対する支援を具体的に行っていくことを約束し、そのために必要な手だて、支援の方法、内容などについて細かく書いているが、これは省略する。決議の2つめの柱である連邦政府への要求は、この決議後半におけるトルコとアルメニアの和解と理解のために必要な課題や措置、行動について9項目を列挙している。この決議の最大のポイントは、100年前のアルメニア人虐殺を「集団殺害」(ジェノサイド)として、ドイツの議会が初めて認定したこと、そして当時のドイツ帝国の歴史的責任についても踏み込んで認めたことだろう。

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議会での討論に先立ち、N・ランマート連邦議会議長(CDU)は、「ドイツ議会は歴史委員会ではない。裁判所でもない。しかし、不愉快な問題やその答えを回避しようとは思わない」と述べた。その後の討論で共通に指摘されたことは、この決議が決してトルコを断罪することを目的としていないということである。「我々にとって、トルコをさらし柱につなぐ(an den Pranger stellen)ことが重要なのではない」(F・J・ユングCDU副議員団長)という言葉がこれを象徴している。ユングは「我々は、オスマン帝国の当時の主要な軍事的同盟者たるドイツ帝国の共同責任(Mitverantwortung)をも明確にする」と述べたことは、ドイツ保守派の歴史認識の水準を示すものといえようか(日本のそれとの比較においてだが)。

なお、討論のなかで最も注目されたのは、「緑の党」のジェム・エツデミール(Cem Özdemir)共同党首の演説である。「我々が過去におけるこの恐るべき犯罪の共犯者(Komplitze)になったことは、今日においてその事実の否認者(Leugner)の共犯者となることを意味してはならない」と述べつつ、ドイツにとって、「アルメニアとトルコを、友好から和解へと目覚めさせていく歴史的義務」があることを強調して、全会派からこの日一番大きな拍手を受けた。左の写真は、彼を正面に据えた新聞の写真(General-Anzeiger vom 3.6, S.4による)を、拡大したものである。両親ともにトルコ人で、20年近い連邦議会議員歴をもつ彼が、自らの出自を踏まえ、強い決意で決議賛成の挙手しているのがわかるだろう。

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この決議がなされた瞬間、傍聴席の一角に座っていたアルメニア人たちが一斉に、「〔私たちの主張を〕認めてくれたことにいま、ありがとう! をいう」という紙を掲げた(右写真)。これを報じた新聞は、「議院規則に違反して」というキャプションをつけた(Frankfurter Allgemeine Zeitung vom 3.6, S.1)。連邦議会議院規則では、傍聴席での発言・示威行動などはすべて禁じられている。だが、議長は傍聴席に対して何の注意もしなかった。

ところで、この日の議会には、メルケル首相、ガブリエル副首相(経済・エネルギー相、SPD党首)、シュタインマイヤー外相、ショイブレ財務相、フォン・デア・ライエン国防相ら主要閣僚がことごとく欠席した。それぞれが理由のある「公務欠席」だったが、緊急性を欠く用向き(ガブリエル副首相の例)もあって、連邦政府としてかなり無理をしてトルコ政府に「配慮」を示したことがわかる。他方、決議がなされると、エルドアン・トルコ大統領が抗議するとともに、ただちにベルリンから駐独トルコ大使をアンカラに召還した。一方、トルコ首相は、トルコとドイツの友好関係に変化はないと記者会見で述べた。

ここで、最初の方で投げかけた論点、すなわち、ドイツ連邦議会はなぜこの時期、このタイミングで「歴史」決議を行ったのかについて短くコメントしておこう。11年前の「直言」では、背景として、「トルコのヨーロッパ連合(EU)加盟問題」と「ドイツに住む4万人のアルメニア人とトルコ人との和解の重要性」について指摘していた。エルドアン政権の権威主義的で強圧的な政策から、「EU加盟」は当時と違ってほとんど考えられなくなった。トルコに対するビザ免除の動きもほとんど止まった。報道の自由を抑圧するエルドアン政権に対してEUは厳しい対応をとっている。いまエルドアン大統領の「お友だち」はヨーロッパにはおらず、報道の自由に抑圧的な仲間として、日本の安倍晋三首相がいるだけである。

その安倍首相とそりの合わないメルケル首相の場合、難民の大量流入を止めるためにはトルコとの関係維持がどうしても必要という現実的事情がある。これまでも非難されるのを承知でいろいろとエルドアン大統領との関係を保とうとしてきた。ここにきてトルコとアルメニアの和解の促進というポジティヴ路線を、むずかしい歴史問題に決着をつけて行うというのがメルケル政権の戦略的狙いではないか。政府間の問題にしないために、与野党共同提案の議会決議の形をとったのはそのためだろう。閣僚たちの「集団欠席」はそのあたりを踏まえての戦術かもしれない。

ドイツ政府にはもう一つしたたかな狙いがあるように思う。ドイツが対外的に「普通の国」になる条件は歴史問題の解決である。ナチス問題のみならず、ナチス以前のアルメニア問題におけるドイツ帝国の関与までしっかり総括しておくことによって、ドイツの「過去の克服」は最終段階に入ったといえるだろう。先週の議会討論では、帝政ドイツ時代の南西アフリカ植民地(現在のナミビア)のヘレロ族とナマ族大量殺害の問題に決着がついていないことについても指摘された。12年前の「直言」で、戦後60年を前にしてドイツ政府が展開した「記念日外交」について書いた際、このアフリカ植民地の虐殺問題(1904年8月11日)についても指摘した。ドイツ連邦議会は、いずれこの問題についても決議を行うのではないかと私は推測している。

1948年「ジェノサイド条約」(集団抹殺犯罪の防止及び処罰に関する条約〔Genocide Convention〕)2条において、ジェノサイドとは、「国民的、民族的、人種的、宗教的な集団の全部または一部を破壊する意図をもって行われる次のような行為と定義される。(1)集団構成員を殺すこと、(2)集団構成員に対して重大な肉体的又は精神的な危害を加えること、(3)肉体の破壊をもたらすために意図された生活条件を集団に対して故意に課すること、(4)集団内における出生を防止することを意図する措置を課すること、(5)集団の児童を他の集団に強制的に移すこと、である。アルメニア側は一貫してこの「ジェノサイド」という言葉に固執してきた。議会がこの立場を正式にとったことにより、ドイツは「過去」について自らも律した上で、世界のどこかでジェノサイドが行われた場合、将来的にその国(地域)に介入する「資格」を得たと考えているのではないか。その点、『南ドイツ新聞』の評論「介入への義務」は、連邦議会のアルメニア「集団殺害」決議と、国際法上の「内部問題不干渉原則」〔国連憲章2条7項〕とは対立しないとする。ジェノサイドのような特別の理由によって正当化される事態が起きた場合、「不干渉原則は介入原則によって補完される」というわけである(Süddeutsche Zeitung vom 3.6, S.4)。かくしてドイツは、「保護する責任」(Responsibility to Protect)を果たすために、時には軍事力を用いる資格を完全に得るということだろうか。その意味では、「過去」や「歴史」に対する誠実な姿勢だけではない、国際政治の生々しい側面がそこにある。「光」と「影」とした所以である。

ちなみに、アルメニアは301年に世界で初めてキリスト教を国教にした国である。イスラム教の国々に囲まれながら、独特の文化をはぐくんできた。その一端は、水島ゼミ15期生の伊藤綱貴君の実体験のなかにもあらわれている。「…アルメニアの国境越えの際も国境を越えた途端みんなスカーフを取り始めた。おまけに若者が急に話しかけてきて「おまえは神を信じるか?」なんて聞いてくる。イランではこの手の宗教的な質問が来ると、地雷を踏まぬよう、フワリフワリと核心を避けて答えるようにしていたのだが、こいつはなんと「おれは信じないぜ」と自慢げに語り出す。…」(直言「雑談(95)今時の学生について(1)―シルクロード一人旅」)。

次回は、「ヴェルダンの戦い」100周年と「合衆国大統領のヒロシマ訪問」について書くことにしよう。

(この項続く)

(注)本稿脱稿直後、6月4日20時(日本時間5日午前3時)過ぎ、ついに「小川」(Godesbergerbach)が氾濫。すぐ隣の道路が閉鎖された隣家の庭が冠水。消防が出動して、半地下の住居に住む人々の救援にあたっている。ついに拙宅の前に消防の水害対処部隊が集結してきた。連邦技術支援隊(THW)のブルーの車両はもっと下流地域にいっているのだろうか。書斎の下をチョロチョロ流れていたBach(小川)が、いま、すさまじい濁流となっている。ドイツにまできて、水害に巻き込まれるとは思わなかった。
(追記)6月5日午前6時(日本時間同13時)になって水かさが下がってきた。拙宅の地下室は無事だったが、近所で地下室に浸水した家や、庭が完全に冠水した家が心配である。
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